終章『渡り鳥が旅立つとき』
(1)
「おい。起きろ。いつまで寝ているつもりだ」
どこか呆れを含んだ声と共に肩を揺すられて、ハスズは眼を覚ました。
重い瞼を押し上げて、半ば寝ぼけながら顔を上げれば、目の前には迷惑そうに眉間に皺を寄せてしゃがんでいる鬼雨。
「おはようございます、鬼雨さん」
にへらと笑って再び瞼を落とし、頭を下げれば、
「寝るな! 起きろ。置いて行くぞ」
「痛い!」
びしりと額に強い痛みが訪れた。
咄嗟に悲鳴を上げて額を押さえ、涙目で鬼雨を睨み付けてから、唐突にハスズは覚醒した。
「鬼雨さん?! もう大丈夫なんですか?!」
地面に手を付き前のめりになって訊ねると、驚いたように目を丸くした鬼雨が身を引いた。
直後に浮かんだ鬼雨の顔には様々な感情が通り過ぎ、思わずハスズまで目を丸くすると、その視界から鬼雨の顔が消えた。
吊られるように見上げれば、立ち上がり様に踵を返した鬼雨に言い捨てられる。
「起きたなら行くぞ」
「ちょ、ちょっと待って下さい!」
一体いつの間に自分は寝入ってしまったのか。
一体どれだけの間寝入ってしまっていたのか。
いつから鬼雨は眼を覚ましていたのか。
色々と聞きたいことがありながら、ハスズも慌てて立ち上がり、鬼雨の後を追おうとした。
そのときふと、事切れた科之の姿が目に入った。
すっかり火の勢いは衰えたとは言え、まだ辛うじて科之の顔は見て取れた。
火の加減か、地面に顔を横たえているせいか、散々女たちを食いものにして辛い目に合わせて来た主犯でありながら、恐ろしく穏やかな死に顔に、ハスズは酷く複雑な心境を抱いた。
自分を仲間たちから孤立させるために扱いを変えていたと言うことは分かってはいた。
それでも時々、本当に穏やかに接してくれるときがあった。優しいときがあった。傍に居て欲しいと懇願されて、ただそこにいてくれるだけでいいと頼まれたときがあった。
科之がどんな人生を歩んで来たのかなどハスズは知らない。聞いてもいないし、話されもしなかった。
それでも――
脳裏に浮かんだ可能性にハスズは小さく頭を振った。
全てはハスズの憶測に過ぎなかった。自分にとっての都合のいい憶測に。
そうだったらいいなと思うことは出来る。だがそれは、自分の行いを正当化するための言い訳に過ぎないと弁えたなら、ハスズは目礼し、
「さようなら」
別れを告げて駆け出した。
とっくの昔に行ってしまったと思っていた鬼雨の元へ。
初めて『村』に案内するときと同じように、行ったと思わせておいて待っていてくれた鬼雨に追い付くために。
「え?」
鬼雨に追い付いたハスズが間の抜けた声を上げたのは、隠し通路を抜け出して大部屋から出たときだった。
来るときには確かにあった男たちの死体が綺麗さっぱり消えていた。それだけではない、血の海と化した廊下も、飛び散った血飛沫も、まるで何事もなかったかのように綺麗さっぱり消えていた。
一瞬、内装が同じ違う棟に出たのかと思った程。地下通路の進行方向を間違い、違う楼閣に辿り着いてしまったのではないのかと危惧したが、よくよく見れば、床や柱には刃物で付けられたような傷が見て取れた。
その中を、鬼雨は当たり前のように進んで行く。ハスズが鬼雨の元へ駆け付ける時に見たあの惨状を生み出した張本人だと言うのに、まるで動揺の色を見せない鬼雨に、ハスズは慌てて声を掛けていた。
「き、鬼雨さん。これ、これ、なんか変です!」
「何がだ?」
と、足も止めてくれない鬼雨の横に駆け寄って、
「死体がありません!」
「そうだな」
「血もありません!」
「そうだな」
「まるで何事もなかったかのようです!」
「だから?」
「変です!」
「……」
「きっとここは違います。多分違います」
「そうでもないだろ」
「だって変ですよ」
「変じゃないさ」
「どうしてですか?」
「宵が片づけたんだろ?」
「え?」
事もなげに返されて、ハスズの足はピタリと止まった。
「宵さんが……って、宵さん一人でどうこう出来るものではありません! それほど長い間私は眠っていたのですか?」
「いや。精々短くて半時。長くても一時ぐらいだろ」
「そんな短時間で片づけられるわけがありません!」
「それでもやれるのが宵なんだよ。あいつは人外の術を使えるからな」
「…………」
どこか呆れを含んだ鬼雨の言葉にハスズは絶句した。開いた口が塞がらなかった。
俄かには信じられなかった。それでも、不意に鬼雨がよろめいたのを目撃した瞬間、ハスズは失念していたことに気が付いた。
鬼雨は言っていた。眠っていたのは一時にも満たないと。
だとしたら、当たり前のように今歩いている鬼雨が完治したとは思えない。
薬の副作用で起き上がることすら困難だった中でも、人外離れした動きを見せた鬼雨なのだ。
一見して何事もないように見えて、また無理をしているのではないのかと危惧すれば、鬼雨は『たまたまだ』と素っ気なく答えて取り合わなかった。
「でも……」と引き下がらないハスズに対し、『大丈夫だ』とどこか不貞腐れたような口調で発言を遮って、足音も荒く鬼雨は進む。
その音は、言葉通り『大丈夫だ』と主張していて、それでも時折ガクリとよろめく度に舌打ちが聞こえて来て。
気が付くとハスズは鬼雨の元へ駆け寄り、その体を支えていた。
「何だ?!」
と驚きの声を上げ、逃げようとする鬼雨だったが、ハスズはその背をしっかりと握って想いを告げた。
「どうか支えさせて下さい!」
「いらない!」
「支えたいんです!」
「っ!」
ギッと睨み付けられるも、負けじと睨み返して言い返せば、鬼雨はグッと言葉を飲み込んだ。
「勝手にしろ」
「します」
不機嫌そうに顔を逸らす鬼雨に対し、ハスズは満面の笑みを返した。
誰かを支えながら歩くことになるとは、ハスズも夢にも思っていなかった。
緊張した。体が熱くなり、鼓動が速まった。
密着した体から速まった鼓動が鬼雨に伝わってしまうのではないかと思えば、ますます体は熱を持ち、鼓動は速まり、顔が火照った。
今更ながらに大胆過ぎる行動なのではと後悔まで生まれて来るが、後戻りは出来なかった。
肩に回された鬼雨の腕。その重み。伝わる熱。
着物は破け、汚れ、焦げていた。
ろっ骨が折れているかもしれないと言っていた宵の言葉を思い出す。
それは今も折れたままなのだと言うことは間違いなくて。
頭上から聞こえて来る鬼雨の呼吸は何かを耐えるような深いもの。
やはり痛いのだと、無理をしているのだとハスズは察した。
どこの誰とも知らない娘のために、ここまで傷付く理由がどこにあるのか。
出逢ったばかりの娘のために、ここまで意地を張る理由がどこにあるのか。
誰も知らない『村』に囚われた娘たちを救い出したところで、謝礼金が支払われるわけではない。一銭の得にもならないのだ。
それなのに、どうしてここまでしてくれるのかと。
心の底から感謝の想いが沸き起こる。
胸から溢れたその想いは、涙となって頬を滑る。
鼻水が出て来そうになって慌ててすすりながら、ハスズは言った。
ありがとうございます――と。
「あ?」
あまりに小さな囁きは、痛みと戦っている鬼雨の耳に届かなかったのか、苛立たしげに聞き返されたが、ハスズは怯えることなくもう一度繰り返した。
「ありがとうございます。本当に、こんなに傷ついてまで叶えてくれて、ありがとうございます」
「別に、お前の為じゃない」
素直とは真逆の返事が返って来るも、ハスズは気になどしなかった。
無事に願いを叶えたら、感謝をして欲しいと宵が言っていたから。
願いを叶えることで、感謝をされることで、鬼雨は自分の存在を認められるようになるのだと宵が言っていたから。
鬼雨は金銭のために働いているのではない。
誰かのために傷付いているのではない。
全ては己自身のためになしていることなのだとしても、それでもハスズは繰り返した。
「あなたに逢えて、良かったです」
涙で濡れ、頬に熱を持った顔を上げ、満面の笑みを浮かべて想いを伝える。
率直な、素直な、心からの想いを。
ずっと続くかと思われていた終わりなき地獄を終わらせてくれるものが現れるとは思いもしなかった。
それが今日、終わりをもたらす者と出逢えるとは夢にも思っていなかった。
今日、もしも鬼雨と出逢っていなかったら、きっとハスズは変われなかった。
「あなたのお陰で少しは強くなれました。ありがとうございます」
対して鬼雨は顔を逸らして『ふん』と鼻を鳴らしただけだった。
それだけでもハスズは十分満足だった。
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