第一話 エスケープ

 ――行かなくては。急いで。


 必要な物を選り分けるため、大唐櫃おおからびつの中身をそっくり床に散らかしている。

 持って行けないものは、側仕えが好きに処分するだろう。


 どうせ、形見に何か、と渡したいような親しい友人もいないのだ。


 物心がつき、祥姫の乳母めのとである母に呼び寄せられてよりこちら、ずっと祥姫に仕えてきたため、溜めこんだガラクタも相当なものだ。

 乱雑にまとめられた一塊の中に、子供の頃に着ていた汗衫かざみまで出てくる。整理整頓のおろそかなことに眩暈すら覚えた。


 今は寸刻も惜しいのに――。


 ガシャン。

 

 文机の上に置いた香壺筥こうつぼばこに袖を引っかけて、床にぶちまけてしまう。破壊的な音にドキリとする。

 中を改めて破損がないのと確認すると、息を吐いた。


 (焦りすぎよ。落ち着け)


 開いた筥の中に、縫いかけの心葉こころばが入っているのを認める。

 手のひらに収まる、方形で袱紗ふくさ状の布。香壺を保護するための飾り布だ。

 布の意匠は木葉が考えて選んだ。濃い青(緑色)の地と、それに合わせた唐花文が浮いた朽葉色くちばいろ

 それらを二重ふたえに縫い合わせた色取りを、我ながらが良い、などと、愚かにも得意になって丁寧に縫った。

 中心の取り手部分には金糸で松葉を縫い取り、そこにつける組紐は少しでも見栄えよくと、総角あげまきの形を何度も結び直した。――すべては祥姫に贈るために。


 「……ホントは気づいてた」


 手にしたそれらを、しばらく見つめて、不要で置いていくものの内へ投げた。


 祥姫の事を考えると胸が引き裂かれるように苦しかった。

 大納言に糾弾されたあの日から、祥姫とは顔を合わることが叶わなくなった。人目を憚って監視されているのだろうが、木葉の耳に噂は伝わらない。


 つまらぬ男君を主に近づけた、と、今や同僚の女房全員から憎まれていた。


 しかし、もしそうでなかったとしても、木葉が他の女房から冷淡に扱われる存在となって、もう何年か、久しい。


 それはなぜ、と振り返れば、祥姫が木葉をそのように扱うからだった。


 己を邪険する祥姫のふるまいを、木葉は勘違いだと、気づかないふりをしてきた。記憶を辿れば、笑い合った幼い頃の思い出は、まやかしではない。積み上げた二人の絆に反した祥姫の残酷さは、木葉の心を冷たく貫いた。


「――ねえ」


 聞えよがしの声が局の外でして、木葉はぎくりと手を止める。


、いつまでここにいるつもりかしら。厚かましいったら」

「あら、知らないの? あの人……」

「……え、なにそれ。……祥姫様もお優しいことだわ。そもそもあんな、


 示し合わせたようにそこで立ち止まって、不快な嘲笑をさざめかせる。


 聞くまいとしても突きつけられる悪意に、身が縮まり、気力がしぼむ。息をつめ、女房達が通り過ぎるまで、衣擦れもせぬように堪えなくてはならない。

 主の乳姉妹ちきょうだいでありながら、その祥姫から疎んじられる乳母子めのとごなど、仕える他の女房からすれば、侮って当然の存在なのだ。


 しばらくそうしていると、やがて女達が去った。いよいよ行かなければならない。


 十年以上も慣れ親しんだ局は既に寒々しい。

 振り返って大きな忘れ物に気づく。あまりに身近過ぎて、かえって見落としていた。立てかけられた琵琶の頸を、慌てて取って引き寄せようとして、母に捻られた肩がズキリと痛む。


「あ……っ」


 楽器を落とさないように静かに手を放し、痛みが去るまで肩を押さえる。

 まるで不動明王ふどうみょうおうのように怒りを露わにした母の形相が脳裏によぎると、動悸が強く打った。

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