第4章 婚約破棄まであと7日
少しも進まない時計を何度も
目を閉じれば、ボールダー家の
(さすがに今すぐはまずいか)
すぐにでもボールダー
じりじりとした気持ちで午前中の業務をこなし、別館で暮らす祖母イーディスの往診を終えたジェイクが現れると
「別にいいけどね、うん。でもさあ、昼食を食べる時間くらいあると思ったんだ」
「悪いな」
往診
言いたいことは分かる。
これまで
向かいの席からじっと物問いたげに
「……嫌な予感がする」
「え、本当に? オスカーのそういう勘って昔から当たったよね。じゃあ急がないと」
言いながらジェイクはコン、と馬車の屋根を
今さらだが、エレナをあの家に置いてきたのは失敗だったと思えて仕方ない。
(無事を
彼女を気にしてしまうのは、
自分でも分からない行動の理由は、友人にはもっと不可解らしい。
「しっかし、オスカーがエレナ
ジェイクの視線は、座席に置いた花束に向けられている。
子爵家の
「怪我人を見舞うことはなにもおかしくないだろう」
「
「前の……」
顔も見たくないほど嫌っていたのだ。見舞いになど行くはずがない。せいぜいカードを一枚送るくらいだろう。
簡単にそう予想できてしまって、
(
海色の
「自分がどれだけ切羽詰まった顔しているか気づいてる? 婚約破棄するって言ってたときのオスカーと全然
「……人が違ったのは、彼女のほうだろう」
「まあね、エレナ嬢の場合は
「俺だって不可抗力だ」
「ふうん?」
ふい、と横を向いてこの話を終わりにする。面白がるように
記憶と経験がその人を作る、とジェイクは言った。
それなら夢の記憶しか持たない今の彼女はこれまでのエレナ・ボールダーとは違う人間である。
以前の、オスカーにまとわりつき、周囲を
今のエレナは自分からオスカーを訪ねてくることも、パーティーに
彼女にとって自分は
そして来週には、婚約者という名ばかりの
(……それがどうした)
エレナとの婚約を解消することは、ほかでもない自分が望んだことだ。
チリと焼け付くように感じる胸の奥から目を
ジェイクもその後は話しかけてこず、車輪の音だけがしばらく
やがてボールダー家に
明るい中で見ると、門周りの手入れも最低限しかされていない。使用人の数が足りていないのは明白だが、それよりもこのタウンハウスには、訪問者を
扉を叩くと、昨日と同じにやはりたっぷり時間をおいて
気まずそうに扉を押さえるメイドの後ろにいるルイーズと目が合う。
(分かりやすく
面会を
「このようなご訪問は困ります、ウェスト子爵」
「エレナとは約束済みだ。医師の
オスカーの手にある花束を見つつ、ルイーズはつんと
「お嬢様のお世話は私どもでちゃんとしております。必要ございませ……子爵!」
「そちらの君、案内を」
「は、はい」
ルイーズを押しのけるようにして
昨日、エレナを連れていったメイドに案内を命じると、上司であるルイーズを窺いながらもオスカーに
「待ちなさい、なんて無礼な! だいたい、あなたたちのような──」
「まあまあ。責任者のあなたには、医師として
オスカーを引き止めようとするルイーズをジェイクが
メイドが
「お嬢様、お客様がお見えです……お嬢様?」
「退け」
浴びるようにつけているから
そんな思い出がある、甘く重だるい香りと、
(なんだ、この部屋は)
昼だというのに厚いカーテンが引かれ、
異様な雰囲気に
「失礼する。エレナ、いないのか?」
「……オスカー様?」
奥が
頭の包帯も
きらびやかなドレスを身につけ何重にもネックレスを下げて、昨日着ていたティーガウンを腕に
厚く
かなり
「お見えでしたのね。聞こえなくて……ごめんなさい。少し、体調がすぐれなくて。あ、お花……」
「体調? 当たり前だろう、君は怪我人なんだぞ。誰がこんな
言いながら腹が立ってきた。誰だなんて訊くまでもない、ルイーズだ。
今のエレナがこういった
昨日の服を、花がほころぶような表情で喜んだのだ。アクセサリーには興味がないようで、小さなブローチですら「きれいな布にピンを
オスカーの質問にエレナは答えなかった。いや、答えられなかった。
ふらりと体勢を
オスカーの中で、言葉にしがたい
「──っ、ジェイク!」
「えっ、包帯外しちゃったの? うわあ……」
ルイーズを
「ひどいな、
オスカーは息苦しそうにしながら自分に
「え……?」
「帰ろう」
息苦しそうに
(こんなところに置いておけるか)
過剰に
足早に出て行こうとするオスカーの前に、ルイーズが立ちはだかった。
「なっ、なにをしているのです、この
「
「身だしなみを整えてなにが悪いのです! カタリナ様の
ヒステリックな主張に視線だけ向ける。
「話にならないな。ボールダー
「なっ……!」
「ジェイク、向こうに着いたらすぐに手当てを」
「もちろん」
「私はお嬢様が生まれる前からお仕えしているのですよ! 今さらあなたが
「黙れ」
エレナを抱えていなければ手が出ていたかもしれない。
外に出て、ようやく胸いっぱい
「あ、あの、オスカー様。わたし自分で」
「こんなに熱があって、座っていられるわけがない」
「熱……」
自覚する
確かめるように視線を向けてくるが、頭痛がしたようで小さく
「そうですよ。
「す、すみません」
ジェイクにも言われて、また謝罪の言葉を口にする。
今のエレナになってから謝られてばかりだ。悪いのは彼女ではないだろうに。
オスカーはきつく結われたエレナの髪を解きにかかる。ピンを
「
「え、ええ。あのルイーズという人が無理やり……最初は、彼女のことを思い出せないわたしに
エレナが言うには、オスカーたちが帰った後すぐに包帯も
「『みっともない』って言われて……あの人の様子が
「あー、そうでしょうねえ」
破られる勢いで
「あと、部屋でこれを見つけました」
動くほうの手で、エレナはくるりと丸めたドレスの中から一冊の手帳を取り出してオスカーに見せる。
厳重に
そこにちょうどルイーズが入ってきたため、
二重底に明らかに
(日記か……)
「それを読んだら、なにか思い出すかもしれませんね」
「そう……ですね」
気乗りしない声で、エレナはジェイクに同意する。力の入らない手で日記を
婚約破棄までの10日間 小鳩子鈴/角川ビーンズ文庫 @beans
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