第三章『外道のもの』
(1)
「火事だ! 逃げろ! 逃げろ!」
「客を逃がせ! 女は逃がすな!」
「水だ! 水持って来い! 火を消すんだ!」
『村』が炎に包まれている異変は既に知れ渡っていた。夜を照らす赤過ぎる明かり。熱過ぎる夜風。黒い煙が空を求め、焦げた臭いが辺りを満たす。
遊郭は大混乱を来していた。逃げ惑う客と娘たち。それを阻止しようとする袢纏の男たち。
その背後に鬼雨は舞い降りた。
「ぎゃっ!」
開け放たれた二階の廊下。本来ならば誰もそんな場所から入り込んだりはしない。
完全に油断していた袢纏を纏った男は、突如飛び込んで来た鬼雨により、背後をざっくりと切り裂かれていた。
ただでさえ炎に巻かれたくないと逃げ惑っていた人々は、突如上がった悲鳴と血臭、倒れて喚く男の背後にゆらりと立つ鬼雨を見て――
『うわああぁあああっ!』
恐慌状態に陥った。殺されて堪るかと他人を押し退ける勢いで階下へ続く階段へと殺到する。
鬼雨はそんな流れに逆らって、気色ばんで匕首を抜いて突進して来る袢纏男たちへ向かい床を蹴った。
一人二人三人と、全く走り抜ける勢いを殺さぬままに通り抜け、館の端に辿り着く。
「――っ!」
息を呑み込む気配を感じたのはそのとき。サッとそちらへ顔を向ければ、階下へ続く階段が。
気配はその向こうからして来ると察した鬼雨が階段の端まで歩み寄り見下ろせば、階段の終わりに、蒼褪めた顔の袢纏男。
鬼雨は一切の躊躇いもなく階段を飛び降りた。十五段以上はありそうな階段の上を鳥の如く舞い降りる。寸分違わず男の目の前に膝を付いて降り立つと、怯えた眼が鬼雨を見下ろしていた。
息を吸い込むと同時に右手を逆袈裟懸けに振り上げる。
「ひぃっ」
男は情けない悲鳴を上げ、後方へ足を縺れさせながら尻餅を付いた。
だが、結果的にはそれが功を奏し、男は袢纏を切り裂かれただけで難を逃れた。
ただし、絶体絶命には変わりはなかった。今度は鬼雨が男を見下ろした。
見下ろす先で、男は涙を零して震えていた。
「た、助けてくれ」
掠れた声で訴えられた。
「何故だ?」
ごく自然に問い掛けて、男が答えるより早く腕を振り抜いた。
鮮血が噴き出し、鬼雨の無表情な顔を赤く汚す――そのとき、
「嫌ぁあああああ!」
絹を裂く悲鳴。
見るともなしに見れば、綺麗に着飾った娘が、絶望を張り付けて駆けて来て。
「マサさん! マサさん! 嫌! 死なないで! 置いて行かないで!」
噴き出す命を押しとどめるかの如く、傷口を懸命に抑えて泣き叫ぶ。
着物がみるみる赤く染まる。娘の白い手も赤く染まる。
娘は泣いて、叫んで、否定した。
その姿を鬼雨は見た。ただ見下ろした。不思議なものを見るかのように見下ろした。
すると突然、娘が鬼雨を見た。射殺さんばかりの怒りの眼が真っ向から鬼雨を見た。
「どうして?」
怒りと憎しみに染まった低い声だった。
「どうしてこの人を殺したの? この人があんたに何したって言うのさ!」
「別に」
「別に? 別にですって?」
娘の顔に狂気の笑みが浮かぶ。
「理由もないのにこの人を殺したって言うの?! ふざけないで!」
「ふざけてはいないし、理由はある」
「理由? どんな理由よ!」
「依頼を受けた」
「は?」
「依頼を受けた」
「誰から?」
「言えない」
「どんな?」
「この『村』を山賊ごと滅ぼして、『私たち』を解放して欲しいと」
「だからこの人を殺したって言うの?!」
「そうだ」
「何がそうだよ! この『村』から解放されたいなら、自分たちだけ助け出して貰えばいいでしょ! それなのにどうしてこんな!」
娘は激高した。血の涙を流して罵った。
「私は別にこの『村』を滅ぼして欲しいなんて思ってなかった!」
「そうか」
「そうよ! 確かに初めに連れて来られたときはこの『村』を呪ったし、こんな風にした連中皆を恨んだりもした! でもね、『仕事』以外の時間は、幸せだった! 食べるのも困らないし、着るものにも困らない! 綺麗に着飾って読み書き習って、楽器習って! 普通に村で生活していたら絶対に体験できない良い思いも沢山して来た! 私のことを心から好いてくれる人も出来たのに! なのに、どうして勝手に私の幸せを奪うの?! あんたにそんな権利があるって言うの?」
「ないな」
「依頼した奴にはあるって言うの?」
「ある」
「は?」
「人の願いと言うのはそう言うものだ。願いを叶えると言うのはそう言うことだ。いつも何か願いを叶えれば、必ずどこかで誰かが巻き添えを喰らう。割の合わない目に遭う」
「だから、何? ここで、こうやってマサさんが殺されるのも仕方がないって言うの?」
泣き笑い、打ち震える声で問われる。
「……そうだ」
「ふざけるな!」
「ふざけてない」
「だったら、私の願いも叶えてよ! あんたに依頼したそいつを殺してちょうだい!
そうよ! そいつの願いが叶え終わったら、今度は私の願いを叶えてよ! 私の大切な人を殺した罪を命で支払って! 出来るでしょ!」
「出来なくはない」
「だったらやって!」
「やらない」
「は?」
娘の顔が強張った。
「どうして? どうしてやってくれないの?」
「決まりだからだ」
「決まり?」
「そう。一度依頼を受けた人間に対する報復依頼を受けることを禁じる――そう言う決まりがある」
「何それ」
娘は鼻先で笑い飛ばした。
「そんなもの、私の知った事じゃないわ!」
「だろうな」
「でも! 許せるもんじゃないのよ! 言いなさいよ! あんたに依頼した女のこと!」
「言わない」
「どうしてよ!」と、娘は癇癪を起して叫んだ。
「どうしてそいつの願いは叶えてやるのに、私の願いは叶えてくれないの?!」
「決まりだからだ」と、鬼雨は再び繰り返した。
「願いを叶える相手は日に一人だけと決められているから。だからあんたの願いはどちらにせよ叶えることは出来ない」
「だったら――」と娘の声音が低くなる。
「私がこの人の仇を取ってやる……あんたを、この場で殺してやる!」
この世の全てを呪い尽くさんばかりに憎しみを込め、殺気を振り撒いて女は吼えた。だが、鬼雨は応えた。
「やめておけ」――と。
「お前にはどうにも出来ない」――と。
対して女は訴えた。
だったら殺してと訴えた。
「今更もう、村には戻れない。普通の生活にも戻れない。この人がいない世界になんか興味はないわ。周りから白い眼で見られて生きて行くより、この人の傍で終わりたいの! だからお願い! 私も殺して? ね?」
縋りつくような眼差しだった。涙はとめどなく流れ、誰もが慈悲の心を動かしかねない面差しを向けられて。しかし相手は鬼雨だった。
「女は殺せない」
あっさりとした拒絶だった。
「な……んで?」
問い掛ける声が掠れていた。
「どう……して?」
信じられないとでも言わんばかりの口調に、鬼雨は容赦なく背を向ける。
「それも、決まりなの? ねぇ!」
歩み出す鬼雨に訴えかければ、鬼雨は答えた。
「それは、師匠が怒ることだから」
「は?」
「男は女に手を上げてはいけない。傷付けてはいけない。ずっとずっと言われていた。だから、その願いは聞き届けられない。死にたかったら勝手に死んでくれ」
直後、前方に袢纏を纏った男の姿を捉えた鬼雨は、無慈悲にも用は済んだとばかりに走り出していた。
その背には、『ふざけるな人殺し!』と、思い付く限りの罵詈雑言を吐き出す娘の声が叩き付けられたが、その全てを鬼雨の耳は遮断した。言葉など、交わさなければ良かったと思いながら――
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