(2)
ハスズの頭の中は真っ白になっていた。何かを考えられるような状態ではなかった。
『村』が、火の海になっていた。騙して攫われて来た娘たちが、望まぬ仕事をさせられる場所。無くなってしまえばいいと誰もが思っているはずの場所。
確かにハスズは願った。山賊ごとこの『村』を滅ぼして欲しいと。
だが――
世界が赤かった。逃げ惑う人々の悲鳴が溢れ返っていた。体が震えて声が出なかった。
自分が願ったせいで引き起こされた光景に、ハスズは言葉を失っていた。
自分が招いた結果。自分が選んだ結果。それがまさか、こんな凄惨なことになるとは思いもしなかった。
鬼雨一人に一体何が出来るのかと思っていた。どんなに強いと言っても多勢に無勢。数で攻められてしまえばどうにもならないのではないのかと。
心配したハスズに宵は『取り越し苦労だよ』と笑って返した。そして、見ていれば分かると言い置いて、姿を消した。決してこの座敷から出てはいけないと忠告をされて。
だから見ていた。本当に大丈夫なのかと鬼雨の身を案じ、胸元を両手で握り締めて祈るような気持で見ていた。
やがて楼閣の一つから人々が悲鳴を上げて逃げ出して来た。
鬼雨が本当に願いを叶えてくれているのだと知り、胸に熱いものが込み上げて来た。
嬉しかった。ようやくみんなが解放されると安堵した。
だが、喜びも束の間。メラメラと音を立てて楼閣が燃え出し、次々と飛び火したのを見たとき、続け様に燃え移る様を見たとき、燃え盛る炎の中で楼閣が崩れ落ちる様を見たとき、ハスズは自分の願った願いがどう言う意味を持っていたのかを思い知った。
ハスズは願ったのだ。自分たちが生きて自由と平和を得るために、他人を殺してくれと。
言い方は違ったが、意味は同じだった。
命ある限り同じことが繰り返される。繰り返させないためには――
ゾッとした。
自分が何を望んだのかを知って。
同時に、そのために鬼雨の手を汚させていることを知って。
(……私は、卑怯だ……)
涙が溢れ出た。自分のために命を懸けて駆けまわっている鬼雨がいる。
突然炎に追われ、焼け死にたくないと逃げ惑う仲間たちがいる。
炎は鬼雨が点けたのか、たまたま逃げる際に倒れた蝋燭が発端なのか、それはハスズにも解らない。
ただ、自分は鬼雨に頼まなかった。仲間の安全を守って欲しいと。
願ったのは『私たちを解放して欲しい』と言うこと。宵には自分の置かれた状況を告白した。
だが、鬼雨は話を聞いていない。ハスズの指す『私たち』が誰の事を意味しているのか正確に理解しているとは思えない。だから鬼雨は逃げ惑う人々を誘導するようなこともしなかった。
もしも自分の願いのせいで、炎に巻かれて命を失うような人が一人でもいたら……。
いや、既に逃げ遅れてあの炎の中、崩れた建物の中に閉じ込められて命を失ったものがいたとしたら……。
考えるだけで足が震えた。とてもではないが立っていられずガクリと崩れ落ちる。
桟に手を付き、胸を押さえてガタガタと震える。
(ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい)
祈るように謝る。
自分が良かれと思って願ったことを謝る。
自分の手を汚すことなく危険で残酷な仕事をさせていることを謝る。
何も分からず混乱に巻き込んだことを謝る。
「……それでも私は」
続く言葉を飲み込んで、胸の内で叫んでいた。
(この願いは、紛れもない私の願いなんです! 皆を不幸にするこの場所も、苦しめる科之たちもいなくなってもらわないと、そうしないと皆を助けることが出来ないから! 鬼雨さんを利用しないと叶えられない願いだから! 偽りのない願いだから! だから……)
「ごめんなさい。皆無事に逃げて下さい!」
ともすれば後悔の沼に沈み込みそうになる自分がいた。
余計なことを祈ったかもしれないと言う思いはある。
だが、どれだけ考えても、こんな場所は無くなるべきだと言う強い想いだけは消えなかった。
皆にしてみれば、『逃げる』と言う選択肢しかない状況かもしれない。他人に選ばされた結果かもしれない。だとしても、逃げ出せれば未来はある。ここよりましな未来がある。少なくとも、自分のせいで連れて来られた娘たちは、まだ引き返せる場所にいる!
それに何より、ハスズは言われたのだ。『君は充分強いよ』と。
『君にきつく当たっていた鬼雨だけどね、あの子は君とは違って自分の願いを持とうとしなくなった臆病者だから。それに比べたら君はずっと強いよ』
思いもしない告白だった。
あの鬼雨より強いと言われてもいまいち理解出来ないでいると、宵は優しそうでいて悲しそうな笑みを浮かべて教えてくれた。
『あの子もね、君と同じように善意であることをしたんだよ。そうすることがその人にとって最もいいことだと思ってね。結果、あの子は仲間を失うことになった。厳密には、あの子のせいじゃないけどね、きっかけを作ったのはあの子の願いだったから。あの子は自分が望んだせいで周りが不幸になったと思い込んでしまったんだ』
似ている――と思った。良かれと思って助けた科之。その所為で自分たちがどうなったのか。
『根が素直だったからね。自分自身の追い詰め方にも容赦がなかった。それからと言うもの、あの子は何も望まなくなった。その代わりと言うように、他人の願いに執着するようになった。基準はワタシにもよく分からないけどね。あの子は心から悩み苦しんでいる相手の願いを叶えるようになったんだよ。まぁ、元々依頼されれば引き受ける仕事をしていたから、本来の仕事をしていると言えばそれまでなんだけどね。
だから、他人の願いに依存しているあの子よりも、ある意味では君の方が勇気があるんだよ。一度失敗している君が、心から何かを望むことがどれだけ勇気を必要とするものかは、あの子を見ていれば良く分かる。あの子は選ばないことを選び続け、君は選ぶことを選んだ。だからあの子は君の願いを叶えようとしている。その結果がどれだけ辛いものになろうとも、君は皆を助けるために願いを口にしたんだ。そして、その願いを叶える為に鬼雨を利用することにも罪悪感を覚える必要は何もない。だって、人は皆誰かを利用して生きているんだからね。使えるものは使わなきゃ。ただ、利用した後はちゃんとお礼を言ってあげて欲しい。感謝の気持ちを持っていてもらいたい。そうすればあの子も、少しは自分を許せるようになると思うから。
ね? こうやってワタシも君を利用しようとしているだろ? 君がこの後どれだけ辛い思いをするのか分かっていながら、ワタシはあの子の事しか口にしない。酷いだろ?』
そうやって笑った宵の顔はとても優しくて。
自分の願いを叶えることで、鬼雨が自分のことを許せるようになる――
自分の願いが誰かの役に立つと言ってもらえたことが、ともすれば罪悪感と言う闇に飲み込まれるハスズにとって、一本の細い細い希望の光に見えた。
だが、目の前の光景を見ていれば、どうしても不安が膨れ上がった。恐怖に身が竦んだ。
事前に打ち合わせをしていたわけではない。突然火の手が上がって逃げ出さざるを得なかった人々。中には寝ていた者もいたかもしれない。怪我をしていた者や病気で動けない者もいたかもしれない。ハスズは科之のいるこの建物以外の建物に入ったことがない。中で生活をしている女たちがどう言う状態にあるのかハスズは知らない。
(そうだ、私、知らないんだ……)
知らないことに気が付いたハスズは今更のように愕然とした。
もしも誰かがこの瞬間、折檻部屋に入れられていたとしたら……誰かが折檻を受けて力尽きて気でも失っていたとしたら……
遊郭の部屋には基本的に鍵のかかる場所はない。だから逃げようと思えば逃げられるのだが、どことも知れない山の中に目隠しされて連れて来られた以上、帰るべき方向さえ怪しい中で、そのことをあえて忠告されている状態で逃げる娘はいなかった。運よく逃げ出せたとしても山の中で遭難する可能性は限りなく高く。下手をすれば熊や狼、野犬に襲われる可能性も高い。
逆に途中で捕まれば、強制的に連れ戻されて『商品』にされる。下手をすれば足の腱を切られて自力で移動出来ないようにされることもある。そんな中で逃げる者は殆どいないとは言うものの、それでももし鍵の付いた部屋があったとしたらと考えて、ハスズは息が止まった。
建物の構造が同じなら、鍵のかかる場所はない。だが、もしも違っていれば、鍵のかかったまま閉じ込められていれば、生きながらに焼かれることになる。
一瞬にしてハスズの体から血の気が引いた。ザッと血の気の引く音まで聞こえるほどに。
呼吸が上手く出来なかった。自分が、自分の願いのせいで誰かを殺したかもしれないと言う可能性が恐ろしかった。
怖くて怖くて堪らなかった。宵は強いと言ってくれたが、
(私はやっぱり強くはありません!)
心の中で悲鳴を上げる。
願いそのものに後悔はないが、その『結果』が恐ろしくて仕方がなかった。
宵は何度か言っていた。ハスズの願いが叶ったとき、辛い思いをすることは分かっているのにと。正直ハスズはきちんと意味を理解していなかった。精々が山賊たちの命を奪ってしまうことを指していると思っていたのだが、今なら分かった。それがただの序の口だと。
怖くて怖くて堪らなかった。誰かに傍で『大丈夫』と言ってもらいたかった。
だが、傍には誰もいない。宵すらいない。宵がどこで何をしているのかハスズは知らない。
屋根の上で逃げて来る女たちに護符を張り付けていることをハスズは知らない。
助けてもらいたかった。お前は悪くないと言ってもらいたかった。
でも誰に? と思ったとき、ハスズの脳裏に父親の笑顔が蘇った。
『大丈夫大丈夫。お前は悪くない。お前は母さんを喜ばせたかっただけだもんな。父さんも一緒に母さんに謝ろうな』
幼い日の温かい言葉を思い出す。
母親が早くに鬼籍に入ってしまい、泣きじゃくるハスズを懸命に宥めて守ってくれた父親のことを思い出す。
それが――
科之たちが村から娘たちを連れて行くとき、怒りや拒絶を露わに、救いの手を伸べてもくれなかった父親の顔を思い出す。
胸が締め付けられ、心の臓が痛かった。見捨てられていると思わずにはいられなかった。それでも今は、
「お、父さん……」
頼らずにはいられなかった。返事など返って来る訳がないと知っていながら、呟かずにいられなかった。
どんなに望んだところで、父親が自分に会いに来ることなど皆無だと言うことを知っていながら。
故にハスズはたった独りで立ち向かわなければならなかった。
ギュッと胸元を握り締め、しっかりと唇を噛み締め、俯けた顔を持ち上げる。
眼からは後から後から涙が零れた。膝があり得ないほどに震え、吐き気が次から次へと込み上げて来た。
それでもハスズは耐えなければならなかった。
開け放たれた窓から逃げ惑う人々の悲鳴と怒号が聞こえて来る。
燃え盛る炎が夜空を焦がし室内を赤く染め抜き、熱された風が吹き込んで。
ガラリ、ゴロリと豪奢な建物が墨と化して崩れゆく。
あたかもそれは、身の丈に合わぬ絢爛なる衣を剥ぎ取られ、泣き崩れている女のようで。
その姿を嘲笑うかのように、業火は次の獲物へ手を伸ばす。
もう、元には戻せなかった。無かったことには出来なかった。
決してこんな地獄のような光景を望んで訳ではなかったが、それでもハスズは願ったのだ。
手段を指定したわけではない。結果だけを望んだ。
ハスズに鬼雨を責める資格などなかった。
今眼下に広がる地獄は、ハスズが招いたことだった。
誰のせいにもできない。受け止めきれずとも受け止めなければならないことだった。
それでも――「――っふ……うっ……」
嗚咽が漏れた。視界が歪んだ。
桟に手を掛け、倒れ切ることだけは耐えるも、ハスズの胸は恐怖によって張り裂けんばかりの痛みを覚えていた。
怖かった。怖くて怖くて頭がおかしくなりそうだった。
自分の手で鬼雨を殺してしまうかと思ったときは宵が助けてくれた。
だが、今ここに宵はいない。
助けて欲しかった。守って欲しかった。眼を瞑り、耳を塞ぎ、何も知らない振りが出来たらどんなに良かったかと思わずにはいられなかった。
それでもハスズは願ったのだ。
突然の炎の中、誰の助けも得られずに逃げ惑っている女たちがいる。
自由の身になれると言う喜びよりも、焼き殺されたくなどないと言う恐怖心に突き動かされ、逃げ惑う女たち。
その声を、気配を、ハスズは感じていた。聞いていた。
そして、思った。
(私だけが守られているわけにはいかない)
見渡す限り炎が踊り狂う世界で、唯一無傷なこの楼閣に居るハスズは他の誰よりも安全な場所にいた。
油断すれば火だるまにされかねない踊り手の誘いを躱しながら、死の舞踏を踏まぬように逃げ惑わなければならない女たちに比べたら、自分はどれだけ恵まれているか分からない。
自分が居たから、女たちはこんな隠れ村に連れて来られた。
本来ならば、好いた相手と思いを添い遂げ、慎ましくも当たり前に歩むはずだった将来を粉々に砕き、心を殺したのはハスズ。人生を狂わせられた女たちを、今再び《肉体の死》と言う恐怖のどん底に陥れているのもハスズ。
女たちからすればハスズは加害者以外の何ものでもない。そのハスズが被害者ぶることなど許されないことだった。
ハスズは願ったのだ。
こんな『村』などあってはならないと。
こんな『村』がある限り、同じ悲劇が何度でも繰り返される。そんなことは許されないと。
だから願った。
突如炎に呑まれた『村』。そのきっかけを作ったのがハスズだと知られれば、女たちに殴り殺されるかもしれなかった。だが、初めは怒りに支配されたとしても、後になって感謝してくれる日が来るかもしれなかった。
心から好いてもいない相手に、欲求のはけ口として利用されるような人生が当たり前でいいわけがないのだから。無理矢理諦め納得する必要などないはずなのだから。
生きていればやり直せるかもしれない。諦めていた幸せを手に入れられるかもしれない。
都合のいい言い訳だと言うことは百も承知でハスズは自身に言い聞かせた。
ハスズは己を奮い立たせた。
もう戻ることは叶わなかった。
見守らねばならなかった。
それが、鬼雨に願いを告げた己の責務だと言わんばかりに。
震える足に鞭打って、桟を掴む手に力を込めて立ち上がる。
見下ろす先で、女たちが髪を振り乱し、着物を振り乱し、互いの手を取り駆けていた。
中には半裸の女もいたが、命の危機が迫る中、裸を気にする者はいない。
ハスズは両手を握り合わせて口元に押し付けた。
「お願いします。お願いします。どうか皆無事に逃げて下さい。責めは受けます。甘んじて受けます。だからどうか、無事に逃げ切って下さい!」
祈ることしか出来なかった。心の底から。
その耳に、
「姉さま! 立って!」
「?!」
鋭い聞き慣れた声が飛び込んで来た。
弾かれたようにハスズは顔を上げ、奇跡的に聞き取れた声の主を探すべく、桟に両手を添えて窓から身を乗り出した。
そして見た。村で最も仲の良かった幼馴染の娘と、その娘が手を引いていたと思われる『商品』を。その上に、無情にも崩れ落ちる館の残骸を。
やけにゆっくりと、ハスズは見た。
まるで椿の花がボトリと落ちるかのように、炎を纏った残骸が落ちて行く様を。
幼馴染の娘がハッとした顔を上げた。
絶望に表情が強張り、眼を見開く様まで見て取れた。
そのまま娘は世話をしていた女の上に覆い被さる。
覆い被さったところで、燃え盛る炎が倒れ落ちれば、女諸共火だるまになると言うのに。
それでも娘は女を守ろうと体を張って――
ハスズの目の前で炎に呑まれた。
「――――――――――――――――――っ!!!!」
声なき悲鳴がハスズの喉を震わせた。
(嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!)
あり得なかった。信じられなかった。信じるわけにはいかなかった。
頭の中が真っ白に染まる。
次の瞬間、ハスズの頭の中からは宵の忠告など綺麗さっぱりと消えていた。
ただただハスズは、無事に村に返したかった幼馴染の元へ駆け付けたくて身を翻していた。
『この座敷から出てはいけないよ』
それがどう言う意味を持っていたのかハスズには知る術など無かったが、ハスズの行動を止めることは出来なかった。
倒れ込みそうになりながら畳を蹴り、襖に手を掛け、勢いのままに開け放ち――ハスズは、その言葉の意味を思い知ることとなった。
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