第3話 人とは何か

 「人って何だと思う?」


 突拍子もないその質問は、油断していた脳を強く叩きつけた。

 静まり返る室内は息苦しく、今すぐにでも何か言葉を発してこの静寂を打ち払いたいと反射的に口が動いた。


 「それはどういう意味なんでしょうか。脈絡がなさ過ぎてどう答えればいいか。生物学的な答えを望むのか、それとも文学的な答えなのか教えてください」


 「どちらでも構わないよ?」


 質問の意図を理解するために反射的に出た言葉はどうやら意味をなさなかったようだ。

 打開したはずの静寂が再び部屋の空気をぐっと重く、鈍いものに変換していく。

 その質問をした彼女の意図が理解できない。

 その理由も、その意味も、その必要性も、蓋然性も。何もかも分りかねる。


 人とは何か。

 こんなあり触れているのに、普段の生活では決して聞くことのない質問。

 

 目の前にいるのは、容姿も端麗で華麗な一大学生の女子生徒であるはずだ。

 なぜこんなにも返事を返すのに戸惑うのだろうか。それほどまでに彼女の質問には重みを感じた。


 「すいません…わかりません」


 「そっか」


 彼女の返事はとてもそっけなく興味を示さないものだった。

 唐突で不意を突かれた質問に焦っていたのか、それともつまらなさそうな反応に対してなのかは自分では解らないが、少し苛立ちを覚えた。


 「じゃあ…答えは何なのですか」


 男としては落第点だろうか。苛立つ理由も不確かなのに、棘のある声質と音量で彼女を突き返した。

 でもそんな問いを彼女は綺麗に受け流す。


 「それは秘密だね」


 「どういうことですか?じゃあなんで質問したんですか」


 彼女が理解できない。

 なぜそんな質問を投げつけてきたのか。しかもそれの答えは開示されない。

 頭の中に濃い霧が下りて、モヤモヤと感情を曇らせる。

 

 「そうだね…特に意味はないかな」


 その返答には僅かだが、間を感じた。何かをためらうようなそんな間があったように思った。

 「はぁ」とため息をつく。

 少しの苛立ちと緊張感がそのため息を大きく長くする。


 「おこった?」


 彼女はこちらを覗き込むように、顔をグッと下げて、こちらの顔を覗き込んできた。

 自分が情けなく思えてくる。大学生の彼女からしてみれば高校生になったばかりの小童の考えることなど容易に想像でも着くのだろうか。

 そう思うと、ここまでの一連の流れそのものが彼女の手のひらだったのではないか。そんな疑心が芽生え始めた。


 だが、そんなことを聞いたところで本心が返ってくるわけがないことくらいは想像がついた。

 

 そこまで考えたところで少し頭に籠った熱が冷めてきた。

 

 何故こんなことになっているのかを思考し直す。そもそも今日は家庭教師として彼女が来ていたはずだ。と本来の目的を思い出し、本題に切り替えることにした。


 「怒ってないです。勉強教えてもらってもいいですか?」


 「ふふっ。ごめんなさいね。何から始めよっか」


 彼女はニコっと笑いながら、こちらの話題の切り替えに乗ってくれた。そもそもこれが正しい流れなのだが、と思いながら先ほど整頓した教材の内、一番上に置かれていた数学を手に取った。


 「いいですか?」


 と教材を開きながら、すっと彼女の顔色を伺う。まぁ全教科を教える体で呼ばれているはずなので拒否してもこれで行こうと子供の反抗染みた稚拙な考えを思いつきながら彼女の返答を待つ。

 回答は間を置くことなく「大丈夫だよ」と優しく返された。


 こちらをある程度見透かしているように見える彼女が穏やかな表情で了承するのを見て、自分の幼稚さを思い知らされた。


 こうして初めての授業が始まった。

 

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「人」と言う名の獣 ふるみ たより @hurumi

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