第六話 姫君への対面
入りなさい、と、入室を許され、御簾が巻き上げられると、室内の女房たちの視線が一斉に木葉を向く。
想像よりも人数が多いのに圧倒される。
頭がくらりと揺さぶられたような気がした。耳鳴りがする。今ここにない筈の声が聞こえてくる。
『――そなたは本当に、間に合わない女房ね』
耳のすぐそばで囁かれるような、祥姫の嘲笑の声。
その御前で浴びせられた、木葉を貶める同僚の言葉が、見下す眼差しが、眼前にあるように蘇り、混乱する。どっと冷や汗が噴き出した。
「――木葉、前へ」
微動だにしない木葉に、怖じたものと察した式部が耳打ちして、ギクリ、と身じろぎする。
上の空で、衆目の中に分け入る。膝行する脚がガクガクと震えている。みぞおちが引き絞られるように痛んだ。
所在なく膝を下ろし、平伏する。
「もっとこちらへ」
そう呼ぶのは、木葉を最初に招き入れた声と同じもので、その女が自分を圧倒したのだと気づく。
ほんのひと声でもわかる、優美に抑制された響きは、声の人物が臈長けた女房であることを告げていた。それが祥姫の御前を思い出させる。
初対面での蹉跌は印象を悪くするとわかっていたが、身体がその場に縫い留められたようで動けない。
(……怖い)
その時。
サラサラと軽やかな衣擦れがした。
顔を上げられないでいる木葉の前にまで気配がすると、ふわりと身体を下ろしたのがわかった。
「――ね。そんな端っこにいないで、こちらにいらっしゃいよ」
うって変わって、小さな鈴のコロリと鳴るような、控えめな声。いくらか舌足らずで優しい音色。
身じろぎもおぼつかない木葉を、ふっくらとして桜貝のように色づいた手が伸びて引いた。
山吹色の
手を取られ、ふわふわと足取りもおぼつかず引かれる。
立てば、目の下になるその背は、聞いていた年齢に比べていとけない。そのことに、無暗と胸を突かれた。
いざなわれて、部屋の奥、
「御簾は開けておいて、さいしょう」
姫君が脇に控える女房に言葉を向ける。木葉もつられてそちらを見た。それが木葉を怯ませた人物だった。
「そういたしましょう」
さいしょう、と呼ばれた女房は答えると、母屋と廂の間を仕切る御簾を開けるよう指示し、代わりに几帳を寄せさせる。
女房達の取りまとめ役であることはすぐにわかった。驚くほど品のある、よほどの
「そなたは、――ええと」
気を取られていた木葉に、姫君が膝を詰めてくる。
「こ、木葉でございます」
「そう木葉、かわいらしい名ね」
ふふ、と姫君が柔らかく笑う。可愛らしいのは主の方だ。
「姫様、新しい呼び名を与えられますか?」
「そうね、宰相の君。何がよいかしら」
さいしょうのきみ、とたどたどしい姫君の響きに比して、宰相の君がもの慣れた落ち着きで凛としているのが対照的だ。その人物がちらりと見てくるので、とっさに木葉は目を伏せる。
「お父上はどのような方なのかしら?」
「ち、父は、
答えると、姫君が首を傾げて頼りなくほほ笑んで、答えを求めるように宰相の君を見た。 宰相の君が如才なく答える。
「小外記は朝廷の実務官職でございますわ。
「まあ、そうなの。では、優秀な方でいらっしゃるのね」
「……恐れ入ります」
思いがけず、宰相の君が朝廷の詳細な職掌を把握して話すのに、木葉は驚きと共に、自意識が得意げに膨らんで、強いて抑制に努めなければならない。――確かに。父は木葉の自慢だった、筈だ。
「書に関しては、特に秀でていらっしゃることでしょう」
さらに重ねて言う宰相の君に、今度は我知らず、身を硬くした。
なぜなら、それは触れられたくない、木葉が胸の内に抱える計画にいくらか関わることだからだ。
書に秀でた父譲りの木葉は、幼い頃の遊びの中で、誰であれ、他者の手蹟を完璧にまねる術を体得していた。決して見破られることはないと、思い上がりでなく自負できる。
ほんの日常の用件から、親交のある相手との日に何通もの往復書簡。職務の連絡や進退の相談に要望。恋の呼びかけ。苦情。
すべての意思表示の大部分を文に頼るのが、貴族だ。
その
幸い、今対面したこちらの主は、祥姫のような苛烈さとは無縁のように思われた。ここでうまくやっていきたい。木葉の欲がむくりと頭をもたげた。
目的の完遂までには、日常では己の能力を隠す必要があった。対外的には、凡庸な女房の手蹟を用いなくてはならない。
木葉が二の句にまごついていると、ぱた、と姫君が小さく両手を打った。
「では、
さも妙案だとばかり、他愛ないおいらかさで姫君が呼んだ。
木葉は胸の内で、その呼び名の響きを呟く。
新たに与えられたその名は新鮮で、脱皮した蝉がその衣を脱ぎ捨てるように古い名を捨て、ぴったりと己に馴染むのを、外記は感じた。
「謹んで承ります」
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