第二話 琵琶を憎む

 肩の痛みが去るまで待って、今度は慎重に琵琶を取り、懐に抱く。

 反対の手で胴を抱えると、弦を掛けた覆手ふくじゅの部分に指先が触れる。胴に対して湾曲したその小さな板には、ばちが差し込こまれて収納されている。


 透けて艶のあるべっ甲で作られた、美しい撥。


 にわかに激情に駆られ、木葉はそれを、勢いよく抜き取った。


「……っ!」


 祥姫に贈られた、木葉には分不相応なその品を、投げつけようと衝動的に振りかぶる。


『――ほら、これをそなたに。美しいでしょう? 皆には内緒よ。そなたにだけ』


 冷たいつめたい、木葉の美しい主。

 

 捨て去ろうとして、しかし、半ばで気持ちが萎えて、なし得ない。

 おずおずと手を下ろし、覆手には戻さず、唐櫃の蓋を細く開けた隙間から乱暴に滑り込ませた。


 振り払うように踵を返して、局を出る。

 そこで、思いがけない人物に行き当たった。


「……朝顔あさがお


 偶然通りかかった、という風情ではない。

 しかし、険しい顔のその女房は、木葉を見とめると、不快そうに顔を背けた。


「……朝顔、ねえ、なんで。貴女よね、祥姫様に男君を手引きしたのは」


 木葉は思わず、相手に詰め寄る。


 大納言から断罪された後、事情を探ってよくよく考えると、祥姫に男君が通っていたのは、木葉が祥姫と二人きりで碁の対局をしていた夜ばかりだと気づいた。

 そしてその夜ごとに、祥姫の寝支度と宿直とのいをしていたのは、決まって朝顔だった。

 それを告発しようにも、碁の対局は他の女房を下げて行われたので、余人には事実を知り得ない。木葉自身の信用が失墜した中、無実を訴えても誰も話を聞きはしない。


 そしてなによりは、祥姫は誤解を解かなかったということだ。もちろん朝顔も。それがすべての答えで、祥姫の心だった。二人が口を開かない以上、木葉になす術はない。


「なんで言ってくれなかったの?」


 保身に走った者に対して愚問だが、質さずにはいられない。


 すると、それまで無言で睨んでいた朝顔の目だけが動いて、木葉の抱く琵琶を見る。

 次の瞬間、琵琶を跳ね除けるように押され、危うく取り落としそうになった。肩の怪我を意識して、常よりしっかり抱えていなかったら床に落としていただろう。


「なにするのよ」

!」


 唐突にいきり立った朝顔の声に、憤りを覚えていた木葉の方が息を呑む。


「……なに」


(……いい気? 何言ってるの?)


 今の木葉の気分にそれ程不似合いな言葉もないだろう。十年以上に渡り、物心ついた頃から仕えてきた大納言邸を、逃げるようにして去るのだ。


 問い返そうとして、しかし、朝顔はそれだけ吐き捨てると、背に怒りを負って去っていった。


「……朝顔っ」


 追いすがろうにも、時が迫っている。

 今日の内にへ到着しなくては、忌日に挟まれて次の吉日まで、木葉は大納言家に足止めされて身動きが取れなくなる。


 今は少しでも早く。時をかせがなくては。

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