第四話 手蹟を盗む

「遠路、よく参られました」

「恐れ入ります。早々にお目通り叶いました事、感謝申し上げます――尼君様」


 側仕えの尼僧に通され、速やかに主人との直接の対面を許されて驚いた。


「もちろん。心待ちにしていました」


 肩の下で髪を切り揃えた尼僧が、清らかな姿で端座している。

 この壮麗な邸の主人が尼僧だというのも意外だが、目の前にすれば、ただ財力を持ち合わせているだけではない高雅な鷹揚さを感じる。身分の高い人物であろうことは間違いないだろう。


「私は姫のための人材には心を砕いているつもりです」


 この邸には姫君が一人いるという。木葉が遥々このような鄙の地にやってきたのも、この姫君に仕えるためだ。


「なので、そなたを紹介いただいた、藤原方頼ふじわらのかたより様には、特に感謝しているのです」


 尼君はおもむろに、脇に置いた一通の書状を取り上げた。それが木葉自身の紹介状だと認めて、木葉は低くした姿勢からさらに目を伏せる。

 この計画に欠かせない紹介状は、木葉の素性を架空の人物に塗り替えたもので、尼君の言う通り、そこには誰か別人についての美麗な賛意が綴られている筈だ。


 藤原方頼と祥姫は、異母兄妹の関係になる。


 何故、そのような人物の協力を頼むことが出来たのか。もちろん、方頼の家人である木葉の父が間に立って尽力したため、ではある。


 大納言は、北の方との間に男子のいないため、特別に方頼を自邸に迎え入れていた。異腹であるゆえの不和か、方頼と祥姫の折り合いが悪かった。

 きっと、異腹妹への意趣を晴らす気持ちで、祥姫を貶めた女房である木葉に手を差し伸べたのだろう、と察する。


 誤解によって助けられる葛藤への苛立ちからは、強いて目を背けた。品の良いなりふりを望める立場ではないのだ。


 紹介状は事前にこちらの尼君の元に渡っていたため、既に目を通してはいるだろう。先方は軽く開いてなおざりに内容を改めるに留めた。


「……はい。私にも幸いでございました」

「こちらの姫には、しっかりと教養を身に着けてほしいのです。ひなの地の出でこの先苦労しないように」

「素晴らしいお考えです」

「女房達も優秀な人を紹介されては雇い入れていますが、姫は歳に比べて幼いところがあって、なかなか身につきません。よく導いて差し上げなさい」

「力を尽くします」

「方頼様には懇ろにお礼を申し上げましょう」


 その言葉に、と気づき、木葉は慎重に口を開いた。


「……で、したら、よろしければ」


 出だしからつっかえる。尼君がこちらに注意を向けるので、上ずらないよう注意して口を開く。


「方頼様へのお文は、私が文遣ふみづかいへ、手配申し上げます」

「そこまで気を使うことはありませんよ」

「いえ、私もこちらのようなすばらしいお邸へご紹介をいただきましたこと、感謝のお文を差し上げたく存じますので」


 食い下がると、尼君は眉を上げて思案げに木葉を見てくる。

 沈黙が下りる中、木葉の鼓動だけが相手に伝わらんばかりに高鳴っている。


「ふむ。ならば、そなたは早々に送りなさい。早い方が心をお伝えできるでしょう。こちらを気にする必要はありません」

「……そう、ですね。かしこまりました」


 そこまできっぱりして、気づかわれては、それ以上言い募る訳にもいかない。


「さあ、このような年寄りではなく、そなたがお仕えする主の元へ早く挨拶に行きなさい」


 そこで対面は終わった。歯噛みするが、焦燥の念を押し殺して下がろうとすると、尼君は思い出したように付け加えた。


「ああ、そうそう。こちらの邸には若い尼僧達がいるのです」


 その不意打ちに、ギクリとする。何を言い出すのかと、呼吸を詰めて目だけで相手を見る。


「――はい」

「姫とは別の棟で生活しているのでまず関わりになることはないと思いますが、皆、心静かに仏道修行に専心しています。心に止めておきなさい」

「……承りました」


 ここ一番の動悸を押し殺し、今度こそ退出した。


 女童に姫君への取り次ぎを頼むと、一旦、あてがわれた局に案内される。一人になって、堪えていた息を吐き出した。


 局は一通りの調度品が整えられていた。尼君の言葉通り、こちらの邸では女房が厚遇されているらしい。

 木葉は室内に几帳を幾重も立ててから、貸与された文机に向かった。残念ながら脚が少しガタピシしている。

 持参した唐櫃からびつは既に運び入れられていた。大納言邸を去る際、乱雑に詰めこんだ中から、役に立ちそうな木切れを取り出して脚の下に敷いた。何度かやり直してようやく満足する。


 しばらく呼吸を整えて、重硯箱かさねすずりばこを取り出して文机に据えた。どちらかといえば粗雑な性格の木葉だが、この硯箱だけは丁寧に扱って手入れも欠かさない。


「――方頼様へのお文が絶好の機会だったのに、……」


 言葉にすれば更に焦燥感が増す。木葉に許された時間はあまりない。いずれ、時を置かずに祥姫がこちらへやってくるからだ。しかし、その上で、木葉はこの束縛から解放されるための計画を胸に抱いていた。


 そして、その手始めに、邸の主人である尼君の手蹟を盗まなくてはならなかった。文か、書きつけか。


 女房の立場を最大限に利用して、この先、木葉は貴人あてびと達を支配する。


 (……この先は、私が風上に立つ番だ)

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