第七話 しず心なく
式部の言った通り、姫君はほのぼのと温かな人柄で、しばらくは物慣れない外記を輪の中に呼び寄せるのを忘れなかった。
女房達が物語りをしたり、時に議論するのを見るのが好みのようで、同じく主であっても、輪の中心にいて強い発信力のある祥姫とはまるで違っていた。
女房達も強い求心力に統率された大納言家とは随分と違う。
それぞれが主に、よかれと思うところを自主的に考え、動くことを求められた。
だからといって、姫君を蔑ろにして出しゃばることはない。
てんでんばらばらという訳でも。
渡河の同舟のように、全員が同じ方角を向き、御前の奉仕に努めている。そして、その棹さす船頭こそ、古参女房である宰相の君だった。
外記は彼女に一抹の憂鬱さを感じないではいられない。
初めに恐れたような、上に立つ者の横暴さで周囲を威圧するような人物ではなかった。むしろ、女房間の摩擦を収め、生活の不便に気を配り、姫君へ円滑に仕えるための目配りを旨としているようだった。
それゆえに、外記は彼女を警戒する。
ことさらに用心して、外記の秘密を知られてはいけない。
抜け目があれば、きっと尻尾を掴まれる。外記の大がかりな嘘は、明るみになれば決して信頼は得られない類のものだ。
「――ありがとう、手を煩わせてごめんなさいね」
局にやってきて、「お探しの衵扇は落ちていなかった」と告げた、尼君付きの女童に、懇ろに礼をする。
「尼君に対面した際に扇を落としてしまったかもしれない。ちょっと見てくれないか?」と頼んだ。そう、フェイクだ。人射らばまず馬を射よ。尼君の手蹟を手に入れるためには周辺を攻める必要があった。
「……その。もし、これから先、尼君様が大納言家へ文を送られることがあったら、私に声をかけて欲しいの」
「文、ですか?」
「ええ。大納言様のご子息にこちらを紹介していただいたのも当然だけれど、親しい友人もかのお邸にはたくさんいるの。こちらと行き来するお文があったら、私もそれに合わせて色々な方に、お送りしたいのよ。それに、私がこちらに越してきたのも伝えているから、ひょっとしたら、すぐにも私宛の文が届くかも」
立て板に水とばかりに言い募ると、装束一領に対して難しい要望でもないと判断したらしく、女童は気安く請け合って、機嫌よく去った。
その背中を尻目に、外記は一つため息を吐いた。身を翻して己の局に戻る。
表情が曇っているのが自分でもわかった。
ひとまずこれで、外記の知らぬ間に、尼君が大納言へ連絡する事態は避けられるだろう。しかし、肝心のものは未だ手に入らない。
「……何はともあれ、手蹟よ」
爪を噛む。悪い癖が出てしまう。
感慨の
さらに、それが明けると、今度は宮中行事が続くので、大納言はそちらにかかりきりになる。さすがに大納言不在時に、娘を音羽山へ向かわせることはないと睨んでいる。
つまり今、この間だけが外記に与えられたアドバンテージだ。
この期間に大納言と尼君の手蹟を真似て、それぞれに文を送らなくてはならない。そして『木葉』という人物は死んだことにし、痕跡を一掃して外記自身を祥姫の軛から解き放つ。それが目標だ。
とはいえ、尼君の手蹟を得るのに思いの外手間どっている状況は外記の想定外だった。
尼君の側近という体裁で、代筆を用いる方法もあったが、ことの初めでもあり、慎重にもなる。そしてまた、どこまで完璧さを求めるべきか、考えあぐねた末の、真筆への説得力に拘りだった。
こうしてみると、手蹟という奥の手に依拠して己を頼みにしたものの、いざ実行力の乏しさに行き当たって、物狂おしい気分になる。
だが、思い煩っても解決策が降って湧く事はない。どうにかして、尼君に近づく手段を講じなくてはならないのだ。
「――ねー、げき―。鶯の声、聞きに行かなぁい?」
悶々とする外記の鬱屈とは対照的に、のんきな声がした。
局の入り口に現れたのが誰かは、確認するまでもない。特徴的な話し方、伊勢だ。
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