第3章 婚約破棄まであと8日
話し合いは穏やかなまま進み、予定どおり婚約は破棄すると改めて
夕方にはジェイクの
とはいえ、頭部の負傷は後から
「ご
「……構わない」
これまでさんざん
「オスカー様。わたしに対して、今までと同じにしてくださっていいですよ」
「話が通じる相手を無視しろと?」
「あっ、オスカー様の外聞が悪くなってしまいますね」
「そういうことではない」
エレナがあまりにも前と違うから、引き続き
こればかりはエレナにもどうしようもなくて、ただ申し訳なく思う。
「では、わたしが前と同じように
「それはしなくていい」
同じ顔なのに行動が違うから、困惑させてしまう。ならば言動を元通りにすればいいかと思ったのだが、
いい解決法が思いつかないまま日は変わり、オスカーの仕事が一段落した夕方、
エレナは先日、ウェスト家に着いた時点で
家の場所すら覚えていないエレナを
ボールダー伯爵家のタウンハウスへ向かう馬車に乗っているのはエレナとオスカー、それにジェイクの三人だ。
「ジェイクは来なくてもよかったのだが」
「
伯爵家の使用人に、記憶をなくした
怪我の手当て方法も
「俺が話せばいいだろう」
「手当ての仕方とか注意点とか、オスカーが全部説明できるならね」
ジェイクはピアース男爵家の次男で、オスカーとは寄宿学校時代に同じ部屋だったそうだ。
卒業後は医学の勉強のために
イーディスの往診で子爵家を
元のエレナを知らないゆえ、
「ジェイク先生にもご足労いただいて、ありがとうございます」
「いえいえ、お気になさらず。それより具合はどうです?
「
実を言うとまだあちこちが痛むが、
さほど支障なく動けるのは、怪我をした腕や
若草色のティーガウンは以前のエレナにすれば地味すぎるようだが、メイドたちには「よく似合う」と
一枚でいいのかとしきりに
(嫌いな相手にここまでしてくれるなんて、本当にできた人)
オスカー・ウェストという人は、もうすぐ
ますます以前のエレナの態度が申し訳なくなる。
(だからこそ、早く解放してあげなくちゃ)
オスカーとの
胸の奥で泣いている
と、馬車の外を
「エレナ嬢。このあたりは王都の中心街です。よくいらしていたそうですが、見覚えはないですか」
「ええと……ありません。ずいぶん人が多いですね」
「それは、夢と比べて?」
「はい。住んでいたのは
夕暮れ時になっても
やけにリアルなあの夢のことはすでに二人に話してある。
それを聞いて
医師である彼が言うには「過去の
エレナが精神的に安定していられるのは、夢の記憶が現実で得た記憶の代わりになって支えているからだろう、とのことだった。
夢も覚えていなかったら、きっと心の
だから今、その夢に
(でも、いつまでも忘れたままも困るわ)
ジェイクは医師だし、記憶をなくしてから初めて会ったということもあり、特別なにも感じない。
けれど、オスカーに対しては違う。
目が合うたびに罪悪感と
そんなことを思っていたら、オスカーと目が合う。
「……なかなか思い出せなくて、すみません」
「い、いや。気にすることはない」
以前のエレナは、よほど謝ったことがなかったのだろう。素直に謝罪の言葉を口にする今のエレナに、オスカーは慣れないようだ。
そっぽを向いたまま返事をして、
そんな二人にエレナはほっと小さく息を
頭に巻いている包帯と、
怪我の原因を
エレナは彼女たちにも
(こんないい人たちに、どうして……)
どれだけ具体的に聞いても、過去の行いは
家に帰ればなにか思い出せるだろうか。
(……いいえ。思い出さなくてはいけないわ)
空っぽの胸の前できゅっと手を
ボールダー
事前に
そういった貴族的な常識も、記憶と
「重ね重ね、申し訳ありません」
「……君が謝ることではない」
目も合わさずに言われるが、
やがて
(暗いだけでなく、
「案じておりました、お嬢様」
「……!」
肩が
「届いたお手紙には、お怪我をなさって記憶も曖昧でいらっしゃると」
「え、ええ」
「私のことはいかがです?」
家を出たときとは打って変わったエレナの地味な
まるで
「……覚えていないわ」
「そうですか。私はルイーズ・バッソと申します」
元々はエレナの母カタリナの専属
使用人を見下して無視ばかりするエレナが
ただ、ルイーズの灰色の
(なに……?)
言葉にできない不安が胸に広がり身構える。
エレナの怪我も予定外の
「ウェスト子爵。お
険のある目つきで
「ッ!」
急に引っ張られて、傷が痛んでエレナは
「おい、乱暴はよせ!」
「子爵様は、怪我をさせるためにお嬢様を呼びつけたのですね。ご立派な当主にご大層なお
「なっ……」
邸内での事故は当主の責任だ。そこを
「早々にお引き取りください。顔も見たくございません」
「ま、待って。オスカー様はなにも悪くな──」
「ジェニー、お嬢様を部屋にお連れしなさい」
「はっ、はい。お嬢様、こちらに」
反論し、謝罪しようとしたがそれも許されず、まるで
ジェニーと呼ばれたメイドに連れて行かれながら
(そんな、こんなのって)
怪我はエレナのせいだし、オスカーはすぐに
むしろ助けてもらったのだ。彼が
オスカーのウェスト家は子爵位で、エレナのボールダー伯爵家とは家格差があるのは事実だ。
しかしエレナは
そもそも、いくら自家の令嬢を心配したとしてもルイーズは使用人だ。他家の当主に対しこの態度はありえないと、
また、謝ることが増えてしまった。
「医師としていくつか注意点を伝えたいのだけど」
「結構です。お引き取りを」
しかもジェイクに対してルイーズは顔さえ向けず、まるで
背に
● ● ●
エレナが怪我をした原因はオスカーにある。
そう信じて自分たちを
追い立てられるようにして伯爵邸を後にすると、馬車の中には気まずい空気が
(なんだったんだ、今のは)
使用人から責められたことでプライドが傷ついたわけではない。だが、あのルイーズという人物に対する不信感が捨てきれない。
それはジェイクも同じらしい。
「さっきのルイーズって女性は、エレナ嬢の家に昔からいる使用人なんだよね。いつもあんな感じ?」
「さあ」
「さあって、オスカー知らないの?」
「この家には初めて来たからな」
「は?
友人からの非難めいた視線を
車窓に映る自分の顔は、不満そうに
(ルイーズ・バッソ……もとはエレナの母親について
エレナの実母カタリナは隣国の出身で、元を
とはいえ、そんな歴史があるだけで今はただの一貴族にすぎない。
代々
権勢は振るえなくても、貴族社会では血筋も重視される。
特に、かつての王女である先祖に
ルイーズはその筆頭で、カタリナを
だが──。
(……気に入らない)
オスカーからエレナを奪い取る──奪う、という言い方がぴったりだった──あの乱暴さは、主家の令嬢、しかも
いくらオスカーの
(引き止めれば
何度となくそう自分に言い聞かせるが、どうにも落ち着かない。
(ずっとエレナを避けてきた俺に、そう思う資格などないが)
オスカーとエレナの婚約は、当人を
両親の死後、
だから伯爵家の方針と言われればそれまでだが、どんな基準で使用人を選んでいるのか
気にかかるのは、屋敷もだ。
住まいは住人を映す鏡である。令嬢が一人で過ごしていて使用人の数が少ないにしても、あの暗く物々しい
(俺は本当に彼女のことをなにも知らない)
先日、同級生で集まった際に「好みと
エレナが
オスカーとだけでなく、家族とも関係が悪いのか。
友人と呼べる人はいるのか。
望んだものではなくとも三年も婚約していて、この一年は彼女の家族よりもずっと長く近くにいたはずなのに。
(これでは、記憶を取り戻す手助けなど
ウェスト家で
また
「エレナ嬢は使用人のことも覚えていなかったね」
「あ? ああ、そうだな」
そういえば、ルイーズを見てもエレナに過去を思い出した様子はなかった。
母の
「屋敷を見ても反応がなかったし。まあ、過ごすうちに思い出すかもだけど、期待はできなそうだなあ」
「医師としての所見か?」
「いや、
「そうか」
「ねえオスカー。
「ジェイク、それは……」
医師として、ジェイクがエレナを案ずるのは当然だ。なのに、なにかが気に
記憶をなくしており、外傷も完治していないエレナが注意を払うべき
しかし、ジェイクの申し出は、それだけが理由だろうか。
当のエレナもジェイクに対しては構えた感じがなく、肩の力を
(いや、ジェイクは医師だ……そもそも、
そう分かってはいるものの、
「『それは』、なに?」
「……なんでもない。分かった、
ありえない心の動きを
ルイーズが明日もあの
医師の診察という名目で訪問すれば、ルイーズだって
今のエレナは争いごとを好まないようだったから、押し入ったりするより
(そういえば、夢の中での夫は温和な性格の職人だと言っていたな)
たとえなにかで口論になっても気づいたら笑ってしまって、
エレナは夢だと言うが、ジェイクの考えでは頭を打ったせいで現実と想像が混ざったのだろうということだ。
(想像にしては、現実味がありすぎる気はするが)
創作なら何度か語るうちに
内容から察するに、時代背景は自分たちより上の世代──祖父母の若いころに近いようだ。世代を
生き生きと話すエレナの表情も相まって「本当にあったこと」だと、こちらまで信じてしまいそうになる。
(想像でも
今のエレナの支えになっているのだから、頭ごなしに否定するのも良くないだろう。
だが──過去の行動は消えない。
今だけ、一時的に別人のようになっているだけで、明日にはかつてのエレナに
その
「
「……だといいが」
ジェイクは以前のエレナを知らない。
こだわりなく心配できる友人を
自分でもよく分からない
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