(5)
(鬼雨さん! 鬼雨さん! 鬼雨さん!)
無事でいて。どうか無事でいてと、祈る気持ちでハスズは屋敷の中へ戻った。
あの後、ハスズは宵によって一度屋敷の外へ連れ出されていた。
屋敷の中を通らずに、ハスズを抱えて窓から飛び降りて。
宵はずっと鬼雨に任せておけと言っていた。
ただ信じて待っていればいいと。
その間に自分たちは生き残った女たちを助けに行かなければならないと促され、一度はハスズも納得した。
鬼雨のことは気にかかるが、同じように気にかかる人物がいたからだ。
キズナ。村で最も親しかった幼馴染の存在。燃え盛る建物が崩れ落ち、御付きの姉さまを守るようにして呑み込まれた友人を。
生きているはずがなかった。それは分かっていたが、駆け付けないわけには行かなかった。
自分が望んでしまったがために、命を落としてしまった友人の姿を見ないわけには行かなかった。それは自分が背負わなければならないものだったから。
道には呆然自失の女たちがあちらこちらに座り込んでいた。
一体いつの間に消えたのか、あれほど猛威を揮っていた炎は燻る火種ほどになっており、替わりに宙を漂っているのは蒼白く淡い色を放つ光球たち。
ふわりふわりとあちらこちらで夜空へと舞い上がって行くその様は、まるでちょっと遊びに下りて来た星灯りが、天上へと帰って行くかのようで。
女たちが呆然と見上げているのは、ある意味幻想的なその光球の存在があったからかもしれない。
だが、決してそれだけではないとハスズは理解していた。突如炎に追い立てられて逃げ出したのだ。命からがら生き延びて、生き延びられたことが奇跡だと気が抜けているのだと。
それだけに凄まじい炎だった。
私を見ろと。崇めろと。恐れ逃げよと踊り狂う炎を前に、よくもこれだけの女たちが生き延びられたとハスズは思っていた。
だからこそ、胸が締め付けられていた。
ハスズは見たのだ。キズナの上に落ちた炎の塊を。
見たくはなかった。見付けたくはなかった。
それでも、見なければならなかった。見付けなければならなかった。
相手を押し退け合うように連立していた建物たちがすっかり崩れ落ち、どこがどこだかわからなくなった中で、ハスズは駆けた。
息を切らし、女たちの間を抜けて、そこで見た。
何が起きたのか解らないと言わんばかりの呆けた顔で、自ら守った女と共に座り尽すキズナの姿を。
「キズナ!」とハスズは叫んでいた。
自身の名を呼ばれたキズナがピクリと体を震わせて、驚きの表情をハスズに向けた。
「ハスズ?」
と、呆けた声が名を呼んだ瞬間、ハスズは一度は止めた足で駆け出して、飛び付く勢いで抱き着いた。
「キズナ! 良かった! 無事で良かった!」
科之を助けることを止めたキズナ。その声に耳を貸さなかったせいで村に不幸が訪れた。
お前のせいだと責め立てられて、絶対に許さないと拒絶されて、いつもハスズは傷付けられていた。
見えぬ壁があるかのように、決して近づけなかったキズナに、ハスズは今、あらゆるものを飛び越えて抱き着いていた。
目の前のキズナが幻でないことを確かめるかのように力の限り抱き着いていた。
かつて村にいた頃ですらしたことのない行為。
首筋に腕を回わし、幼子のように泣きじゃくる。
無事で良かったと。本当に良かったと。生きてくれていて良かったと。ありがとう、ありがとうと何度も何度も感謝して。
「今まで本当にごめんなさい。苦しませてごめんなさい。全てはあのときキズナの言うことを聞かなかったから。だから、ありがとう。生きていてくれてありがとう」
嬉し涙をボロボロと零しながら、胸の内を吐き出した。
キズナが戸惑っていることはその眼を見て解っていた。
それでも言わずにはいられなかった。たとえ自己満足だと罵られても構わないと思っていた。
少しばかり着物が焦げているだけで、炭と化した木枠の中に丁度納まっていたキズナ。
罵られるのも詰られるのも、生きていてくれるから出来ることなのだから。今は何を言われても嬉しいだけだった。
だからこそ、ハスズは立ち上がった。
気掛かりが一つ消えたのだ。
嫌われ切った自分がいつまでも傍に居ては、せっかく助かって安堵しているキズナも気分を害するかもしれない。
だとすれば長居は無用だった。
薄情だと言われれば薄情なのかもしれないとハスズは思う。
ずっと苦しめて来た幼馴染の安否がわかった途端に次へと気持ちを移ろわせるのだから。
キズナたちを苦しめて来た『村』は消えた。
鬼雨が、満身創痍になりながらも消してくれた。
消して欲しいと願ったハスズのために実行してくれた。
その鬼雨が、科之を追い掛けてどこかへ行った。
本来ならば到底動けるはずのない痛みを伴って。それでもハスズの願いを叶えるために、単身立ち向かった。
捜しに行かなければと思っていた。
一人にしてはいけないと思っていた。
村の娘たちに自分は必要ないのだから。
だからと言って、鬼雨に自分が必要なのだとは思い切ることも出来ないが、それでも宵が言ってくれたから。
見事願いを叶えてくれた暁には感謝して欲しいと。
そのためにハスズは踵を返していた。
その手を掴もうと伸ばされたキズナの手にも気付かずに。
宵の姿が見えないことにも気付かずに、ハスズは駆けた。
たった一つ、焦げることなく、焼かれることなく佇む建物に。科之の屋敷と呼ばれていた楼閣に。
そしてハスズは見たのだ。楼閣から吐き出されて来た娘たちを。
てっきりそこに鬼雨が居ると思っていた。
とにもかくにも、一刻も早く伝えたかった。願いを叶えてくれてありがとうと。
そのためにハスズは呼んだ。何度も呼んだ。
だが、それらしい姿は見えなかった。
嫌な予感がハスズの胸に沸き起こる。
同村の娘たちが逃げて来られたと言うことは、科之も手下たちも捕まえられない状態に陥っていると言うこと。それなのに鬼雨の姿が見当たらない。
ハスズは逸る気持ちに突き動かされるがまま、ミナカに掴みかかって問い掛けていた。
その返事を聞いた瞬間、ハスズは初めて同村の仲間たちに対して怒りを覚えた。
ミナカは言った。地下通路で倒れたと。
仮にも科之と言う脅威を排除してくれた恩人を、その場に残して自分たちだけが逃げ出して来たと言う話を聞いて、ハスズの心は燃え上がった。
何故一緒に連れて来てくれなかったのかと、喉元までせり上がって来た言葉を飲み込んで、ハスズは再び走り出していた。
屋敷の中は凄惨極まりない有様だった。
壁も床も血まみれだった。
『村』は炎によって浄化され、屋敷は血によって汚されていた。
憤怒の形相。恐怖の形相。苦悶の表情。眼を剥き、口を大きく開け広げて絶命していた。
血の海に踏み入って、足を取られながらもハスズは駆けた。
白足袋が見る間に赤く染まって行くのを感じながら、死した男たちの呪詛が絡み付くかのように足を重くして行く中、ハスズは駆けた。
息が上がった。喉がひり付き、肺腑が悲鳴を上げる。
むせ返る血の臭いに吐き気が込み上げる。
鼓動は速まり、視界が滲む。
(どうか、どうか。生きていて! 死なないで!)
突如ハスズの前に現れた鬼雨。
決して優しくなどなかった。厳しかった。容赦がなかった。
それでも、常に本心を聞いてくれた。嘘偽りのない想いを聞き届けようとしてくれた。
ハスズの無茶苦茶な願いを叶えるために、後に身動きなど出来ないほどの激痛を味わうことになると解っていて薬を使ってくれた。
満身創痍の中、手下に嬲り殺しにされそうになりながら、ハスズの願いを聞き入れて立ち上がった。本来動けるはずがないと言うのに、後のことなど考えていないかのように科之を追い駆け、ミナカたちを救ってくれた。
そんな鬼雨を一人にしては置けなかった。
廊下を駆け抜け、曲がるたびに足を滑らせ、血に濡れた床に手を付いて来た。
手も着物も血に染まっていた。
構ってなどいられなかった。やがてハスズは隠し通路の扉がある大部屋へ辿り着いた。
見れば確かに、壁の一部が内開きの戸のように開いていた。
「鬼雨さん!」
名前を叫んで暗闇の中へと飛び込む。
光一つない見知らぬ場所。それでもハスズに畏れる気持ちは無かった。
この先に鬼雨がいると言う確信があった。
剥き出しの土壁に手を付きながら名を呼ぶ。
何度も何度も名前を呼ぶ。
呼んだところで返事など返してくれないかもしれないと突然思うが、それでも名前を呼んだ。
どこにいるのかと。もういないのではないのかと。すでに手遅れなのではないかと思いつつ、踏み固められた地面を進むと、徐々に肉の焦げる不快な臭いが鼻腔を刺激した。
メラメラと燃え盛る炎が見えた。
燃えているのが何かはすぐに察せられ、思わず視線を逸らしつつも先に進んだ。
そして見付けた。血の海に沈む科之を。
その前に倒れ伏している鬼雨を。
「鬼雨さん!」
悲鳴染みた声が出た。
遅かったのかと絶望に苛まれながら、ハスズは駆け寄り抱き起した。
「鬼雨さん! 鬼雨さん! 駄目! 死なないで! 眼を開けて!」
膝の上に頭を乗せて、肩を揺すって呼び掛ける。
「『村』はちゃんと滅びました! 鬼雨さんはきちんと私の願いを叶えてくれました! 村の皆も無事に逃げられました! 『村』に飼われていた女の人たちも多分無事です! だから起きて下さい! お礼を言わせて下さい! 目を覚まして下さい!」
ハスズは訴えた。これまで出したこともないような大きな声で訴えた。
目に見えぬ鬼雨の魂を呼び戻すかのように。連れて行かせまいとするかのように。
「私に!」
叫んで、二の句が告げなくなった。
ボタボタと大粒の涙が溢れて零れる。
温かい雫が鬼雨の頬に落ちる。
「ありがとうと、言わせて下さい」
震える声で懇願する。
「お願いします。眼を覚まして。ちゃんとお礼を言わせて下さい。あなたのお陰で私は救われたんです! 今度は私の番なんです。ですから――」
と、何度も涙を拭いながら懇願すれば、
「うるさい……」
棘の抜けた小さな声がハスズの耳に飛び込んで来た。
「え?」
空耳かと思ったハスズが驚きに目を見開くと、重たそうに瞼を持ち上げた鳶色の瞳と眼が合った。
憔悴しきった眼だった。疲れ切った顔だった。それでも、
「おちおち休んでもいられないのか……」
力ない不満を口にしつつ、鬼雨が深々と溜め息を吐くと、ハスズは衝動のままに鬼雨の頭を抱き締めていた。
「ありがとうございます、鬼雨さん! 本当に、本当にありがとうございます。私のためにありがとうございます! 生きていてくれてありがとうございます! お礼を言わせてくれてありがとうございます! 本当に! 本当に……」
後は言葉になどならなかった。
涙が後から後から溢れ出た。
女子の身でありながら、異性を恥ずかしげもなく胸に抱くなどあってはならないことだったし、かつてのハスズには想像も出来なかっただろう。
だが、抑えられなかった。
たとえ痛烈な罵倒を浴びせられても、乱暴に腕を払い除けられたとしても。
心の底から溢れ出る感謝の気持ちを伝える術が他に思いつかなかった故に。
そんなハスズの腕の中で、鬼雨は告げた。
「うるさい……」
と。
その声には、怒りも苛立ちもなかった。
それはハスズの思い込みだったかもしれない。願望だったかもしれない。
それでもハスズには、その声がどこか安堵を含んでいるように聞こえていた。
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