第三話 梅の香する郷の邸
『――木葉、これが方頼様に用意していただいた、女房としての紹介状だ。けれど、お前がこれを使うということは、これまでのすべてを捨てて、別の人物としてこの先も生きていく、ということだ。――もう、元のお前には戻れないのだよ?』
噛んで含めるように言い聞かせる父。まるで幼い頃に戻ったかのようだ。
『ええ。わかってるわ。お父様。でも、このままでは私は、濡れ衣を着せられた挙げ句に出家することになるのよ。この紹介状さえあれば、もしかしたら、祥姫様から逃れられるかもしれない。これしか方法はないなら、私はそれに縋るわ――』
***
はっと目が覚める。木葉は揺れる
寄りかかっていた屋形の壁から身を起こして、危なげながら立ち上がった。
「あ……、梅の香」
都ではもう梅の時期は終わっているが、ここでは、まだ盛りの時期らしい。
ここはもう、
今、木葉は、祥姫が預けられる予定の邸に向かっている。大納言家を発した際、木葉は、祥姫の先遣の名目で送り出されていた。
しかし、木葉自身にはもう、祥姫に仕えるつもりはない。
窓外を眺める内に、紅い霞のような梅の花が見えてくる。
思い返されるのは、あの時、大納言が手にしていた
投げ捨てられた文の文字を見た時、木葉が感じた違和感の正体を思い出そうとしてきたが、それは一向に叶わなかった。
ちろちろと鳥の囀りが聞こえる。鬱蒼とした森と悪路を超えてきたが、今は明るい日差しの注ぐ中、牛車は梅林を抜けて行く。ここに至り、まるで仙境のような趣だ。
外で牛飼い童が到着を告げてくる。逸る心を抑えらえず、木葉はぐっと顔を外に突き出して様子を窺った。
豪壮な構えの
目を見張る木葉をそのままに、牛車は東門の内に引き入れられた。車宿の前でようやく停止する。
下車の支度でにわかに外が騒がしい。近接する
大納言は娘の強情さに業を煮やし、祥姫を尼にして音羽山にある縁の尼僧の元へ送ると決めた。返す祥姫は、それを受け入れ、「木葉を伴うならば尼になる」と申し出たのだという。
木葉にしてみれば、濡れ衣の上に、とんだとばっちりだ。
大納言家の姫君であれば、ほとぼりが冷めた頃、どこぞの寺に財貨を積んで還俗させることが可能だろう。しかし、なんの後ろ盾もない木葉は、一度出家したら最後、終生、尼僧として過ごすしかない。
己の意志でもないそんな理不尽を、己の定めなのか、と木葉は懊悩した。
そこにもたらされた、一つの光明。
それが、祥姫の異腹兄である方頼から、父が密かに手に入れた女房の紹介状だった。木葉はそれに人生を賭けることにした。
下車を促されて、木葉はややまごつく。
侍所から興味津々に覗かれているのだ。
できるだけ身を隠して車から邸の
先導されるまま、木葉は後について行く。驚くほど長い廊下だ。邸の規模が想像された。木葉は顔に翳した
どこもかしこも磨き抜かれている。
要所に配された可動式の障壁具である几帳は春の色柄で、所々にある吊り灯籠には梅の枝を置いて空間を彩っていた。
庭に目を向ければ、
大納言邸ですらこれほど細やかな趣味の
「――新参の女房様が参られました」
女童が一室の前で膝をつき、中に呼びかけた。
「入られよ」
内側から入室が許される。
さあ、いよいよだ。
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