(3)


「ハスズ」

「っひ」

 目の前に、目の据わった科之が立っていた。

 なまじ整った顔立ちの分、冷え冷えとした冷たい眼は、ハスズの足をものの見事に畳へと縫い付けた。

 見えない手がハスズの心臓と喉を絞めつける。息が出来なくなり、胸が痛む。

 ともすればへたり込みそうになりながら、ハスズはよろめくように一歩座敷に戻った。

 そんなハスズの肩越しに、燃え盛る『村』を見た科之。

 その眼が更にスッと細まっただけで、ハスズの腰は簡単に抜けた。

「ハスズ……これはどういうことだい?」

 声が一段低くなってはいるものの口調はまだまだ柔らかい。

 だが、自分の横を何事もなく通り過ぎる際に生み出された冷気が、余すことなくハスズに絡まりついた。

「ここにはあの小僧の死体が転がっているはずじゃなかったのか? 何一つ物音がしないと思えば、見張りもいない。そのくせ襖も開かず、呼び掛けにも答えない。何かがおかしいと待ち構えていれば……。

 小僧はどこに行った? この『村』の有り様はんだ? お前が逃がしたのか?」

「ち、ちが……」

「だろうな。お前にはそんな大胆なことなど出来はしない。そもそも、これだけの騒ぎになっていながら、この館だけが外界の様子を知ることも叶わなかった」

(え?)

 言われて初めてハスズも気が付いた。ずっと何かが引っ掛かっていたことが何なのか。

 これだけの騒ぎが起きて、どうして科之が動かなかったのか。

「一体これはどういう仕掛けだ? あの小僧は何をした?」

 どれだけの年月を掛けて作ったかしれない『隠れ村』。

 それが今、科之の目の前で燃え尽きようとしているにも拘らず、科之の口調は恐ろしいほどに凪いでいた。

 いっそのこと、怒鳴り散らし喚き散らされていた方がどれだけ楽だったか分からない。

 終わりだ――とハスズは察していた。

 何をどう言い繕ったところで、ハスズの不手際のせいで起きたことだと科之が決定づければ、その時点で終わりだった。

 これまでも、度々ハスズは失態を晒して来ていた。常にギリギリのところで踏み止まってなんとか科之の言い付けを守ろうとして来たせいで、計画に支障を来すことがあった。

 その度にハスズは、瘧のように体を震わせ、死人のように血の気を引かせ、平身低頭。畳に額を押し付けて、つっかえながら謝り続けて来た。


 ――どうか村の皆には罰を与えないで下さい。

 ――罰なら私が甘んじて受けますから、どうかどうか、皆のことは見逃して下さい。

 ――今度はもっと上手くやりますから、どうかどうか、お許しください。


 謝りながらも、何度目の失態かと頭の中の冷静な部分が数え上げていた。

 いかに科之とてもう許してなどくれるはずがないと、何度も何度も思って来た。

 それでも科之はガタガタと音を立てそうな勢いで震えているハスズの頭に手を置いて、常に『大丈夫。娘たちには罰など与えないよ。勿論お前にもね』と、優しく慰めてくれていた。

 だとしても、ハスズの心は欠片も休まらなかった。

 恐ろしかった。恐ろしくて恐ろしくて仕方がなかった。

 何故自分にだけ殊更優しく接してくれるのか。

 ある時ハスズは問い掛けていた。

 問い掛けるつもりもなく問い掛けていた。

 何故、許してくれるのか――と。

 科之は答えた。

 私は君のことが大好きだからだと。

 にっこりと優しく微笑んで、子供をあやすように抱き締めて、頭や背中を撫でてくれた。

 勿論、ハスズとて馬鹿ではない。その行為を頭から信じることなど出来なかった。

 故に、恐ろしかった。

 いつか溜めに溜めた怒りや不満がどう言う風に顕現するのかと。

 それでもまだ、今回のことに比べたら今までのことなど取るに足らぬことだったとハスズだって理解出来た。

 ハスズも見たのだ。ハスズの願いを聞き入れた鬼雨が招いた結果を。

 これまで攫われて来た娘たちの怨念が、待ちに待ったと言わんばかりに意気揚々と嬌声を上げ、紅蓮の着物の袖や裾を翻し、地獄の業火と化して『村』を飲み込み嘲笑っている様を。

『村』を続けるために、娘たちを攫う手伝いをさせられて来た。

 時に失敗することもあったが、別に急いでいないと見逃して貰えて来たが、今回は違う。『村』そのものが今まさに滅ぼされようとしていたのだから。


「ハスズ――」

『村』を見下ろしながら、恐ろしく凪いだ声で科之が呼んだ。

 その声は、背後からハスズの心の臓に薄い刃を差し込んだ。

 ハスズは返事を返すことが出来なかった。居住まいを正すことも出来なかった。

 鼓動すら聞こえず、頭の中は真っ白に染まっていた。

「ハスズ? 聞こえているかい?」

 言い逃れなど出来なかった。

 これまでは何とか村の娘たちを守ることが出来ていた。

 だが、今回ばかりはさすがに無理だった。

『村』が無くなった以上、娘たちが『商品』にされることはない。

 ならば、科之はどうするか。

 ハスズの耳を女たちの悲鳴が貫いた。

 脳裏に血の花を咲かせ、重なり倒れる娘たちの姿を見た。

 声もなく、音もなく、ハスズの頬を後悔が雫となって流れ落ちる。

「ハスズ。教えておくれ」

 科之の振り返った衣擦れの音がして。

「あの小僧は何をしたんだ?」

 着物越しでも伝わる冷たい手がハスズの肩に置かれ、すぐ耳元で囁くように問われた。

 科之がハスズの横で膝を付き、幼い子供を促すような穏やかな顔で覗き込む。

 答えられるわけがなかった。ハスズだとて、鬼雨が何をしたのかなど判らないのだから。

 ましてや、自分が頼んだせいでこんなことになったのだとは言えるはずがなかった。

 それを科之がどう捉えたものか。

「大丈夫だよ、ハスズ。あの小僧が本気になればお前が敵うわけなどないと言うことは判っているのだから。ただ私は知りたいんだ。何がどうしてこんなことになったのか。お前があの小僧を殺そうとしたことに腹を立てたと言うのなら話は分かるが、だとすれば、どうして命を狙ったお前を殺さずに姿を消したのか」

 ごめんなさい――とハスズは声にならぬ声で謝った。

 一体誰に向けたものか。

 科之の声は聞こえているが、頭の中にまで届かなかった。

「これは報復か? 見せしめなのか? こうすることでお前が不利になると思ったのか?」

 頷いた。半ば無意識に。

 報復だった。

 見せしめだった。

 そうだった。

 呆然自失の中、唐突にハスズは光を取り戻した。

 これはハスズの望んだことだった。報復するつもりも見せしめのつもりもなかった。

 だが、結果的には科之にそう見えるのだとしたら、そうなのだ。

 これまで望まずに虐げられた数々の女たちの報復。逆らいたくとも逆らえ切れなかった科之に対する見せしめ。

 様ァ見ろと罵り笑う声が聞こえて来るようだった。

 廊下を挟んだ障子戸に、赤く揺れる炎の影が楽しげに笑っているように見えた。

 誰も成し遂げられなかったことを鬼雨が成してくれた。

 冷え切った心に、小さな小さな火が灯ったような気がした。

 その変化を、変化とも見えない変化を、科之は見逃したりなどしなかった。

「そうか。お前が頼んだのか」

「!!」

 ようやく灯った希望の灯りを消すかの如く、頭から冷水をぶちまけられたかのような衝撃がハスズを襲う。

 強張り怯えた目を弾かれたように科之に向ければ、科之はこれまでハスズに向けたことのない冷ややかな眼でハスズを見ていた。

「これまでの恩を忘れて、私の村を滅ぼすように頼んだか」

「ち、ちが……」

 反射的に否定しようとするものの、獣が噛みつくかのように、肩に置かれた手に力を籠められて言葉を飲み込む。

「調子に乗せてしまった私が悪いのだろうが、よもやここに来てここまでのことをされるとは思いもしなかった。確かにお前を騙して苦しめたのは私だが、お前との約束はきちんと守って来たはずだったけどね」

 ギリギリ、ギリギリと白く長い科之の指が肩に食い込んで行く。

「どうせ何も出来ないと高を括っていれば、いやはや、やっぱり女は恐ろしいね。でも、約束を違えたのはお前だからね、ハスズ。私にはもうお前たちの身の安全を守る約束を果たす必要はなくなった。これからはお前たちも『商品』だ」

 絶望的な宣言に、ハスズは眼を見開き喘いだ。

 ハスズが最も恐れていたこと。それはハスズ自身が『商品』にされることではなく、友たちが『商品』にされること。

 事ここに至って、ハスズは自分がどれだけ早まったことをしたのか思い知った。

 たとえこの村を滅ぼしても、科之が生きている限り、第二第三の被害者が現れる。

 それだけではない。合図を送れば村の人々の命が奪われると言うことにも思い至った。

 如何に鬼雨が強くとも、科之が合図を送る方が断然早い。

 仮にこの場で科之を仕留めることが出来たとしても、娘たちを救い出せたとしても、帰った先に出迎える者が居なければ、自分たちに生きる術はない。

 浅はかな己自身が誰よりも許せなかった。

 体中の水分が流れ切るのではないかと思うほどに、涙が後から後から溢れ出た。


「泣いても遅い。もう許されないんだよ」

 すっかり炎に照らされ染められた科之が、赤鬼の如く冷酷に残酷に宣言し、許しを乞おうと口を戦慄かせたハスズの唇を唐突に塞いだ。

 驚きに目を丸くする。

 自分の身に一体何が起きたのか理解出来ず息を止めると、その口の中に生温かなものが潜り込んで来て――

「嫌!」

 反射的に科之を押し退けて悲鳴を上げた。

 だが、奇跡的に一度は離れられたものの、すぐさま頭を押さえられ口を塞がれた。

 生理的嫌悪感が背筋をせり上がった。

 暴れる体を片腕で抱き寄せられれば逃げられず、息つく間もない行為に呼吸もままならず、ハスズは得も言われぬ恐怖に囚われる。

 先人の娘たちが味あわされて来た、心を通わせぬ異性に蹂躙される恐怖は遥かにハスズの想像を超えていた。

 同時に思った。こんな恐ろしい目に遭わせて来た娘たちのことを。今後同じ目に遭わせられる娘たちのことを。

 自分がどれだけ穢れた存在なのかをまざまざと見せつけられた。

 だからこそ、自分は何をされても文句は言えないと思った――ときだった。


「お楽しみ中のところ申し訳ないんだがね。その子はワタシの弟子に宛がわれた子であって、つまりはワタシの今夜のお相手なんだけど、横から味見されるのは不快だよ?」

 どこか拗ねた子供のような物言いが、科之の動きを静かに止めた。

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