第2話 和室

 如月美桜と名乗る目の前の家庭教師は軒先で、目を合わせたまま動かない。


 高校に上がったばかりの思春期も抜けきらない自分には、彼女と目を合わせ続けるのは耐えがたいものだった。

 彼女から視線を切って「どうぞ、こちらに」と声をかける。


 「失礼します」


 と透き通る声が背中を擽った。

 

 自分から視線を切ってしまったためか、振り向くことができず、後ろを向いたまま彼女の準備ができるのを待つことにした。


 玄関に入る足音、そして玄関の戸が閉まる。

 靴を脱いで向きを揃えて立ち上がるのを、聴覚だけで判断する。


 「こちらです」


 なぜ緊張しているのか、自分では解りかねた。

 だが、いつもより声が高くなっていたように感じたのが、余計に恥ずかしく感じて咳ばらいをする。


 彼女を先導する形で、フローリングのヒヤッとした床を一歩、また一歩と進んでいく。

 廊下は光が少なく、やや暗さを帯びている。

 とはいえ、視界は良好であり、わざわざ明りを灯す必要は感じなかったため、かまうことなく自室に向かった。


 家は静寂に包まれている。

 自分以外から聞こえる音は、彼女の足音とほんの少しの呼吸音。

 途中から心臓の音が聞こえた気がしたがそれは恐らく気のせいだろう。


 自室前までたどり着いた。


 「ここです」


 「失礼します」


 背後から聞こえる澄んだ声に、不思議な感覚を覚えながらふすまを開ける。

 自室である和室の中央には依然として大きく四角い木製の机が陣取っていた。

 その横柄な机の上には、乱雑に置かれた教材がいくつかと卓上用の電子時計。


 時計にふと目をやると6時03分を表示していた。

 感覚的には20分ほど経過していたように感じたため、一瞬だが時間が消し飛んでしまったのではないか。そんなどうしようもなく稚拙な考えが脳裏を過ったが、ふと我に返る。

 

 ピシっとふすまが閉まる音が和室中に轟く。

 そんないつもは気にしない、なんてことのない音でさえ耳に響くのだ。


 「改めてよろしくお願いします。えっと、なんて呼んだらいいかな」


 彼女は気を使ってか、やや崩した口調で声を掛けてくれた。

 そのおかげが、少し緊張が和らいで、ふっと振り返り再び彼女と視線を合わす。


 整った顔立ちに、すらっとした体形、赤みを帯びた茶髪の長髪。

 そんな見るつもりはなかったが、彼女に目を奪われてしまった。


 「あ…夏目でいいです」


 「夏目くん、よろしくね。私も習って如月って呼んでもらおうと思ったけど、少し長いし呼び慣れてないので、普通にみおって読んでね」


 「はい―お願いします、みおさん」


 やはり今日の自分の声がいつもより高くなっているように感じたが、気のせいだと思いたい。

 

 「じゃあ、始めようか」


 「はい―お願いします」


 机上の秩序を乱すかの如く、横柄に置かれた教材をきれいに整頓させ、複雑な感情でうずめく心と共に落ち着かせた。


 教材は、一般科目とされる5科目全てだった。

 苦手分野も得意分野もないのなら全体的に底上げができればいい、なんて言うあいまいな母親の指示が、この現状を招いていると思うと反論をしておけばよかったと深く後悔をした。


 机の前に腰かける。

 自分が座ったのを見届けてから彼女は腰を下ろした。

 

 机に二人、横並び。


 「夏目君のお母さんから要望は聞いてあります」


 それはそうだろうとも。自分には何の要望もないし向上心もないのだ。

 ただただ毎日が無難に過ぎて行ってくれればそれでいい。


 「そうですか、えっと…みおさんは東大生なんですよね」


 「そうだよ、法学部だよ」


 「そうですか」


 母親の説明は適当に流していたため、家庭教師の素性はあまり把握していなかった。

 母親がしきりに東大生と口にしていたので印象に残っていただけだ。

 東大だかなんだか知らないが、勉学が優れているのと他人に教えるのが上手いのは一致するのか甚だ疑問だったが、ここでそんなことを口にすることに何の意味もないので、ただただ流れに身を任せる。


 「じゃあ、始めようかな。夏目君は何からやりたいのかな」


 「なんでもかまいません」


 「あまり勉強が好きではない?」


 「どちらかと言えば好きなんじゃないですか」


 なぜかそっけない態度をとってしまうことに少し罪悪感を感じながらも淡々と返答する。

 

 「そっか、じゃあ授業の前にひとつ質問」


 彼女はそう切り出した。

 はてさて、東大生様からはどんな難問が提出されるのだろうか。どうせ自身の知識を見せびらかして悦に入りたいだけだろうと、抑揚のない平坦な声で「どうぞ」と返事をした。


 「人って何だと思う?」


 彼女の口から放たれた質問は、想定の範疇を超えた哲学的な質問だった。

 唐突で突拍子もないその問いが、脳みそをかき乱す。


 和室は静寂に包まれる。

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