第4章 婚約破棄まであと7日

 少しも進まない時計を何度もながめ、まんじりともしないで夜が明けた。

 目を閉じれば、ボールダー家のうすぐらいホールで泣きそうにり返ったエレナの顔がかぶ。

 しんだいに横になったのに浅いねむりしかとれなかったのは、オスカーがしやく家をいでぼうさつされた当時以来かもしれない。

(さすがに今すぐはまずいか)

 すぐにでもボールダーはくしやく家に行きたかったが、早朝の訪問は常識外れだ。あのルイーズに自分たちを追い返す口実をあたえるわけにはいかない。

 じりじりとした気持ちで午前中の業務をこなし、別館で暮らす祖母イーディスの往診を終えたジェイクが現れるとそくに馬車に乗り込んだ。

「別にいいけどね、うん。でもさあ、昼食を食べる時間くらいあると思ったんだ」

「悪いな」

 往診かばんひざいたジェイクが、皮肉交じりに揶揄ってくる。

 言いたいことは分かる。

 これまでけてばかりいた婚約者をとつぜん気にするようになったオスカーは、長年の親友から見ても興味深いだろう。

 向かいの席からじっと物問いたげにうかがわれて、正直に話すことにした。

「……嫌な予感がする」

「え、本当に? オスカーのそういう勘って昔から当たったよね。じゃあ急がないと」

 言いながらジェイクはコン、と馬車の屋根をたたいて速度を上げるようにぎよしやに伝える。

 今さらだが、エレナをあの家に置いてきたのは失敗だったと思えて仕方ない。

(無事をかくにんするだけだ。なにもなければそれでいい)

 彼女を気にしてしまうのは、ていないをさせた責任を感じているのか、おくをなくしたことへの同情か。

 自分でも分からない行動の理由は、友人にはもっと不可解らしい。

「しっかし、オスカーがエレナじようのことをそんなに心配するなんて意外だったよ」

 ジェイクの視線は、座席に置いた花束に向けられている。いに行くのに手ぶらはおかしいと使用人が用意したものだ。

 子爵家のだんいている花だが、若いころのようには歩けないイーディスが窓から眺めて楽しめるようにと庭はよく手入れされているため、えのする花束になった。

「怪我人を見舞うことはなにもおかしくないだろう」

つうならね。でもさ、オスカー。記憶をなくす前の彼女でも見舞いに行く?」

「前の……」

 かれて返事にまる。

 顔も見たくないほど嫌っていたのだ。見舞いになど行くはずがない。せいぜいカードを一枚送るくらいだろう。

 簡単にそう予想できてしまって、われながらあきれる。

はたから見たら、俺のほうがよっぽど「ひどい婚約者」だな)

 海色のひとみしずませて考え込んだオスカーをしげしげと眺めながら、ジェイクは人差し指を向けてくる。

「自分がどれだけ切羽詰まった顔しているか気づいてる? 婚約破棄するって言ってたときのオスカーと全然ちがうよ」

「……人が違ったのは、彼女のほうだろう」

「まあね、エレナ嬢の場合はこうりよくだけど」

「俺だって不可抗力だ」

「ふうん?」

 ふい、と横を向いてこの話を終わりにする。面白がるようにかたすくめて、ジェイクも口をつぐんだ。

 記憶と経験がその人を作る、とジェイクは言った。

 それなら夢の記憶しか持たない今の彼女はこれまでのエレナ・ボールダーとは違う人間である。

 以前の、オスカーにまとわりつき、周囲をかくしてばかりいたエレナではない。

 今のエレナは自分からオスカーを訪ねてくることも、パーティーにいつしよに行きたいと強請ねだることもしないだろう。

 彼女にとって自分はおもいを寄せる相手どころか、数日前に会ったばかりの見知らぬ他人なのだから。

 そして来週には、婚約者という名ばかりのつながりもなくなる。

(……それがどうした)

 エレナとの婚約を解消することは、ほかでもない自分が望んだことだ。

 チリと焼け付くように感じる胸の奥から目をらすように、オスカーは外を見たままだまり込む。

 ジェイクもその後は話しかけてこず、車輪の音だけがしばらくひびいた。



 やがてボールダー家にとうちやくすると、従者がたくするより早くオスカーは自分で馬車のとびらを開けて降りる。

 明るい中で見ると、門周りの手入れも最低限しかされていない。使用人の数が足りていないのは明白だが、それよりもこのタウンハウスには、訪問者をかんげいしないふんただよっている。

 扉を叩くと、昨日と同じにやはりたっぷり時間をおいてかぎを開ける音がした。

 気まずそうに扉を押さえるメイドの後ろにいるルイーズと目が合う。

(分かりやすくめいわくそうだな。想定内だが)

 面会をきよする口実を事前に準備させないため、れんらくは入れていない。あからさまにためいきいたルイーズが、しぶしぶ口を開く。

「このようなご訪問は困ります、ウェスト子爵」

「エレナとは約束済みだ。医師のしんさつを受けてもらう」

 オスカーの手にある花束を見つつ、ルイーズはつんとあごを上げた。

「お嬢様のお世話は私どもでちゃんとしております。必要ございませ……子爵!」

「そちらの君、案内を」

「は、はい」

 ルイーズを押しのけるようにしてごういんしきに入る。

 昨日、エレナを連れていったメイドに案内を命じると、上司であるルイーズを窺いながらもオスカーにうなずいた。

「待ちなさい、なんて無礼な! だいたい、あなたたちのような──」

「まあまあ。責任者のあなたには、医師としていくつか確認したいことがありますので」

 オスカーを引き止めようとするルイーズをジェイクがなだめている間に階段を上がり、エレナの部屋にたどり着く。

 メイドがおびえがちにノックをするが、室内にいるはずのエレナからは応答がない。

「お嬢様、お客様がお見えです……お嬢様?」

「退け」

 むなさわぎがしてれいも忘れドアを開けたとたん、せ返るようなこうすいにおいに息が詰まった。以前のエレナが好んでいて、オスカーは苦手なかおりだ。

 浴びるようにつけているからはなれたところからも「いる」と分かるほどで、それゆえ容易にそうぐうを避けることもできた。

 そんな思い出がある、甘く重だるい香りと、おうの私室もかくやと思われるほどじようかざり付けられた内装がオスカーをむかえる。

(なんだ、この部屋は)

 昼だというのに厚いカーテンが引かれ、ろうそくこうこうともっている。

 異様な雰囲気にされつつも、前室にはだれの姿もなく足を進めた。

「失礼する。エレナ、いないのか?」

「……オスカー様?」

 奥がしんしつになっているのだろう。力のない声とともに弱々しい足音がして、待つまでもなくエレナが現れた──が、その姿にオスカーは目を疑う。

 頭の包帯もうでっていた布も外されて、ぎっちりとかみわれしようかんぺきな「元のエレナ」がそこにいた。

 きらびやかなドレスを身につけ何重にもネックレスを下げて、昨日着ていたティーガウンを腕にかかえている。

 厚くられた白粉おしろいで顔色は分からない。だが目には力がなく足取りもおぼつかない。無理をして立っているのがいちもくりようぜんだ。

 かなりしようもうしているらしいエレナはかすれた声でびを言いつつ、オスカーの持つ花束に目を留めた。

「お見えでしたのね。聞こえなくて……ごめんなさい。少し、体調がすぐれなくて。あ、お花……」

「体調? 当たり前だろう、君は怪我人なんだぞ。誰がこんなちやをさせた」

 言いながら腹が立ってきた。誰だなんて訊くまでもない、ルイーズだ。

 今のエレナがこういったよそおいを望むわけがない。

 昨日の服を、花がほころぶような表情で喜んだのだ。アクセサリーには興味がないようで、小さなブローチですら「きれいな布にピンをすのがしい」とえんりよされたくらいだ。

 オスカーの質問にエレナは答えなかった。いや、答えられなかった。

 ふらりと体勢をくずした彼女に、花束を投げ捨て腕をばす。れた体がおどろくほどに熱い。

 オスカーの中で、言葉にしがたいいかりがふくれ上がった。

「──っ、ジェイク!」

「えっ、包帯外しちゃったの? うわあ……」

 ルイーズをり切ってけつけたジェイクも、エレナの様子を見るなり言葉をなくす。あわてて近寄り、奥まで白粉が塗り込まれた額の傷口に渋い顔をした。

「ひどいな、のうしているじゃないか。エレナじよう、肩はどうです? 腕は動かせますか?」

 かすかに首を横に振って、エレナはつらそうに目を閉じてしまった。

 オスカーは息苦しそうにしながら自分にもたれるエレナを、抱えたドレスごとよこきにする。

「え……?」

「帰ろう」

 たおれないように抱きとめた体は、意外なほどに細かった。今、オスカーの腕にかっているのは、ごうせいなドレスの重さばかりだろう。

 息苦しそうにまゆを寄せながらも、くたりと自分に身を預けるエレナにどうしようもなくよくく。

(こんなところに置いておけるか)

 過剰にぜいたくな調度と香りで満たされたこの部屋は、どろりとにごったぬまぞこのようだ。

 足早に出て行こうとするオスカーの前に、ルイーズが立ちはだかった。

「なっ、なにをしているのです、このはじらずが! お嬢様を下ろしなさい!」

人に対するこれはぎやくたいだ」

「身だしなみを整えてなにが悪いのです! カタリナ様のむすめがあんなのような安っぽいドレスなど、くつじよく以外の何物でもありませんでしょう!」

 ヒステリックな主張に視線だけ向ける。

 こおり付くほどのするどまなしに気圧されて、ルイーズはビクリとかたふるわせた。

「話にならないな。ボールダーはくしやくにはこちらから伝えておく。エレナが回復するまでこの家にはもどさないし、お前たちには会わせない」

「なっ……!」

「ジェイク、向こうに着いたらすぐに手当てを」

「もちろん」

「私はお嬢様が生まれる前からお仕えしているのですよ! 今さらあなたがこんやく者ぶるなど都合のいいことが許されるとでも──」

「黙れ」

 エレナを抱えていなければ手が出ていたかもしれない。あつでそれ以上の反論をふうじ、ま忌ましい部屋を後にする。

 外に出て、ようやく胸いっぱいしんせんな空気を吸い込んでもまだ怒りが収まらない。

 れないように、だが最速で走らせる馬車の中でオスカーはずっとエレナを抱えたままだ。

「あ、あの、オスカー様。わたし自分で」

「こんなに熱があって、座っていられるわけがない」

「熱……」

 自覚するゆうもなかったのだろう。

 確かめるように視線を向けてくるが、頭痛がしたようで小さくうめいてぎゅっと目をつむる。

「そうですよ。心地ごこちは悪いだろうけど、そのままオスカーに抱えられていてください。座席から落ちて、それ以上怪我をしても大変ですし」

「す、すみません」

 ジェイクにも言われて、また謝罪の言葉を口にする。

 今のエレナになってから謝られてばかりだ。悪いのは彼女ではないだろうに。

 オスカーはきつく結われたエレナの髪を解きにかかる。ピンをくたび、こわった体から力が抜けていくのが分かった。

かくにんしますけど、その格好はエレナ嬢が希望したわけじゃないですよね?」

「え、ええ。あのルイーズという人が無理やり……最初は、彼女のことを思い出せないわたしにおこっているのだと思ったのですが」

 こんわくしきりの声は、だが、先ほどよりはしっかりしている。

 エレナが言うには、オスカーたちが帰った後すぐに包帯も湿しつも取られたのだという。

「『みっともない』って言われて……あの人の様子がこわくて、部屋にもっていたのですけれど、あの部屋も落ち着かなくて」

「あー、そうでしょうねえ」

 破られる勢いでがされたティーガウンは、捨てられないようにずっと持っていたのだという。

「あと、部屋でこれを見つけました」

 動くほうの手で、エレナはくるりと丸めたドレスの中から一冊の手帳を取り出してオスカーに見せる。

 厳重にかわひもが巻かれたそれは、ふらついたひようたおしてしまったダストボックスの底が外れて出てきたものだという。

 そこにちょうどルイーズが入ってきたため、とつにドレスに包み、そのまま持ってきてしまったと申し訳なさそうにする。

 二重底に明らかにかくされていた手帳は、エレナの日記だった。

(日記か……)

「それを読んだら、なにか思い出すかもしれませんね」

「そう……ですね」

 気乗りしない声で、エレナはジェイクに同意する。力の入らない手で日記をにぎりしめるエレナを、オスカーは言葉なく見つめた。

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婚約破棄までの10日間 小鳩子鈴/角川ビーンズ文庫 @beans

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