第三話 梅の香する郷の邸
『――木葉。これが
『ありがとう、お父様』
白く格調高い、みちのく紙の
その中には木葉の身分を保障する紹介状が封じられている筈だ。――ただし偽造の。
中身を改めたい気持ちが高まるが、冷静に読める自信がない。父が事前に確認してくれているので、信頼してそのまま受け取った。
『これを使えば、お前は
『ええ、誰か知らない、別人として』
『……本当は、祥姫様と関わりのないお邸に仕えられれば、それが一番良いのだが……』
『これでも充分よ、今は。大納言家から出ていけるんだから』
父は木葉を痛ましく見ている。
『今さらだけれど、後戻りはできないよ』
『わかってる』
『お前は新しくやり直す可能性を得るだろう。けれど、今までの人生は捨てることになる』
『……仕方ないわ。だって今のままじゃ、私はもう、死んだも同然だもの』
『……』
『生き直す可能性があるなら、それに賭するしかないの』
父が今さらの後悔を抱えているのはわかっていた。
自らが言い出したこととはいえ、まさか己の娘が、ここまで捨て身の計画を立てるとは思わなかったのだ。
『祥姫様から逃がれるためには、私はもう、何だってするわ――』
***
はっと目が覚めると、自分がまだ
木葉は寄りかかっていた屋形の壁から身を起こして、揺れる車中を気にしながら立ち上がった。
「あ……梅の香」
都ではもう梅の時期は終わっているが、今、向かっているのは山中の郷。まだ盛りの時期らしい。
眺める内、梅の花が見えてくる。――紅梅の。
木葉は眉間を寄せて、険しい目をその紅い霞のような梅に向ける。
考えるのは、あの時、大納言が手にしていた
<思ひ詫び 苦しきものと 人知らず 夢か現か 誰に語らむ>
――恋に思い患う私の、この苦しい胸の内を、あの人は知らない。夢か現実かわからないこの想いを、いったい誰に語ろうか
あの時、大納言が投げ捨てた際の一瞬見に、何か気になった違和感の正体を、木葉は思い出そうとする。しかし、頭の中はそれこそ靄がかかったようでわからない。
ここはもう、
道中、鬱蒼とした森を通ってきて、こんなおどろおどろしい鬼の出そうな地に赴くのかと、胸も潰れそうな心地がしていたが、これまでの疲労のためか、いつの間にか寝入っていたらしい。
今は悪路も過ぎ、明るい日差しの注ぐ中、牛車は梅林を抜けていく。
ちろちろと長く引く鳥のさえずりがする。メジロだろうか。
父に教えられたような邸があるとも思えずにやってきたが、ことここに至り、まるで仙境のような趣だ。
外で牛飼い童が到着を告げてくると、逸る心を抑えらえず、ぐっと顔を外に突き出して様子を窺う。
豪壮な構えの
目を見張る木葉をそのままに、牛車は東門の内に引き入れられ、車宿の前でようやく停止した。
下車の支度でにわかに外が騒がしくなる。近接する
しかし、考えてみればそれも当然で、祥姫が父親の勘気を被ったからといって、大納言が己の娘を粗雑に扱ったりはしないだろう。
放逐される高貴な姫君を預かるには最適の邸、との見積もりがあるのだろう。
怒りに駆られた大納言が、祥姫を尼にして音羽山にある縁の尼僧の元へ送ると決め、ならばと引き換えるように、祥姫が『木葉を伴うならば尼になる』と要求した、と聞かされたのは、もう半月以上も前の出来事だ。
木葉を襲った衝撃と憤り。
もうたくさんだ。これ以上、支配の理不尽さに従うのは、あまりに苦しかった。
木葉がここにやって来たのは、祥姫のためではない。
侍所から興味津々に覗かれていることを意識しながら、木葉はできるだけ身を隠して車から
木葉は後について行きつつ、顔に翳した
どこもかしこも磨き抜かれている。
要所に配された几帳は春の色柄で、所々にある吊り灯籠には梅の枝を置いて空間を彩っていた。
庭に目を向ければ、
なにもかも木葉の予想とは違っていた。
大納言邸ですらこれほど細やかな趣味の
「――新参の女房様が参られました」
「入られよ」
壮年の尼僧が招き寄せる。
さあ、いよいよだ。
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