(2)


「いい加減にするんだ、鬼雨!」


 鋭い声と共に、ハスズは背後から抱きすくめられていた。

 力強い腕が自分を引き寄せ、震える体を包み込む。

 何もない空間を掴む形で伸ばされた手には漆黒の短刀は握られておらず、自分を責め続けていた鬼雨の眼は既に外され、ハスズの頭上へ。

「邪魔をするな、宵」

 それまでハスズに向けられていた怒りをそのままに、ハスズを鬼雨から引き離した宵を睨み付ける。

 そう。ハスズは鬼雨の師匠である宵によって保護されていた。

 半ば呆然としているハスズを包み込みながら、宵は呆れた声で鬼雨を窘めた。

「邪魔をするな――じゃないよ。お前は一体何をしてるんだ」

「そいつの願いを叶えてやろうとしていただけだ」

「何が『そいつの願いを叶えてやろうとしただけ』だ。ワタシにはどう見ても、お前が自分の望みを叶える為にこの子を利用しているようにしか見えなかったけどね。お前だって分かっていただろ。あんなに本気で嫌がってたのに。女の子に無理強いなんかしちゃいけないってあれほど言って聞かせただろ? 可哀想に、こんなに震えて……恐かったね。もう大丈夫だからね」

 両腕でしっかりと抱き締められ、ポンポンと優しく肩を叩かれる。

 ハスズの体からあらゆる力が抜けて、安堵のあまりボロボロと涙を零す。声も上げずに泣きじゃくる。

 一方で、鬼雨の不満が膨れ上がる。

「そいつが、望んだんだ」

 精一杯、怒りを押し殺した声での口答え。

「そいつが、俺に、『殺されて欲しい』と望んだんだ」

「でも嫌がってただろ?」

「それでも、そいつが『本心』だと言った」

「言っていたね」

「だから――」

「都合がいいと思ったのかい?」

「っ!」

 冷ややかな宵の声に、グッと鬼雨が言葉を飲み込む。

「お前の願いを叶えるのに都合がいいから――」

「俺は! 何も願ってなどいない!」

 今度は鬼雨が宵の言葉を遮った。

 そうかい――と、宵が溜め息交じりに言葉を零す。

「お前がそう言い張るならそれでいい。でもね、自分に都合のいい願いに拘るのはいけないよ」

「拘ってなんかいない。そいつが心から望んだから――」

「その後の願いを聞き入れる必要はない――と?」

「………………」

「あれだけ心の底から嫌がっていたのに? やりたがらなかったのに? 否定していたのに?

 どこからどう見ても、この子の本心はお前を『殺したい』じゃなくて、『殺したくない』と言っていたように思えたけどね。お前には本当に分からなかったのかい?」

「…………だってそいつが、本心って言ったから……」

「でもそれは、覆していたよね?」

「…………」

「本心は心からの願いで、簡単には変わらないもの。だから、叶えられぬ者の本気の願いを代わりに叶える――そうやって生きて行くって決めたんだよね? そうやって生きて行く方が楽だから」

「…………」

「だったら、お前を殺したいと望んだ願いを簡単に覆したこの子の願いは、本心じゃなかったてことじゃないのかい?」

「でもそいつは!」

「言ったんだよね。殺されて下さいって。本心だって。おそらくそれは本当だったとワタシも思うよ」

「だったら!」

「でもね」と、声を荒げる鬼雨に対し、宵はやんわりと遮った。

「お前は上辺の決断しか見ていなかったんだよ」

「上辺の……決断?」

「そうだよ。お前に『殺されて欲しい』と望んだのは、本心の上にある上辺の決断さ。心からの願いを押し殺してでもやらざるを得ないと判断したもの。心じゃなく、頭で導き出したもの。

 人はね、鬼雨。これまでもたまに言って聞かせて来たけどね、赴くまま心のままに物事を進めて行けるものではないんだよ。守るものがある者は、時に心を殺して決断しなければならないことと直面する。そんなとき、心から望んでいることとは裏腹の決断を下すときがある。

 だからお前には、この子が何一つ決められない子のように思えていたんじゃないのかい? 本心本心と、口に出された願いだけが心からの願いだと決めつけているから、お前は見誤ったんだよ、この子の本心を」

「そんなことは!」

「あると思うよ。ワタシもここに来てからずっとこの子を見ていたけどね。ワタシには分かったよ。ずっと『何か』と戦い続け、悩み続け、もがき続け、『助けて欲しい』って心から叫んでいる『心の声』がね」

 鬼雨の眉が理解不能だとばかりに顰められ、ハスズは弾かれたように宵を見上げた。

 宵はハスズを見返しては来なかった。代わりに、全て分かっているとでも伝えるように、

優しくポンポンと肩を叩いて来た。

 ハスズは心が震えるのが分かった。分かってくれる人が現れたことで、心から救われたような思いを抱いた。やっと、やっと救われるのかもしれないと安堵しかけたとき、

「知ったことか」

 ハスズの希望を打ち砕きかねない否定の声が。

「俺には、知ったことじゃない。そいつは言ったんだ。俺を殺したいと。本心だと。

俺は訊いた。本心かと。今日だけで何度かそいつには訊いた。本心かと。

 その度にこいつは答えなかった。聞いているのに、答えなかった。本心から願うなら、俺が願いを叶えてやると言っても、そいつは答えなかった。そんな中で、やっとそいつは言ったんだ。本心だって。俺を殺したいことが本心だって。だから俺は!」

「ようやく聞き出したこの子の本心を叶えたいと思ったんだね」

「…………」

 沈黙が、答えだった。

 だからこそハスズは訊ねていた。

「どうして?」

 訊ねずにはいられなかった。

「どうしてそこまで、私に拘ったんですか?」

 拘られる理由が見当たらなかった。

「だって私には、あなたに願いを叶えてもらう理由がないのに……」

「知るか」と、苛立たし気に吐き捨てられた。

「俺だって、願いもしないお前の願いを叶える気なんて毛頭ない!」

 心からの苛立ちをぶつけられ、ハスズは涙を滲ませずにはいられなかった。

 願いたくとも願えない境遇に身を置くハスズにとって、鬼雨が向けて来る苛立ちは理不尽以外の何ものでもない。

 何故自分が初対面の人間にここまで苛立ちをぶつけられなければならないのか。

 本来であれば怒りを覚えてもいいような場面で、しかしハスズは胸が締め付けられるほどに悲しかった。悲しくて悲しくて苦しくて――

「それでも! お前が何かを心から願っていることだけは分かるんだ!」

「!!」

 息が止まった瞬間だった。

 一瞬。何を言われたのか分からなかった。

「俺だって分かってた。助けて欲しいと訴えていることぐらいは分かってた」

「そうか」と、宵が優しい口調で促す。

「でもそいつは、『何から』『どう』助けて欲しいのか言おうとしなかった! いくら聞いてもハッキリと答えなかった。俺は言ってもらわなければ実行出来ない! もしかしたらで動くことは出来ない! 推測で願いを叶えることは出来ない! だから俺は、悪くない! 悪いのは本心を騙ったそいつだ!」

「そうだね」

 指を突き付けられ断言され、宵があっさりと肯定し、ハスズの胸を見えない刃物が貫いた。

「確かに、ある意味ではこの子にも非はあるね」

 重ねて告げられる同意に、ハスズは奈落に落ちるような絶望を感じた。

(やっぱり、私が悪いんだ……)

「だけど――」

 否定の言葉と共に、宵の腕に力が籠る。

 奈落に落として堪るかとでも言うかのように、しっかりと抱き締めて告げた。

「本心を探りあぐねいて、偽りの言葉に安易に飛び付いたお前も悪いよ」

「…………っ」

「いいかい? これまでも何度か言って来ただろ? ちゃんと話をしろって」

 鬼雨の顔に不満の色が濃く濃く現れる。しっかりと奥歯を噛み締めて、口を曲げて、聞きたくないと言わんばかりに眼を逸らす。

「こら。ちゃんと聞きなさい。そんな顔したって駄目だよ。いいかい? お前に足りないのは人との交流だよ」

「要らない!」

 即答だった。

 ハスズの上で宵が苦笑を漏らす。

「要らない……って、お前ねぇ。人は独りじゃ生きられないんだよ?」

「あんたがいるからいい」

「そうも行かない時が来るんだ」

「来ない」

「来る」

「来ない」

「来る」

「来ない!」

「……」

 鬼雨は、強情だった。

 まるで聞き分けのない子供の様だとハスズは思い、正直、驚いた。

「全く……喜ばしいことなのか情けないことなのか。お前がいくら否定したところでそのときは来るんだ。そんなとき、お前は独りでどうやって生きて行くんだ? これまでもあっただろ? 本心とは言いつつも、本当の願いは別にあったってこと。それをどうやって知って行ったか覚えているかい?」

「……」

「……子供じゃないんだから、そうやって拗ねるんじゃないよ。ワタシが相手の話をちゃんと聞いて、本心を聞き出したんだろ? 世の中にはね、そうしないことには本音を言わない人間も多いんだ。だからちゃんと話を聞けと言ってるだろ? そうしないと、傷つくのはお前の方なんだから。今回だって、ちゃんとこの子と話をしていればもっと早くにこの子の願いを聞き出せたかもしれないのに。お前はちゃんと話をしたのかい?」

「……」

「話もしないで他人の心なんて理解出来るわけがないんだよ? まぁ、世の中には話したところで理解出来ない人間って言うものもいるけどね。少なくとも、何かしらの言葉を交わさないと、相手には何も伝わらない。知りたいなら聞かなきゃいけないし、知って欲しいなら伝えなきゃいけない」

「……俺はやった」

 ぼそりと鬼雨。

「やったけど、そいつが答えなかった」

「そうだね。だけどね、それだって一概に悪いことだとも言い切れないんだよ。見ず知らずの人間にいきなり自分を曝け出して話すことなんか普通はしない。お前だって、自分の身の上を赤の他人にいきなり話したりしないだろ?」

「聞かれたって言わない」

「だろ? ましてやお前のように威圧的な人間に突然『お前の願いは何だ』なんて聞かれたって、警戒こそしても心を許したりしないさ」

 鬼雨の顔が不満げに歪む。

「だからこそ、安心してもらうために言葉を交わすことが必要なんだよ。そうすれば……相手を理解しようとさえすれば、お前はもっと早くこの子の『本心』を聞き出すことが出来たと思うよ。お前に必要なのは相手の心に寄り添うことだって、前々から言ってただろうに……。そうすればワタシのようにほんのわずかな時でもこの子の置かれた状況を見抜けたはずだよ。

 ね? そうすれば君だってこんな余計な怖い思いなんてしなくて済んだのにね。君はさ、迷っていたんだよね? 葛藤していたんだよね?」

 突如話を振られたが、迷わずハスズは頷いていた。

「いつもどっちかを選ばないといけない状況に置かれていた。やりたくないけどやらなきゃいけない。逃げたいけど逃げられない。どっちかを選ぶとどっちかを捨て去らなきゃいけない。それが出来ないから苦しくて苦しくて、その苦しみが相手に伝わらないから悲しくて悲しくて。いっそ捨てられてしまえば楽なのに、捨てることも出来なくて。だから鬼雨が何を問い掛けても、本心かと問われても、咄嗟に答えることが出来なかったんだよね?」

 うんうんと何度も頷く。子供をあやすように優しく肩を叩いてくれる宵の腕に縋りついて、声も上げずに何度も頷く。

「でもね、それも結局は『選ばない』と言うことを選んだに過ぎないんだよ」

「!」

 ハッとした。

「選択肢はいつも最低二つ用意されている。助けを求めるか求めないか。縋るか縋らないか。頼るか頼らないか……。様々な二択はあるけど、勿論その中には『選ぶ』か『選ばない』も含まれる。君は選ばなかった。心の底に眠る願いを封じ込めて、何ものも選ばなかった。

 結果がこれだ。鬼雨は君の心の底に眠る願いを感じ取っていた。でも、口から出るのは偽りの本心ばかり。勿論、さっきも言ったけど、君が口にした本心を頭から否定する気はない。君は、鬼雨を殺す役目を負わされていたんだろ?」

 ぎくりと体が強張った。

「でも、一方で殺したくはなかった。だからちぐはぐな感情が噴き出して、鬼雨は苛立った。何をしたいのか分からなかったから。何をして欲しいのか分からなかったから。結果鬼雨は安易な『本心』に飛び付いた。怖かっただろ?」

「……は、い」

 震える声でやっと答える。

「怖かったよね。そりゃ怖かったよね。なんたって人の手借りて自殺しようとしたんだもんね」

 突如笑い飛ばした宵に、鬼雨が『違う!』と反論する。

「でもね、これだけは覚えておいて欲しいんだ。人は常に選びながら生きて行く。選んだ先が正しいのか間違っていたかは、本当の所は後にならないと分からないことも多い。だけどね、『選ばない』を選んだとしても、必ず結果は付き纏う。誰でもない、自分が選んだ結果だよ。理由は様々あるだろうけど、他人によって選ばされてしまうこともあるだろうけど、最終的に選ぶか選ばないかは自分なんだ。だから、その結果を受け止めるのも自分しかいない」

 言われずとも知っていた。誰も助けてくれる者はいなかった。話を聞いてくれる人もいなかった。見知らぬわけではないけれど、親しかったからこそ、ハスズに対する憎しみは大きかった。誰もが背を向け、拒絶した。

「だから君は、頼れなかったんだろ?」

 問われてハスズは頷いた。

「他人を信じられなくなった。その一方で、無関係な人をこれ以上巻き込みたくないと思った。違うかい?」

 ハスズは頷いた。そんなハスズを慰めるようにポンポンと肩を叩きながら、宵は言った。自嘲気味な笑みを交えて。

「まあね、ワタシがこんなことを言うのもなんだけどね。見ず知らずの人間にいきなり『お前の望みは何だ?』なんて聞かれても、そうそう本心口には出来ないだろうからね。普通は疑うし警戒もする。それこそ、今この瞬間にも命を奪われそうになってるとか、崖下に落ちちゃいそうだとか、危機的状況にいれば何をおいても命を助けてと言えるだろうけどね。込み入った事情があれば、簡単には言えない。相手が誰と通じているかも分からない状態じゃ、迂闊に助けも求められない」

 その、何もかもを知っているかのような口振りに、ハスズは溜まらず宵を見上げた。

 宵の微笑がハスズを見下ろしていた。

「でもね、ある意味これは好機だよ。今このときを逃せば、恐らく君はこの状態から逃げることは出来ないだろう。別に脅しているわけじゃないけどね、きっと、君の性格からして逃げられないと思う。だからね、教えて欲しいんだ。君の本心を。君が心から願ってくれれば、鬼雨は必ず願いを叶える。本心だと言った偽りの言葉でも真に受けて実行しようとした男だよ。信じて教えておくれ。さぁ、君の本心は何だい?」

 優しい声で促され、ハスズは見た。真っ直ぐに自分を睨み付けている鬼雨の眼を。

 今からでも本当に聞いてくれるのだろうかと一抹の不安を抱きながら、言ってもいいのかと疑問を抱く。願ってもいいのかと。口にしてもいいのかと。頼ってもいいのかと。信じてもいいのかと。

 自分を抱く宵の腕を握り締める。消えないで欲しいと願うかのように握り締め――

「これが最後だ」と前振りをした鬼雨に対し、ハスズは言った。

「どうか、この『村』を山賊たちごと滅ぼして下さい。そして、『私たち』をこの『村』から解放して下さい」

 涙で震える声の紛れもないハスズの本心に対し、鬼雨はスッと怒りを治めて表情を消すと答えた。


「その願い、《渡り鳥》の鬼雨が聞き届けた」

 

宵は笑う。不器用で頑固な子供たちの意志が通じ合ったのを確かめて。真っ赤な舌でペロリと唇を舐め、眼を細めて。

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