(4)

 結果。ハスズは毒の盛られていない膳を持って、鬼雨の部屋へとやって来た。

「…………寒くはございませんか?」

 火鉢に炭を足したものを鬼雨の傍に押しやる。

 昼日中は日の暖かさもあり過ごし易いかもしれないが、夜ともなれば火鉢がなければ肌寒い。

 しかし鬼雨は障子を開け放ち、ずっと夜風を浴びている。

「そのような場所で夜風を浴び続けるのはお体に障ります。どうぞこちらでお食事を取って下さい。お口に合わないものがございましたら、すぐに作り直して参ります」

「…………」

「ご心配なさらずとも毒など入ってはおりません。どうぞご覧ください」

 言ってハスズは里芋の煮つけを一つ口に運んだ。

「勝手に箸を付けてしまって申し訳ございません。ですが、こうでもしなければ証明のしようもございませんので」

「…………」

「……もしかして、眠っていらっしゃいますか?」

 いくらなんでもそれはないだろうと思いつつ、頭の片隅にあった可能性を口にする。

 果たして結果は――無反応。チラリと見て来ることもなく、『起きている』と答えて来ることもなく、身じろぎ一つもしない。まさか本当に眠っているのかとハスズは訝しみ、そっと鬼雨へ近づいて、

「っ!」

 思わず息を呑み込んだ。

 鬼雨は、起きていた。眼を開けたまま眠っているわけではないと代弁するかのように瞬きをしながら、ただジッと外を見ていた。

 つい眠っているとばかり思っていたハスズにしてみれば不意打ちで、荒馬の如く暴れ回る心の臓を反射的に着物の上から押さえ付ける。その下には棒状の硬い感触。それが更にハスズを動揺させた。

「あの……」

 と咄嗟に声を上げるものの、動揺し切ったハスズの頭では後を続けることなど出来るわけがなく、ハスズはただただ立ち尽くした。

 秋の夜風が入り込み、じわじわと寒さが染み込んで来る。

 振り返らない鬼雨の背が、あからさまな拒絶が、夜風によって運ばれて来た夜の闇が、孤独の世界へとハスズを誘う。吹き抜ける風が、お前は独りだと囁いて行く。

 目の前に鬼雨がいると言うのに、手を伸ばせばすぐにでも触れると言うのに、その距離が突如遠退いたような錯覚に襲われた。

(嫌だ!)

 闇に囚われる恐怖に、ハスズは咄嗟に鬼雨の袖を掴んでいた。いや、縋りついていた。

 ハスズのことを何も知らない初対面の人間だと言うことは充分分かっている。

 それでも、縋らずにはいられなかった。ハスズの生きる世界はあまりにも孤独で頼る者などいなかった。知っている者は数多い。しかし『村』の中でハスズの味方である人間は一人もいない。ハスズに向けられる眼は憎しみの籠ったもの。怒りの籠ったもの。ぶつけられる言葉は責めるものと恨み言。ハスズの言葉は届かない。露骨な無視か罵倒が返り、冷たい視線と表情が。あらゆるものが全力でハスズを拒絶する。

 いっそ知らない者たちばかりだったら割り切れたかもしれない。だが、知らないわけではないのだ。幼少期、共に笑い合った仲間たち。苦楽を共にした幼馴染たち。そんな彼女達から一斉に背を向けられた。

 無理もないとは頭では分かっていても心はズタズタに引き裂かれていた。これで鬼雨にまで見捨てられてしまったらと思ってしまった瞬間、しがみ付かずにはいられなかった。直後、

「触るな!」

「きゃっ」

 それまで一切の反応を示さなかった鬼雨が、弾かれたように叫んでハスズを突き飛ばした。

 立ち上がり、明らかな怒りを込めて睨み付けられたハスズは、突き飛ばされた衝撃や睨み付けられた恐怖心よりも何よりも、驚き過ぎて呆けることしか出来なかった。

 尻餅を付き、眼を瞠り、何が起きたのか飲み込めずに、ただただ感情を露わにした鬼雨を見上げた。

「俺に! 二度と! 触るな!」

 鬼雨はもう一度感情を爆発させた。

 その姿が、ふいに歪む。頬を冷たいものが流れ落ちる。

 ハスズは自分の頬に触れた。濡れていた。泣いているのだと分かると、言葉が自然と口を吐いていた。

「…………どうして?」

 鬼雨は唇を真一文字に引き結ぶ。

「一度は手を差し伸べてくれたのに……」

 『生きたいか』と問われ、手を差し伸べられたときにハスズが手を差し出していれば……、

(……ああ、そうか。あのとき差し出してくれたのは手ではなくて鉤爪だったわ)

 仮に手を伸ばしたとしても、直接鬼雨がハスズの手を取ったわけではないと言うことに思い至る。

「……初めから……助けてくれるつもりなんてなかったんですね」

 不思議とハスズは自分が笑っていることに気が付いた。

 何一つ笑えることなどないと言うのに。

「初めから、分かっていたんですね……」

 胸にぽっかりと穴が開いたかのような喪失感を抱きながら、ハスズは笑っていた。

「だから、途中で手を引いた……」

 やっぱり自分は不要な存在。拒絶され、嫌われるだけの存在。

(――なのに、どうしてこの人は自分を助けてくれると思ったのだろう)

 我ながら滑稽だった。

「助ける価値なんかないから――」

 あなたは私を受け止めてなどくれなかった――と続けようとして遮られる。

「お前が望まなかったからだ」

 まさか答えが返って来るとは。

 意外過ぎて思わず言葉を飲み込むと、鬼雨は苛立たし気に言葉を続けた。

「俺は望まない願いは叶えない。お前が何のことを言っているか知らないが、俺は何度もお前に訊いた。その度にお前は答えなかった。何一つ答えなかった。それを、俺が悪いみたいに言うな!」

「ごめん……なさい」

「謝るな! 謝ったところで何も変わらない! お前は何も望まない! 望まない奴は変えられない! だからお前は変われない! 俺は、お前のような人間が嫌いだ!」

「!!」

 見えぬ刃が容赦なくハスズの胸を貫いた。

「問い掛けても答えない。答えないくせに言い訳だけは人一倍。いざとなれば他人のせいにして責任を押し付けて、自分は無力な被害者だと自分自身を慰める。俺は、そんな人間の願いを叶える気なんか毛頭ない!」

 一体何本の刃が突き立ったものか。ハスズの両目からボロボロと涙が零れた。何一つ言い返すことなど出来なかった。

 それでも鬼雨は無言を貫いた反動をぶちまけ終わると、スッと表情を消し去って、再びハスズに背中を向けて桟に肘をついて座り直した。


 ハスズには掛ける言葉などなかった。取り付く島などなかった。弁解の余地すらない絶対的な拒絶。

 好かれてはいないと思っていた。薄々分かっていた。分かっていたことをハッキリと口にされただけで、まさかこれほどの衝撃を受けるとは思いもしなかった。

 これまでも数々の辛い言葉を受け取って来た。同じようなことも言われたこともある。もう傷つく心などないと思っていたが、何かが違った。

 何が違うのだろうかと、ハスズは現実逃避のように考えた。結果、導き出された答えは、

(そうか……もしかしたら私は、本当に救われるための最後の手段をみすみす手放してしまったのかもしれないのね。だから私はこんなにも絶望しているんだわ)

 それ以外の可能性が思い浮かばなかった。

 同時に、人は抱え切れない絶望を覚えると、これほどまでに心が凪ぐのかと初めて知った。

 自分はもう、救われることはないのだと改めて思い知る。

 自分はもう、ずっとこの『村』から逃れられないのだと思い知る。

(これが私の罪に与えられた罰……逃れようとすること自体が間違いだった。

 だったら私は、その罪を償って生きるだけ)

 涙を零しながら、心静かにハスズは立ち上がっていた。

 手は着物の胸元に。胸に隠した匕首を取り出して、完全に無警戒な鬼雨の背中を見ながら持ち上げて――

「おやおやァ? 随分と可愛らしくなって、見違えてしまったよ」

「ひっ」

 艶のある低い声と共に、ハスズはいきなり背後から抱きすくめられていた。

 その際、匕首を持ち上げた右手ごと、宵の手がハスズの胸元に差し込まれる。匕首は奇跡的に鞘へと収まり、ハスズ自身はすっぽりと宵の腕の中。

 ハスズの心拍数は一気に跳ね上がった。冷え切っていたはずの体が瞬く間に熱を持つ。

「あ、あああ、あの!」

「ん~何かな?」

 面白がっている声がハスズの耳をくすぐる。

 ハスズは鬼雨を殺そうとしたところを見られてしまったことに対して焦る一方、違う意味でも焦っていた。

「あの、手を!」

「手?」

「手を、抜いて下さい!」

「どうしてだい?」

「どうして……って、ふわぁぁっ」

「だってここは、そう言うところ……だよね」

「そうですけど! でも私は!」

「大丈夫。君が味わった嫌な気持ちを全てワタシが塗り替えてあげるよ。だから、安心してその身を任せなさい。ね?」

「ひう」

 耳をペロリと舐め上げられて、ぞくりと背筋を痺れが走る。

「大丈夫。何も緊張することはないよ。ワタシは女の子には優しいからね。何も怖いことはないよ」

 と囁かれながら、ごく自然に横抱きにされ、浮世離れした整った顔と見たこともない美しい翡翠色の瞳を見上げる。刹那、目も心も奪われて見惚れていると、当たり前のように翡翠色の瞳が近づいて来て、鼻と鼻が触れる瞬間、ハスズは奇跡的に我を取り戻した。

「嫌ああああっ!」

「いい加減にしろ・宵!!」

「いたっ」

 羞恥に塗れた悲鳴を上げたとき、怒りの声と共に宵の頭が横に叩かれ、全く痛みを感じていない形式だけの悲鳴が上がった。

「おいおい、鬼雨。師匠の頭を叩く弟子がどこにいる?」

 たいして痛くもない割に、態とらしく頭を擦って膨れて見せる宵に、

「毎度毎度同じことを繰り返すあんたが悪いんだろ!」

 顔を真っ赤に染めた鬼雨が、握り拳を震わせて怒鳴り付けた。

 ハスズは好機とばかりに宵の腕の中から逃げ出して、胸元をきつく握りしめて呼吸を落ち着かせ、またも豪華絢爛な女物の晴れ着を纏う宵を見た。

「毎度毎度とは失礼な。これは礼儀の一つだよ」

「そんな礼儀なんてさっさとどこぞへ捨てて来い!」

「そう言うお前はワタシの爪の垢でも煎じて飲んだらどうだい? せっかくハスズちゃんがお前のためにおめかししてくれたって言うのに、見向きもしなければ褒めもしない。挙句の果てに突き飛ばして罵倒するなんて、それでもワタシの弟子か?」

「そっち方面の師匠として弟子入りした覚えは欠片もない! と言うか、一体いつから見てたんだ!」

「そんなことはどうでもいいだろうに……」

「どこがだ! 俺は居たくてここに居たわけじゃないんだ! 師匠が来るまでの約束だったから――」

「ああ、嘆かわしい。せっかく男としてこの世に生を受けておきながら、着飾った娘さんに恥をかかせるだなんて。ワタシは悲しいよ」

「俺にウソ泣きなんて通用しない!」

「ちぇ。昔は慌てて機嫌取りして来たのに」

 間髪入れずに否定され、宵が子供のように口を尖らせ不満を零せば、

「大体あんたは今、全力で嫌がられてたじゃないか」

 嫌悪も露わに話を戻す。

「そんなことはないよ。ちょっといきなりで驚いただけさ。な? ハスズちゃん」

「んなわけあるか! 心からの拒絶だったから俺が動いたんだ! 驚いただけや演技だけだったら邪魔なんかするわけない!」

「え?」

 思わずハスズは小さく声を上げていた。

 鬼雨は今何と言ったのか?

(私が心から嫌がったから助けてくれた……? それはつまり、今からでも心から私が望めば、まだ助けてもらえる可能性があると言うこと?)

 その可能性に思い至ったとき、ハスズは自分が打ち震えていることに気が付いた。

 もしかしたら、心から望めば本当にこの『村』を逃げ出せる?

 と、希望を抱き――すぐにハスズは思い出す。

 自分を遠巻きに責め続ける仲間たちの眼を。憎しみを。恨み言を思い出す。

 自分だけが逃げる気かと、声なき声がハスズを取り囲み責め続ける。

 途端にハスズの目の前は暗くなる。闇から生じた仲間たちが、逃して堪るかとハスズの足を腕を胴を肩を鷲掴む。雁字搦めになったハスズは分不相応な願いを、希望を遠くに見やる。

 伸ばしても届かない小さな光が消えるのを見届けて、ハスズは俯く。

 ハスズにとってこの『村』は針の筵。居続けたところで報われることも許されることもないと言うことは想像に難くない。

 逃げ出したいとは思う。何もかもを切り捨てて、誰も自分のことを知らない場所で、全てを忘れて生きて行きたいと心から願う。

 どうせ周りから疎まれ嫌われ憎まれているのなら、今更『村』を逃げ出したことで向けられる感情が変わることなどないと言うのなら、助けて欲しいと願って連れ出されたとしてもいいのではないかと心が揺れる。が、きっと逃げ切れないことを知っていた。

 罪悪感が亡霊となり、呪いとなり、ハスズが笑って暮らせる日々を妨げる。容易に想像出来る以上、ハスズは選ぶことなど出来なかった。それでも割り切れない自分がいた。

 仕方ないのだと、『村』で生きることを選んだのだと開き直ることも出来ず、さりとて全てを捨て去ることも出来ず、どっちにもつかず、どっちも選べず。ただただズルズルと日々を過ごす。人質を取られているから仕方がないと言い聞かせ、望まざる仕事を……人攫いの仕事に手を貸して、罪を重ねて手を汚す。言い訳を並べて諦める。

 鬼雨はそんなハスズのことを嫌いだと言った。ハスズもそんな自分は嫌いだった。

 それでも、ハスズには選べなかった。望み切ることなど出来なかった。割り切ることは出来なかった。それを弱いと言われてしまえばそうなのだろう。それでもハスズは、自分の我を貫き通し、『村』で身売りを強要されかねない被害者(なかま)たちを見殺しには出来なかった。

 ハスズにとって、他人を犠牲にして自分の幸せだけを追い求める行為は強さだとは思えなかった。選ばないのではなくて選べないのだ。

 選ぶと言うことはもう一方を捨てると言うことだから。捨ててしまえば手に戻らないと言うことだから。どちらを選ぶのが最善なのか分からない。だからハスズは選べない。だから鬼雨は救ってくれない。事実――

「っち。もうこの話はどうでもいい。あんたが来たならもうこんなところに用はない。俺は先に帰る。この『村』は気分が悪い」

 不満をぶちまけ『出て行く』と明言される。

 ハスズは唇を噛んだ。胸元を掴んだ。鬼雨を生きてここから出すわけには行かない。覚悟を決める。絶対に勝てないことを知っていながら、もしかしたら殺されるかもしれないと分かっていながら、ハスズは再び胸元へと手を差し入れて、

「え?」

 慌てて胸元をはだけた。なかった。袖を振るも、裾を捲るも、どこにも匕首がなかった。

 もしやと思い顔を上げれば、視線の先。鬼雨の陰で匕首を掲げて片目を瞑る宵の姿。

 ハスズはサッと血の気が引く音を聞いた。

 その横をさっさと鬼雨が通り過ぎ――

「でもワタシはまだここにいるよ?」

「!」

 ハスズの背後で『ビシ』と言う音が上がったような気がした。

 ドスドスドスと荒い足音がピタリと止まる。

「……お・れ・は、い・や・だ」

「じゃあお前は好きなところに行けばいいよ。ワタシはまたいつものように追い掛けるから。

 でもその前に、ここで腹ごしらえをして、充分に楽しんだ後にね」

 と、意味ありげな声音と笑みを向けられて、白くなった頬を朱に染めるハスズは、瞬時に危険を悟って救いを求めるように鬼雨を振り返る。が、

「好きにすればいい!」

 苛立ち全開で言い放ち、鬼雨は無情にも足を踏み出した。

 ほぼ、無意識だった。

「駄目! 行かないで下さい!」

 ハスズは縋りつきたい衝動を抑え込んで叫んでいた。

「お願いします! どうか行かないで下さい!」

 畳に手を突き、頭を下げる。

「お願いですからここにいて下さい!」

 鬼雨が足を止め振り返る。

「ここで、私に殺されて下さい!」

 直後、室内は水を打ったかのように静まり返った――


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