第二章『ハスズの罪』
(1)
「――それは、本心か?」
まるで聞き間違いを確かめるかのような口振りで鬼雨がハズを見下ろした。
「――――――――はい」
たっぷりと時間を取って、頭を下げたままハスズは肯定した。
沈黙が下りていた。
怒るわけでもなく、笑い飛ばして来るわけでもなく、視線だけが突き刺さって来る。
頭の片隅に、殺されるだろうか? と言う可能性が浮かぶ。
それは望まないことではあるが、それでもいいと安堵する自分にも気が付いていた。
鬼雨の手に掛かって命を落とすなら言い訳も立つ――
そんな甘い考えが過ぎったとき、ぼとりと重い物が落ちる音がした。
何かと思い、下げた頭をわずかに上げるとハスズは見た。漆黒の短刀が落ちているのを。そして、
「だったら殺せ」
思いも寄らぬ鬼雨の声。
弾かれたようにハスズは鬼雨を見た。
鬼雨はどこか不機嫌そうにも見える冷たい表情で見下ろして、意図も簡単に言ってのけた。
「お前が本気で望んでいるのなら、それを手に取り俺を殺せ」
「!!」
ハスズはゾッとした。
淡々と紡がれる言葉に、ハスズは自分が何を口走ったのか今更のように恐怖を覚えた。
(私が……鬼雨さんを殺す? 自分の手で?)
体が震えた。目眩が襲った。
いつの間にかハスズの視界は、鬼雨が放り投げた漆黒の短刀だけが占めていた。
(この短刀で、鬼雨さんを――)
ドッドッドッドとハスズの耳は己の鼓動に占拠され、呼吸が速くなっていることにも気付かない。
(私が、殺す……自分の手で)
現実味がまるでなかった。逆は簡単に想像出来ると言うのに――
「どうした。やらないのか?」
冷ややかな声が降って来る。静かな怒りが降って来る。
「時間稼ぎなら無駄なこと。やらないのなら俺は行く」
踵を返して生まれたそよ風が、ガタガタと震えるハスズを撫でて行く。
身を翻した鬼雨が部屋を出る。去って行く。宿を後に村を出る。
『――それだけは、許さないよ』
脳裏に蘇った科之の声は、震えるハスズの体を強制的に強張らせた。
口調は柔らかく笑みさえ含んだものではあるが、聞く者の背筋を凍らせるには十分だった。
『毒が駄目なら仕方ない。色仕掛けで油断したところで刺してやれ。まぁ、あの様子を見るとお前を抱くとは思わないが、お前に刺されるとは思っていないだろうからね。抜かりなくやるんだよ。そろそろお前も私たちの『仲間』である自覚を持ってもらわないといけないからね。なに。一刺ししたら逃げておいで。追い掛けて来たあいつに私が止めを刺してあげるよ。仮に出来なかったとしても、私たちが生かして『村』を出すつもりはないから、その辺は安心してもいいんだけどね』
着飾ったハスズの肩に手を置いて、硬直し、蒼褪めているハスズの耳元で釘を打つ。
『ただね、それに安心して手を抜かれても困るんだ。だから、お前が頑張れるように一つ約束してあげよう。お前が頑張れたら、この『村』から誰か一人を解放してあげよう。でも、もしもお前がしくじったら、そのときはお前の一番の仲良しのあの娘を、『商品』にしてしまうよ』
ゾッとしたことを思い出した。
(駄目だ……やらなきゃ……やらなきゃ……キズナが……)
自分のせいで連れて来られた幼馴染を『商品』には出来ない。
その一心で、ハスズは漆黒の短刀に手を伸ばした。
頭の中には科之の言葉と幼馴染の笑顔と憎しみの眼が、目まぐるしく浮かんでは消えて行く。
(私が、やらなきゃ……鬼雨さんを――)
短刀を掴んだ手が震えていた。
頭の中では分かっていた。自分がしなければならないことを。
だから口にした。殺されて欲しいと。だが、
(怖い……)
怖かった。人を傷つけると言うことが。下手をすると殺してしまうかもしれないと言うことが。それを自分がすると言うことが。
やりたくはなかった。だが、やらなければ幼馴染が『商品』にされる。幼馴染以外の娘たちが『商品』にされて行くのを見ているだけでも辛かったと言うのに……。
『一番の仲良しのあの娘を、『商品』にしてしまうよ』
駄目押しのように科之の声を思い出す。
ハスズは震えながら短刀を左右に引いた。
科之はやると言ったらやる男だった。笑いながら他人を不幸に突き落とすことの出来る男だった。
漆黒の鞘と柄の間に、研ぎ澄まされた銀色の刃が見えた。
カチャカチャと鞘に触れた刀身が音を立てる。速く抜き放てとハスズを急かす。
「うぇっ……げほ、げほ」
緊張と恐れのあまりに吐き気が込み上げる。涙が滲む。
(嫌だ! やりたくない! でも、やらなきゃ。嫌だ! 助けて!)
心の中で必死に救いを求めながら短刀を鞘から引き抜く。
それだけで、ハスズは激しく精神力を消耗した。肩で息を吐き、ふーふーと唸りを上げる。
鼓動がうるさい。科之と鬼雨と幼馴染の言葉が浮かんでは消えて責め立てる。早く早くと責め立てる。目が回る。吐き気がする。相反する想いと、逃げられない現実。
いっそ、この刃が自分に突き刺さってしまえばいいのに――と言う誘惑にかられる。何度も夢見た楽になる方法。
しかし、その代償は大き過ぎる。自分のせいで犠牲になった女たちの恨みの念が、きっとハスズを捕らえて離さない。死してもなおハスズはこの『村』に囚われるのだと言う声なき声をきいたなら、恐ろしくて出来なかった。
(でも、やらなきゃ。やらなきゃ。嫌だけど、やらなきゃ)
何度も何度も言い聞かせる。吐き出してしまいたい衝動に駆られながらも言い聞かせる。
そのときだった。
スッと目の前を塞ぐものがあった。
そっと短刀を握る手に添えられるものがあった。
鬼雨だった。鬼雨がハスズの目の前に膝を付き、ハスズの手に手を重ね、冷ややかな瞳でハスズを見ていた。
ハスズは涙に濡れた眼で鬼雨を見た。
「あ、あ……」
何かを訴えようとして言葉にならない。
その間に、ハスズは短刀ごと手を掴まれて、鬼雨によって持ち上げられ――
「刺すのはここだ」
「!!」
自ら胸に短刀の切っ先を当てて、鬼雨が告げた。
咄嗟に手を引こうとするものの、しっかりと握られた手は、鬼雨の胸に押し付けられた短刀は、ピクリとも動かなかった。
「俺を殺したいとお前は望んだ。だったら確実にやれ。押し込め、今すぐに」
逆らうことなど出来ない声で命じられる。促されるように短刀の切っ先が鬼雨の着物を圧迫する。
しかしそれはハスズの意志でしていることではなかった。ハスズは全力で短刀を離そうとしていた。だが、泣きながら引き離そうとしているハスズを睨み付けて、鬼雨自身が短刀を胸に押し付けて行く。
『お前が殺したいと望んだのだろ?』
睨み付けて来る眼が訴えていた。責めていた。
プツ……と刀身を伝い着物を貫いた感触がハスズの手に伝わった。
ゾッとした。心の臓が鷲掴みにされたような痛みと苦しさがハスズの呼吸を詰まらせる。
腕が抗えない力で引き寄せられる。必死の抵抗すら無駄だと無言で言われ、肉に触れるハッキリとした感触に吐き気が込み上げる。
ハスズは首を振った。ぎこちなく振った。拒絶も露わに首を振った。
それを見ながら、鬼雨は更に短刀を引き寄せる。これがお前の望んだことだと思い知らさんばかりに、ゆっくりと自分の胸に短刀を潜り込ませようとする。
それは自殺行為だった。そのくせ鬼雨の眼には一片の恐れも垣間見ることが出来なかった。
死を恐れていない者の眼は恐ろしく、やっとの思いで声を出す。
「だ……め……」
自分が選んだ選択肢を取り消さんばかりに拒絶する。
「駄目……いや…………わ、たしは……」
首を振る。懇願する。ますます怒りを込めて睨み付けて来る鬼雨の眼を見ながら、痛いほどに握り締められている手の力強さを感じながら、もう止めて欲しいと懇願する。
それでも鬼雨は止まらない。睨み付けて来る鬼雨の眼が一瞬不快気に細まり、切っ先が肉を刺し貫いたのだと理解する。
ザッと音を立てて血の気が引く。体温が一気に下がる。直後、ハスズの中で限界が訪れた。
「嫌あああああっ!」
後は駄々を捏ねるかのように暴れる。鬼雨から短刀を引き抜こうと、鬼雨の手の上から左手を乗せて、畳に足を踏ん張って引き抜こうとする。
しかし、ハスズが抵抗する分、鬼雨の手にも力が籠った。
(嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!)
鬼雨に引っ張られる。短刀が突き刺さる。自分が望んだせいで鬼雨が死ぬ。それも、自らの手で死のうとしている。自分が望んだせいで。願ったせいで。拒絶することも出来たはずなのに、心から望んだせいで、望んだと口走ったせいで、鬼雨が死ぬ。ハスズの願いを叶える為に鬼雨が死ぬ。
やはり駄目だと思う。あってはならないことだと思う。自分の都合に他人を巻き込んではいけないと思う。
でも止まらない。止められない。ハスズの力では変えられない。最悪の結末を変えられない。
だから、「嫌あ!」と子供のように叫ぶことしか出来なくて――
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