第一話 エスケープ

 必要な物を選り分けるため、木葉は自分の局(部屋)に大唐櫃おおからびつの中身をそっくり床に散らかしている。


 物心がついて祥姫の乳母めのとである母に呼び寄せられて以来、ずっと祥姫に仕えてきた。溜めこんだガラクタも相当で、乱雑に押し込められた中から、子供の頃の汗衫かざみ(少女用の正式の装束)までも出てくる。


 持って行けないものは、側仕えが好きに処分するだろう。どうせ、思い出に何か、と欲しがるような友人もいない。


 先行きの見えない状況に打ちひしがれていると、ガシャン、と破壊的な音がした。


 文机の上に置いた香壺筥こうつぼばこに袖を引っかけたらしい。床に落としたそれを慌てて拾い上げ、中の破損を改める。

 落ち着こうと一度息を吐いた。涙が滲みそうなのを指で拭い捨てる。


 開いた筥の中に、作りかけの縫い物があった。


 心葉こころばと呼ばれる、筥に並べる香壺同士を緩衝するための飾り布だ。

 祥姫に贈ろうと思って木葉が意匠を考え、取り合わせる布を選んで縫っていた。我ながらがいい、などと、得意になっていた愚かしさを思い返すと、羞恥で身震いすら覚える。


 手にした何葉かのそれをしばらく見つめたが、不要で置いていくものの中へ投げた。


 祥姫の事を考えると、引き裂かれるように胸が苦しかった。

 大納言の勘気を被ったあの日から、祥姫には対面していない。御前に侍ることも許されなくなった。


 祥姫自身、軟禁されているらしい。

 通わせていた男君の名を決して口にしようとはせず、それが大納言の怒りを買っているとのことだった。


 そして、それこそが今、木葉がこうして邸を出て行くための荷物整理をしている理由でもあった。


「――ねえ」


 聞えよがしの声が局の外でして、木葉はぎくりと手を止めた。


、ずっとここにいるつもりかしら。厚かましいったら」

「あら、知らないの? あの人、祥姫様にお供して、一緒に髪を下ろすそうよ」

「へえ。祥姫様はお心が広くていらっしゃるわ。男君を手引きされたために、落飾せざるを得なくなってしまったというのに、同行をお許しになるだなんて」


 口さがない女房達が、わざわざやって来て、局の内側で縮こまる木葉を糾弾しようというのだ。


「ええ。でも、祥姫様はなぜ男君の御名を明かされないのかしら。そうなされば、大納言様もこれほど強硬な決定をなされないでしょうに」

「ご自身とお相手の名誉のためなのでしょうけれど……」


次いでぐっと声を潜めて、おぞまし気に囁く。


「それにしても、恐ろしいわ。山城国の――なんとかいう、うらぶれた鄙の地に赴かれて出家なさるとか」

「ええ。私だったら耐えられないわ。それもそもそも――あんな、をお側に置いたばかりに、酷い目に合われることだわ」


 今や木葉は同僚の女房全員から憎まれていた。


 しかし、そもそも、以前から同僚からの当りは強かった。木葉が他の女房から冷淡に軽んぜられる存在なのは、主である祥姫が木葉をそのように扱うからだった。


 本当は、いくら心葉など作って、祥姫に贈ったとしても無意味なことは分かっていた。邪険に扱う祥姫を勘違いなのだと、思いこもうとしてきた。


 どうしてこうなったのだろう。


 幼い頃に笑い合った記憶は、まやかしではないのに。積み上げた二人の年月に反して祥姫の残酷さは、木葉の心を鋭く貫いた。


 木葉は今まで、このことから目を背け続けてきたが、もう終わりだ。

 祥姫は木葉が男君を手引きしたのではないと知っている。それでも、木葉の濡れ衣を解こうとはしなかった。それがすべての答えだろう。


 しばらくの間、外の聞きたくもない悪意を一身に浴びてじっとしていたが、やがて満足したのか、女房達は行き過ぎていった。


 もう行かなくてはならない。


 慣れ親しんだ局をふり返ると、既に自分のものではないかのように寒々しかった。


 立ち上がり、行きかけて大切な忘れ物に気づく。愛用の琵琶だ。慌てて取って引き寄せようとして、母に捻られた肩がズキリと痛んだ。


「あ……っ」


 楽器を落とさないよう一度静かに手を放し、痛みが去るまで肩を押さえる。不動明王ふどうみょうおうのように怒りを露わにした母の形相が脳裏をよぎると、動悸が強く打った。

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