(2)
長いようで短い道のりを経てハスズと鬼雨が外へ出ると、真っ先に目に飛び込んで来たのは焼け野原と化したはずの空間に立ち並ぶ篝火たち。そして、その下で赤々と燃える焚き火を銘々に取り囲んで座り込む大勢の女たちだった。
秋の夜は冷える。山の中は殊更冷える。ましてや突然の大火事の中、命からがら逃げ切った女たちは、誰もが憔悴しきっていた。誰もが肩を寄せ合い慰め合い、寄る辺を求めるかのように、温もりを求めるように身を寄せ合っていた。
視界一杯を埋め尽くす女たちの数に、ハスズは愕然としていた。
まさかこれほどの数の女たちが連れて来られていたとは。
そして、これだけの数の女たちが理不尽極まりない状況に囚われていたのかと思うと、ハスズは胸が締め付けられるような痛みを覚えた。
全てが全て『商品』にされていたわけではない。
ハスズの村の娘たちのように、世話係としてそれぞれに配属されていた者たちもいる。
だとしても、騙され人質にされ利用されている境遇は変わらない。
いや、変わらなかった。
今、今日、この瞬間、全てが変わるのだ。理不尽な世界が終わるのだ。
百人二百人を軽く超える女たちの拘束された人生を救うことが出来たのだと、目に見えて証明された時、
「おい!」
ハスズはガクリと座り込んだ。
お陰で鬼雨まで体勢を崩して膝を付く。
「す、すみません。なんか、ホッとしたら気が抜けて」
にへらと笑いながら震える声で謝罪すれば、鬼雨は苦虫を噛み潰したかのような顔でハスズを見やり、程なく深々と溜め息を吐いて胡坐をかいた。
火元がないため鬼雨の顔色を窺い見ることは叶わなかったが、それでもその顔が憔悴しているのは見て取れた。それでもどこか、憑き物が落ちたような穏やかな表情にも見えて、ハスズは理解した。改めて理解した。全てが終わったのだと。自分の願いが叶ったのだと。
「本当にありがとうございます」
意図せず飛び出したハスズの言葉は、
「いい加減しつこい」
力のない嫌味によって叩き落されたが、それでもハスズの心は晴れ晴れとしていた。
見上げた天上には無数の星々。
見下ろした先には温かなたき火を囲む数多の女たち。
(これで皆救われる。村に帰れる)
長年欝々と堆積して来た黒い物が綺麗さっぱり消えたようだった。
長年縛り付けられて来た重い足枷が取り払われ、重荷が全て取り払われたかのように体も心も軽くなっていた――ときだった。
「死ねええええええええっ!!」
(え?)
静寂を打ち破る恐ろしい叫び声がハスズの右手から上がった。
振り向けば、眉を吊り上げ眼を見開き、鬼のような形相で髪を振り乱しながら一人の若い女がハスズの目前に迫っていた。
その手にはきらりと光を反射するものが握られていて。
ハスズは当たり前のように刺されるのだと察した。
到底逃げられるような間合いではなかった。
完全に気が抜けていた。
それでも、楼閣から離れて座っていた女たちが騒ぎに気が付きざわめき立つ様子や、己を殺そうと襲い掛かって来る女が涙を零している姿はハッキリと眼で捕らえていた。
不思議な感覚だった。
酷くゆっくりとした動きだった。
これだけゆっくりならば、避けられるのではないのかと思えるほどに。
それでも、ハスズの体は動かなかった。
女の狙いはハスズの胸。心の臓。
ハスズの視線は女の視線とぶつかっていて、突き出された短刀が己の胸のどこにまで達しているのかなど見えてはいないはずなのに、それすらハスズには見えていた。
(ああ……終わりだ)
何故今? と悔しい気持ちもあるものの、むしろ何故今と悲しみを覚えながらその瞬間を待っていたが、実際にハスズの身に起きたことは刺される痛みではなかった。
「え?」
気が付くと、ハスズの体は後ろに思いきり引き倒されて支えられ、金属同士がぶつかり合う甲高い音が周囲に響き渡っていた。
鬼雨がハスズを引き寄せて、鉤爪で女の短刀を空高く跳ね上げたのだと理解したのは、女の傍にトサリと音を立てて短刀が地面に突き刺さった音を耳にした時。
まさに一瞬の出来事だったのだろう。
ハスズは鬼雨に片手で抱きかかえられながら、恐ろしく自己主張を始めた鼓動に身震いした。
まさか自分が殺されかけるとは思っても見なかった。
「何故?」と、眼を見張り、女を見やる。
喜んでもらえると思っていた。感謝もしてもらえるかもしれないと全く期待していなかったと言ったら嘘になる。それでも、殺されるほど憎まれるとは考えもしなかった。
女は手を押さえ、逃げ腰になりながらもハスズを睨み付けていた。
怒りと恐怖が交互に浮かぶ、見る者の胸を締め付けるほどに苦しそうな顔で、明らかな殺意を灯した眼で睨む。
「何故、こんなことを?」
問わずにはいられなかった。
「ようやく全てから解放されると言うのに、何故?」
対して女は叫んだ。
「あたしはそれを望んでなんかいなかった!!」
「?!」
泣き叫ぶ答えは、ハスズの体を落雷の如く貫いて行った。
自由になることを、苦界の身の上を、望む者がいたとは全くの予想外だった。
「あたしにはあたしを支えてくれる男(ひと)がいたのに! こんな世界で生きて行かなければならないって諦めが付いたときに、将来を誓ってくれた人が居たんだ! それなのに、そこの男が殺しやがった!!」
それは、物の見事にハスズの頭を殴って行った。
まさか、そんな状況が生まれていたとは想像すらしなかった。
「あたしは言った。その人を助けて欲しいと。見逃して欲しいと。でも、そいつは拒絶した。願いを叶えるために生かしておけないって言って。どこの誰が願ったかは知らなけれど、それでも助けて欲しいって言ったのに、そいつは逃げるあの人を殺した。泥沼の中の小さな寄る辺を奪われて、あたしはあたしのことも殺せと言ったのにそいつは殺さなかった。自分で死ねと言った。許せなかった。許せるはずがなかった!」
女の怒りに呼応して、篝火の炎が大きくなったようにハスズには見えた。
その煽りを受けたかのように、更なる驚きがハスズを襲う。それは、
「私も同じだよ」
「私もさ」
「わたしもだよ」
一人。また一人と、篝火の下から女たちが進み出て来た。
決して多くはない。だが、軽く十人は超えて来る女たちが、同じ気持ちだと訴え進み出て来た様を見せ付けられて、ハスズは自分が間違っていたのかと思い始めていた。
「今更真っ当な生き方が出来るなんて思っちゃいなかった。だから、ここでの幸せをそれなりに見付けて来た。それを希望に生きて来た。それをあんたなんかに邪魔される筋合いはなかったんだ!!」
「そうさ! 出て行きたければ出て行きたい奴だけ助けてれば良かったんだ!」
「誰があんたに助けて欲しいって願った!」
「誰があんたにあの人たちを殺して欲しいって願った!」
「ここにいれば腹いっぱい食べられた!」
「ここにいれば綺麗に飾ることも出来た!」
「ここにいれば教養が身に着いた!」
「元いた村にいたら絶対に手に入らないものを手に入れることが出来たのに! 出来ていたのに!」
「全てを私たちは失った!」
「あんたのせいで何もかも!」
矢継ぎ早に浴びせられる非難の数々は、数多の矢となりハスズを貫いた。
満身創痍のハスズは、息も絶え絶えになっていた。
間違っていたのかと後悔が滲む。
鼓動が速い。呼吸が浅い。
襟元をしっかりと握り締め、唇をしっかりと噛む。体が震える。
恐怖と後悔に心が折れそうになる。
それでもハスズはギリギリのところで踏み止まっていた。
ハスズを支え、ハスズの腕を掴む鬼雨の力強さを感じていたから。
同時に、どうか否定しないで欲しいと言っていた宵の言葉を思い出す。
ここで自分が折れてしまえば、鬼雨の努力と傷付いたことが無駄になる。
それだけは絶対にしてはいけないことだとハスズは思っていた。
ハスズは自分が間違ったことを望んだとは思っていなかった。
だとしても、ハスズは言い返すことが出来なかった。
女たちの言い分も正しかったから。
誰の意見も聞いてはいなかった。
誰にも打ち合わせなどしていなかった。
全て今日。ほんの少し前に決めて行われたことだったから。
責められても仕方ないと思ってしまったから。
故にハスズは咄嗟に反論が出来なかったのだが、
「それこそ、あんた達の勝手な言い分だろ」
焚き火を囲んでいた一人の女がすっくと立ち上がって反論した。
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