姫様と秘密の恋人の文がみつかってから

カワセミ

プロローグ 秘密の恋文

<思ひ詫び 苦しきものと 人知らず 夢かうつつか 誰に語らむ>


――私が思い悩み、これほど苦しんでいるのを、あの人は知らない。もはや夢なのか現実なのかも分からなくなってしまったこの想いを、一体誰に語ればいいのだろう


 恋に嘆くその歌を、怒気を含んで大納言が詠む。木葉このはは訳もわからず、邸の主人の怒りを恐れて平伏していた。


「――覚えがあろう、木葉。お前が姫に取り次いだふみだ」


 憤怒に震える声に木葉はただ縮み上がり、混乱した。『姫』と言われてそれが木葉の仕える祥姫であることは分かる。しかし。


(ど……どういうこと? 私が祥姫さちひめ様に取り次いだ文って?)


 疑問に思っても怯えた木葉は顔を上げることができない。姿勢は変えずに恐る恐る上目に見ると、大納言の手に握り潰されそうな紙――文のやり取りに用いられる薄様うすようと呼ばれる料紙りょうし――があるのが見えた。鮮やかな紅梅色なのが、今の木葉にはどこか毒々しく映った。


「姫の乳母子めのとご(乳母の子供)と目をかけてやったが、まさか姫に対して男君を手引きをしておったとは。なんたる、……なんたる、恩知らずがっ」


 そう言い放ち、大納言は手にした文を投げ捨てる。薄い料紙は表裏を返し、床に落ちる寸前、綴られた文字の一部が木葉に見えた。


(え? なんか、今の)


 一瞬見えたその文字に違和感を覚える。こうした筆跡、つまり手蹟への興味は木葉の習癖といっていい。一瞬状況も忘れ、裏向きに伏せられたそれを詳細に見ようと手を伸ばしかけた、その時。


「あっ……!」


 視界の脇から人の足が伸び、木葉の手を踏みつけにした。痛いほどではないが衝撃に驚く。顔を上げると、仁王立ちになった木葉の母にして、祥姫の乳母がいた。


「母さ、ま……っ」


 言い終わらない内に思いきり頬を打たれる。勢いで体がのけぞった。左手が母の足に縫い留められ、倒れはしない。しかし、腕がおかしな方へ引っ張られる格好になって肩のつけ根に痛みが走った。


「木葉……お前、とんでもない真似を……。祥姫様の乳姉妹ちきょうだいであり、腹心の女房(侍女)であるべきお前が……」


 母の目はカッと大きく見開き、木葉を睨んで掴みかかる。


「言え! 男君の御名を! どなただ! よもや、よもや……お前」


 『よもや、卑しい受領ずりょう風情の身分の者ではなかろうな』との母の声なき言葉は、とても大納言の前で言えるものではないだろう。なにより、母が実の娘の木葉よりも愛情を注ぎ、手塩にかけて育てた祥姫の生涯の汚点となる一大事だ。


 鬼のような形相の母に揺さぶられ、木葉は自分の立場を理解せざるを得ないが、同時に身に覚えのない濡れ衣に愕然とする。


 木葉は主である祥姫に男君を引き入れるような『悪しき女房』の嫌疑にかけられているのだった。

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