第十二話 彼女の手には余ること

「……伊勢、あんたねぇ……」


 式部の、その呆れたような、腹立たしさを抑えるかのような声に驚いて、外記は目を丸くする。


 何事かと他の二人を見た。

 衛門は外記と同じような困惑の表情を浮かべている。


 しかし、伊勢は眉を強張らせて顔をしかめ、にわかに立ち上がって式部に相対した。しまった、とでもいうような表情をしている。


「あんた、尼君様への文遣いは済ませたんでしょうね?」

「……まだ」

「ったく、何やってんのよっ」

「…………忘れてた」


 その短い文脈で、伊勢が粗相をしたのだと理解する。頭ごなしの強い調子に、さすがの衛門も口を挟みかねている。――文遣い?


「ここにいたのね、伊勢」


 式部の背後から落ち着いて、よく通る声がした。

 外記はいくらか身を堅くする。顎を引く。衛門も気づいて背筋を伸ばした。


「……、すみません、宰相の君」


 伊勢はそれまでの快活さが嘘のように縮こまって俯き、こわばった口元に力ない言葉を吐き出す。

 宰相の君はそれには答えず、ひとしきり一同と外記の局とを見る。局の中は、食い散らかした唐菓子と、琵琶が投げ出されている。外記は内心で冷や汗を覚えた。


「式部、ありがとう。助かったわ」

「いえ、宰相の君」

「御前に戻っていてくれるかしら?」

「ですが……っ」


 式部はちらりと横目に伊勢を睨む。伊勢も頑なになって式部を見返す。


「姫様にご用がおありの時に、貴女がいてくれた方がいいわ」

「……わかりました」


 式部はまだ伊勢をとっちめ足りないという風情があったが、宰相の君のねぎらいを背にして、来たように戻っていった。


「伊勢、こちらへ」


 厳しい調子ではなかったが、名指しされて、伊勢は小さな肩をさらに竦める。宰相の君は他の二人には構わず、伊勢をいざなって局を出ていった。


 宰相の君が去った瞬間、衛門が、はぁー、と詰めていた息を吐いた。


「はぁ、いきなりだったから、びっくりしたわね」


 緊張を解いた衛門には答えず、外記は別の問いをする。


「――ねえ、尼君様への文遣いって言ってたわよね、式部」

「ええ、姫様からのお文よね。伊勢、運ぶ途中で忘れちゃってたみたいね」


 同じ邸内であっても、文渡しすることはままある。しかし、こちらの主人たちがどれほどの頻度でやり取りをしているかはわからなかった。だから、これは、千載一遇のチャンスなのかも知れない――。


「外記!?」


 返事もせずに、唐突に局を飛び出した外記に衛門は驚きの声を上げる。それには構わず、外記は宰相の君と伊勢が連れて立った方向に廊下を追う。


「――――よね」

「……はい……すみません」


 角の向こうから会話が聞こえて足を止める。そっと音を立てないように近づいて、こっそりと顔を覗かせて先を窺った。


「叱るつもりではないわ。けれど、よく聞きなさい。前にも言ったけれど、貴女は、一つのことへの注意を保ち続けることが難しいわね」

「はい、もっと……自分のことに注意向けていなさい、って」

「ええ。だから、役目を負ったら、終えるまでは余所事に気を向けないように気をつけてきた。けれど、それで上手くいかないのならば、また別の工夫を探さないと」

「そうです……上手くできなかった……」

「伊勢」

「……はい」

「できないことで己を責めても意味はないのよ」


 突き放すような宰相の君のその言葉に、伊勢は絶句した。

 外記はそこまで聞くと、思い余って飛び出す。


「あの! すみません! 宰相の君」


 宰相の君がふり返って外記を見た。冴え冴えとした容貌。背に羽衣を負うかのような品のある佇まい。外記の内心を見透かすようなぬばたまの瞳。

 女房として、凡そ必要充分な要素を満たした人物を前にして、外記は怯みそうになる。しかし、耐えて己を奮い立たせた。


「伊勢を引き止めていたのは、わ、私ですっ。伊勢は悪くないんです」

「――そう」

「はい、申し訳あり、ませんでした。尼君様へは私が、文をお渡しして……きちんと申し上げますので」


 口ごもりながらなんとか言い募るが、予想した宰相の君からの反発がなければ、さらにその手応えのなさに、調子を狂わされる。


「だから、……私が行ってくるよ、伊勢」


 焦りつつ、伊勢を見て、姫君に任せられた文を受け取ろうと手を差し伸べる。しかし、萎れた伊勢は外記に目を合わせず、身じろぎもしない。宰相の君が感情の見えない眼差しで外記をじっと見て、口を開いた。


「よしなさい、外記。これは伊勢に与えられた役目よ」

「……」

「伊勢、行きなさい。行いの不始末を自ら取り戻せるなら」

「……行きます」


 底意地の悪い物言いだ、と外記は顔をしかめる。しかし、促された伊勢は子兎のように跳ねると、外記の脇をすれ違って去っていった。


 あえなく見送って、外記は臍を噛む思いになる。

 気を落とす伊勢を気の毒に思ったのは事実だ。しかし、それ以上に尼君の手蹟を手に入れる機会を逃してしまった。落胆を禁じ得ない。ようやく尼君の手蹟への手がかりを掴めそうだったというのに――。


「さて、もう一人隠れているのかしら?」


 宰相の君に問われて、廊下の角に隠れていたいた衛門がおずおずと姿を現す。装束の裾が覗いていたらしい。


「衛門、箏の琴を持って御前へ伺候してほしいの。姫様が楽をお望みだから」

「はい。わかりました」


 衛門が頷いて身を翻す。そのやり取りを力なく横目にしていた外記も、琵琶を取りに戻るため、のろのろと後に続く。


「ああ、外記。貴女には別件があるわ」

「……はい?」


 虚を突かれて立ち止まる。ヒヤリとした。女房の輪からはじかれた過去の状況の類似に触れた気がして。ギクシャクとふり返ると、宰相の君に真正面から見られてたじろぐが、意固地を通して見返す。


「なんですか?」


 弱みを見せまいとした結果、言葉尻を殊更に角立ててしまう。外記、と小声の衛門に肘でつつかれる。


 宰相の君は二人の年若い同僚の様子に頓着することなく、口を開いた。


「伊勢を迎えに行ってもらえるかしら? 尼君様から頂くお文を、確実に姫様の元へお届け申し上げられるように」

「――え?」


 何でもないことのように言う宰相の君に、外記は困惑する。つい今しがた、己が言った言葉を忘れたのだろうか、不始末は自分一人で追うべきだと。


「手隙ではないかしら」

「! 行きます」


 イヤミだ。外記達が局で遊んでいたと知っている筈なのに。

 しかし、外記には熟考している余裕はない。速やかに身を翻す。逸る心をギリギリ抑えて、ほとんど駆けるように。

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