黄色い顔

中村ハル

第1話

 友達がSNSで荒れていた。

 どうやら、彼氏と揉めているらしい。

 ぽつりぽつりと投げ出されるツイートから、なんだか頼りのない男だと思うと同時に、彼女の会社の上司を思い起こした。どちらの口癖も「僕は気にしないから」だな、と彼女の地雷が確定した気がした。


「まったく、ほんと、厭になっちゃう」

 愚痴る彼女に申し訳ないと思いつつも、人の揉め事は面白い。

 付き合って日の浅い彼と同棲するのだと、ほんの少し前に話していた彼女の嬉しそうな顔は、うんざりとした疲れに変わっていた。

「びっくりするほど、会話にならないの」

 昼下がりのファミレスで、メロンソーダの中の氷をストローで突きながら、彼女は途方に暮れた顔で笑った。促すと、普段物静かな彼女には珍しく、堪っていた鬱憤を晴らすようにSNSでの投稿の内容を更に詳しく語ってくれた。

 聞けば、物件を決める際に、彼がどうにも単独で突っ走っているのだという。

「それって、独断というか」

 私の返事を待つように、彼女は小首を傾げる。丸いフォルムのボブの毛先が、さらりと頬にかかった。

「話がまったく噛み合ってなくない?」

「やっぱりそう思う」

 ストローを噛みつぶして、彼女が力なく笑う。

「ふたりで暮らす家を探してるはずなのに、一人暮らしの家を探すみたいに話が進んでいっちゃうの」

 彼女の希望も疑問も要望も、困惑までもが置き去りのまま、家が決まってしまおうとしているらしい。慌ててストップをかけているが、なぜ彼女が二の足を踏んでいるのか、彼には全く伝わっていないのだという。

 ちゃんと話し合ったのかと聞いてみれば、これ、と彼女はスマホをこちらに向けた。広げられているのはLINEの画面で、見ていいのかと彼女に視線を向けると、いいから見ろと目で促された。

 連なっている数週間分の会話を、躊躇いながらも指でスクロールしていく。彼女の提案や希望が分かり易く箇条書きで、どちらかと言えば事務的なほど簡潔に、物件のページのリンクやスクリーンショットを交えて書き込まれている。

 それに応える先方からの返事は、驚くほど的外れだ。

「え、これ、読んでる?」

「最初は会話が成立してたんだけど」

 彼女が指で履歴を遡っていく。物件探しの合間合間に、デートの約束や、他愛のない会話がちらほら出てくるが、そこではごく当たり前の言葉のやりとりが違和感なく並んでいた。

「なのに、家を探す話になると」

 途端に会話が成立しなくなっている。彼女が「ここはどう」と提示したリンクには何の反応もなく、その日食べた晩ごはんがどうだとか、日常会話がぽつんと返されているだけで、それ以降も、物件の話に関してだけが返信のないまま流されていた。

「彼は怒ってるわけ?」

「そんなことないよ。なんか、特定の町に固執してるみたいで」

 彼女が他の町にある物件を提示した時だけ、反応がなくなるらしい。

「どうしてそこがいいのかって、聞いた?」

「聞いたんだけど、曖昧なことしか返ってこなくて」

 いい町だ、楽しそうだ、と漠然とした感想を口にするばかりで、具体的なプレゼンはなされない。とにかくK町に物件を見に行こう、とそればかりなのだという。

「この間、根負けして見に行ったんだけど、汚い物件ばっかり見に行くの」

 彼がここがいい、という物件の内見を取り付けるとどこも、部屋が黴びている、建物がひどく古い、一階にある飲食店街の匂いが染みついている、共有部分が無法地帯、高速の真横、と女性が住むには尻込みするような所ばかりなのだという。

「家賃も高いし、他にも綺麗で良さそうなところはあるのに、見向きもしなくて」

 彼女が提示した物件のリンクを見せて貰ったが、彼が固執している幾つかの物件はそれよりも数万円も高く、狭く、駅からも遠い。

「どうしてそっちがいいのかって聞いても、彼もよく判らないみたいで。でも『早く決めないと、なくなっちゃうよ』って」

 それでいて、具体的な引っ越しの話になると、まるで要領を得ないのだという。彼女が物件に対して抱いている不安を口にしても、彼は「僕は気にしないよ」ときょとんとした顔をする。

「だから、私、ちょっと怖くなってきちゃって」

 彼女の視線が手元に落ちた。

「別れようと思ってるんだ」

 春先に右手の薬指に輝いていた指輪は、外されていた。

「そうだと思った。だからさ、この間、話してた、これ」

 私は鞄を引き寄せ、中から小さな包みを取り出す。

「じゃーん。あれよ。お清めのやつ」

 先日、いつもの面子でグループLINEをしていた時に、別の友人が話題にしたのだ。友人は職場での人間関係に悩んでいて、SNSで見かけたアロマスプレーに興味を持った。藁にも縋りたい気持ちというか、少しでも気休めが欲しかったのだろう。

 それは、某有名神社の参道にある小さな土産物店で販売されているアロマスプレーで、清めの作用があるという。もちろん、そんなのは土産物を売るための方便、いわゆる『物語を売る』付加価値だというのは、みんな承知の上で盛り上がった。一時、SNSでとても効果があるとバズったことがあったからだ。霊にも効く除菌消臭剤が以前流行ったが、それよりもオカルト度が薄く、かつオシャレなパッケージで一般人にもとっつきやすい。その上、本来の目的はルームスプレーなので、香りがよいのである。シャレで購入するにも手頃な値段でネタにもなる、と定期的に話題になっているのだ。

 本気でお祓いをするほど深刻でもなく、かといって、自力でどうにもならないのは理不尽、そんな鬱憤を晴らすのにぴったりな手軽さ、というところだろう。

 それでもわざわざ現地まで買いに赴いたのかと思えば、友人は通販で手に入れたという。便利な世の中だ。

 だから私も彼女が少しでも元気になればと、買ってみたのだ。ついでに自分の分も購入したのは黙っておくことにした。

「ありがとう」

 彼女は嬉しそうにそれを受け取ると、さっそく包みを開ける。

「これを使ったら会社が倒産したって話もあるよね」

 そんなに効き目があるなら早速使おう、と、うふふと笑う。

 ぷしゅっと、テーブルの下で一吹きされたアロマが、爽やかな樹木の香りを僅かに広げてあっという間に消えていく。

「ねえ、そういえば、あなたは大丈夫なの」

 不意に向けられた彼女の心配そうな瞳に、私はうっすらと微笑みを返した。


 SNSのタイムラインに、見慣れぬ投稿が表示されていた。

 私のフォロワーは、スピリチュアルな話をしない。時々ホラー好きな知人が、オカルト的な話題を流してくることはあるが、それくらいだ。

 だから、それも、ぱっと見は怪談話だと思って斜め読みをした。

『深夜だから誰も見てないと思って、普段しない話をするのですが。時々、家具と家電との狭い隙間に、元彼が挟まっている。あれは生き霊だと思うんです』

 アイコンを確認すると、まったく知らない人だった。おや、と思うと同時に少しだけ興味が湧いて、タップしてツリーを表示すると返信が幾つかついていた。

 てっきり、モキュメンタリーホラーのような投稿が見られるかと期待したのだが、連なっていたのはオカルトと呼ぶにはきらきらとした澄んだ返信で、知らぬ間に悪意なく生き霊を飛ばしてしまう人がいるとか、清めの塩を常に持っていることを薦めるといった柔らかなものだった。

 期待していた後ろ暗いエンターテイメントがないと悟ってがっかりとすると同時に、テーブルの上に置いたアロマスプレーが視界に入って苦笑した。私だって、清めのグッズを持っているではないか。

 手に取って、かこっ、と一吹き、部屋に吹き付ける。緑を思わせる青い匂いと、仄かな花の香りが心地よかった。青い草の清々しい香りや花の匂いは、それだけで澄んだ気持ちにさせてくれる。草原や花が揺れる野原のイメージを喚起させるからではないか。心が洗われる、という表現は、まさに『清め』の作用ともいえるだろう。

 私はちらりと冷蔵庫に目をやる。低い唸りを上げる冷蔵庫とシンクの隙間の暗がりが、目に入る。隙間に元彼が挟まるのなら、そこに居る彼は潰れているのか、ひしゃげているのか、それとも単に小さいのか、どれだろう。仮に挟まっていたとして、視力の悪い私には見えはしない。

 目を眇めて、ふと、先週に別れたばかりの元彼の、別れ際の棄てられた犬のような哀れな顔を思い出す。もし、生き霊が取り憑くのだとしたら、恨みよりも執着ではないか。だとしたら、あの人もまた。縋るような眼差しが、薄れていくアロマの香りと共に淡く消えていった。

 私は立ち上がってキッチンへ向かう。肩と腰がひどく凝っている。

 先週の別れ話に至るまでの揉め事と、同棲を解消するにあたって生じた急な引っ越しに仕事の慌ただしさ。あからさまな肉体疲労が積み重なった腰を擦りながら、空っぽに近い冷蔵庫を一瞥して、私は残り一つになった冷凍食品を電子レンジに突っ込んだ。


 良い香りでリラックスしたのと、別れ話が終わった開放感と、久しぶりの友人とのおしゃべりで気持ちが晴れたのとで、久しぶりにぐっすりと眠れた。

 明け方、目が覚めると、汗をびっしょりと掻いていた。首の後ろと腰の周りが、布が湿るほどだ。

 おかげで、シャワーを浴びて着替えると、ひどく身体が軽かった。

 スマホを手に取ると、夜の間に、彼からのメッセージが届いていた。

『もう一度、君に会うにはどうしたらいいのかな』

 すっきりと別れたつもりだったのは、私だけだったのかも知れない。

 既読したのを見計らったようにスマホが震えて、新しいメッセージが表示される。

『先週君が言ったことなら、僕は気にしないから』

 どこかで聞いたような台詞だと、テーブルの上に手を伸ばす。

『だから、これからもよろしく』

 アロマの香りが、朝の空気を清々しく染め上げた。


 一週間が散々だった。

 やっと腰と肩の痛みが取れたのに、急な腹痛が襲ってきた。脂汗が出て、座っているのもままならず、仕事を休んだ。翌日には何事もなかったかのように痛みは去ったが、出勤すると山のような仕事が入っていて、残業が続いた。

 ようやく片がつきそうになったところで部署の飲み会が差し込まれ、浮かれた上司が酔い潰れて救急車で運ばれる騒ぎになり、そのまま数日休むことになった結果、しわ寄せで上司の仕事が回ってくる。勝手のわからぬ作業で重い荷物を移動させた時に脚を捻った。散々だと舌打ちしながら、腹いせにアロマスプレーを撒いた。脳裏に友人が言っていた「このスプレーで会社が潰れたことがある」という噂が浮かんだのは否定しない。冗談だとわかっていても、多少気持ちが楽になった。

 土日にのんびりと身体を休め、気分も新たに始まった月曜日、爽やかな朝の出勤途中で盛大に道に広がった吐瀉物に辟易した。

 週に4度も、嘔吐物に遭遇したのは、生まれて初めてだった。

 季節は初夏で、卵から孵った子ガラスたちが巣立ったのか、家の周りにカラスが増えた。ベランダで、機嫌がいいのか悪いのか、ダミ声を張り上げるカラスたちが憎らしくもあったが、まだ柔らかな羽毛がはみ出た子ガラスは可愛かった。

 日に日に増える仕事に、軽くなったはずの肩がまた重くなり、肩こりのせいか視界が薄暗く霞むことがあった。振り向きざまに、肩に黒い手が乗っているように見えたのは錯覚だ。眉間を揉み、帰りにホットアイマスクを買った。

 疲れ果てた夕食時、冷凍食品を取り出そうと下段の冷凍庫に屈み込む。シンクと冷蔵庫の隙間にふと視線が流れた。十五センチほどの隙間の陰の中に、灰色に沈んだ妙に黄色っぽい肌色が見えた気がした。疲れ目を擦って、レンジに冷凍食品を放り込んだ。


 仕事帰りにコンビニでアイスを買って、信号待ちをしていた。

 右肩に掛けた鞄の重みと、左肩の不愉快な重さが丁度バランスをとっていた。左腕が妙にぴりぴりと痒い。

 目の前を、車が何台も流れていたのが、急に一台も通らなくなった。

 赤信号がぼんやりと霞む。

 ふっと視界が暗くなった気がして、目を上げる。

 元彼の顔が、脳裏に浮かんだ。

 信号は、まだ、変わらない。

 耳元で声がした気がした。

「僕は、気にしないから」

 鞄に手を突っ込んで、アロマスプレーを探す。

 左腕が、もぞもぞと痒い。

 見下ろすと、見たこともない黄色い虫がついていた。我慢の限界だった。

 探り当てたスプレーのケースで、虫を叩き落とす。結局、いざというときは物理に頼るのだと思うと、なんだかおかしかった。

 目の前に凝ったのは、彼の執着か、私の恨みか。スプレーを使ったことで浄化され、私から引き剥がされたのは、どちらだろう。

 どちらだって構うものか。だって、彼らは言うだろう。「僕は気にしない」と。私は、彼女は、気にするのだ。黙っていろ。

 薄く淀んだ視界の中に浮かんだ顔を睨み付ける。使うことなく、鞄にスプレーをしまった。

 彼の目が、私を見ていた。何故だか膚は黄色く濁っている。疲れすぎて幻覚を見ているのだ。

 妙に苛々として、だらりと下げていた左腕の指を開く。

 ぼんやりとした眼差しが私に向けられる。

 掴める気がした。頭の中で、やけにはっきりとイメージができる。

 指に力を込めて、虚な顔に爪を立てる。現実には腿の横に垂らしたままの指先に、何かが引っかかる感触がした。そのまま、ぐっと、腕を後ろに振る。頭の中で、顔を引き倒す。そのまま、右手の指を鉤爪にして左手に掴んだままの顔を引っ掻き、肉を抉る。

 イメージの中の彼の顔は黄色く歪んで、千切れてぐしゃぐしゃになり、私はそれを両手でぎゅうぎゅうと丸めた。横目で見たゴミ捨て場のゴミ袋を脳内で開いて、そこに丸めた顔を叩き込んで口を閉めた。

 何かが、あー、と哭いた。

 妄想を追ってぼやけていた視点を元に戻すと、いつの間にか、目の前の顔は消えていた。

 ゴミ捨て場に積み上がったゴミ袋が一つ、がさりと転がって崩れた。カラスが一羽、夜の中で鳴いた。


 翌朝、出勤時に信号機近くのゴミ捨て場の横を通ると、ひどく臭かった。

 生ゴミが腐った臭いが、辺り一面に広がっている。

 見たことのないロゴのゴミ収集車が、ゆるゆると目の前に止まった。

 収集車から降りてきた作業員が、私を見て、会釈する。

 一つだけゴミ山から離れた場所に置かれていたゴミ袋は、中身が黄色かった。作業員はそれだけを掴んで車に放り込む。収集車の刃に巻き込まれて、何かが潰れたような音と異臭が一瞬あたりに立ちこめて、消えた。

 作業員は車に乗り込みながら、私を振り返る。

「またお願いします」

 気がつけば、肩がとても軽くなっていた。


 後日、彼女からLINEが届いた。

 無事に別れたそうだ。

 K町に住みたい。話の通じない彼はそればかり、うわごとみたいに繰り返していたらしい。

 だから、彼女は言ったそうだ。

「そんなに好きなら、K町と結婚すれば」

 茫然とする彼を席に残し、にっこりと笑って、手を振ったという。

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黄色い顔 中村ハル @halnakamura

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