第1章 婚約破棄まであと10日/第2章 婚約破棄まであと9日
長い夢を見て目が覚めると、エレナ・ボールダーの世界はすっかり変わっていた。
明るい日差しが布を
布で仕切られた向こう側には複数の人の気配があった。
「ここは……痛っ」
起き上がろうとすると、頭と
ズキズキと脈を打つ額に手を当てたら布が
「エレナ様、お気づきになりましたか」
痛みにあげた声が聞こえたのだろう。黒いワンピースに白いエプロンというお仕着せ姿の女性が天蓋の布をめくってこちらを
「あ、あの?」
「お
(手当て? 先生?)
一方的に
年の
なるほど、「先生」と呼ばれていたし医師なのだろう。
その彼が頭の包帯を外して
言葉少なに答えていると、視界の外からよく通る落ち着いた声がした。
「どうだ、ジェイク?」
「うん。頭部の出血は止まったようだよ。肩と
「そうか。まったく……」
ほっと
(
男性の声に聞き覚えはない。
内心で首を
「痛み止めです。少し
「……はい。ありがとうございます」
薬を飲み終わってまた横になる。天蓋が大きく開かれて、美しい
と、先ほどの声の主だろう男性がこちらに来た。
メイドたちはさっと場所を
つまり、ここでは彼が最も身分の高い人物に
(……
男性にこういう言い方はそぐわないかもしれないが、「美しい」という言葉がぴったりだ。
そんな美麗な容姿とは裏腹に、発する気配は
まるで親の
「エレナ・ボールダー。起き上がれるようになったら帰ってくれ」
だって、どうやら──。
「先に話したとおり、
「あの」
自分が発したのに、別人の声に聞こえる。
言葉を
「どなた様でしょう?」
「……は?」
「ええと、あなたもですが、わたしも。わたしはエレナという名なのですか?」
「ふざけているのか、エレナ」
「いいえ、本当に。はじめまして……ではないのですね、困りました。帰れとおっしゃるわたしの家が、どちらにあるのか教えていただけるとありがたいのですが」
「まさか……本当に?」
信じられないものを見るような目で
けれど相変わらず、まったく、さっぱり、分からない。
自分が誰で、ここがどこなのか。
この人たちが誰なのか、どうして自分が
そう告げると、帰り
先ほどよりも細かくエレナに
渡された手鏡を覗き込んで不思議そうに
「記憶
「いや。逆行性健忘、その中でも主に個人的な情報を対象とする部分的な記憶障害っていうのが正確かな。
「ややこしいぞ、ジェイク。俺にも分かるように話せ」
「んんー、簡単に言うと今のエレナ
「ますます分からん」
「記憶機能そのものが損傷しているわけではないんだ。ほら、さっきやってみせただろ。聞いたことを
ジェイクが指したものについて、それは「
朝には日が
ただ、過去の自分に起こったことや
読んだはずの本の内容、貴族令嬢の必修科目である詩や楽曲。住んでいる地名なども、聞いたことがないとエレナは
国や王の名前、家族についてもだ。
「頭を打った
ジェイクはそう言って、腕を組んでエレナを
「いいえ」
「彼と
「こんやく……?
先ほどからジェイクの質問に答えるたびに周囲がざわついたが、よりいっそう大きなどよめきが走った。
婚約と言われてぽかんと口を開けるエレナに、名指しされたオスカーも目を丸くしている。
メイドたちの口からは「まさか」とか「本当に?」とか、エレナを疑う声が多く聞こえるが、現状を信じられないのはエレナのほうだ。
知らない場所で知らない人に囲まれて、自分のこともよく分からない。
呼ばれるから返事をしているが、エレナという名にだって
不安でいっぱいでも
それと、目を覚ます直前まで見ていた、誰かの人生の一部をなぞった夢が
──夢の中のエレナは貴族ではなく、
今、鏡に映っているミルクティー色の長い髪、白い
目の形は似ていなくもないが、今の瞳はよくあるヘーゼルで、夢の自分は角度によって
(夫は、家具職人だったわ)
常に木の
最後に見えたのは、まだ若い自分が息を引き取るところ。
彼女の体から
(あちらが本当で、こちらの世界が夢のようなのよね)
思い出す日々は、細部は
しかし、記憶をなくしている実感はない。
だってあの夢の中で、たしかに自分は生きていたから。
いきなり引き戻された「今」にまだ心がついていかないが、困惑しているのはエレナだけではないようだ。
「
「オスカー、僕の見立てを疑うの?」
「そういうわけでは……」
「
「今は?」
「本人に
「……そういうものか」
「パニックも起こさせないで問診できたのに。これで誤診だと言われたら、医師として僕の立つ
「分かった、ジェイク。悪かった」
「それで、記憶は戻るのか?」
「うーん、それはなんとも。病気が原因の記憶障害ではないからこれ以上進まないだろうけど、先を予測するのは難しいな。それこそ、子どものころからよく知っている人……彼女の家族に会ったら思い出すかもしれないし、やっぱり思い出さないかもしれない」
ジェイクの言葉に
しげしげとこちらによこす疑わしそうな視線は、
(エレナは
なんだか気の毒に感じるが、自分が
「なんにせよ、しばらく様子を見る必要があるね。今のところ脳内出血の
「今知らせても行き違いになるだろう。そちらは俺のほうで手配しておく」
「そう。じゃあ、もしなにかあれば、夜中でもすぐに連絡して」
「ああ」
メイドにも細かく看護の指示を出して、白衣を
先に飲まされた痛み止めが効いてきたエレナがまた
● ● ●
ボールダー
エレナの祖父とオスカーの祖父は親友と呼べる
二人は自分たちの子どもを結婚させようと決めたが、生まれたのは
機会を
ところが時が
今はお
その結果、とんとん
一度流れた約束が孫の代になって果たされることは貴族社会で珍しくないが、ひとつ問題があった。
それがエレナ・ボールダーに対する周囲の評価だ。
エレナが三歳のときに
しかし娘のエレナは髪も瞳も地味な色合いで容姿も
エレナが母から引き
エレナが直接口をきく使用人は、実母についてきた隣国出身の
オスカーの両親は、エレナと婚約が成ってすぐ
ウェスト家でも高慢な態度だったが、エレナを
婚約が結ばれたのはエレナが十七歳、オスカーが
それから三年。ようやく子爵家の当主としてオスカーの立場が安定してきた今も、二人
何度か婚約解消を
王都のタウンハウスの
そんな我が儘女王のエレナを
結婚前から先が見えるような関係だったが、先日、オスカーの祖母イーディスのアクセサリーをエレナが勝手に持ち出そうとしていたことが発覚した。
イーディスはオスカーに残された唯一の直系の身内だ。
最近は年齢のせいで歩くことが困難になり別館に
さすがにイーディスの前ではエレナも大人しく、
その祖母が大事にしているブローチを、エレナは
これにはさすがに
エレナのような人間と、これ以上
オスカーは婚約を
文句でも言おうとしたのだろう。イーディスが暮らす別館に
「エレナ、いいところがないですね」
「まったくだ」
「そんな方と婚約だなんて。お察しします」
「……君に同情されるのは複雑なのだが」
ベッドから降りられないことに
遊びに来たクリスタベルが、たまたま別館のそばを通った際、
「では、クリスタベルさんが通りかからなければ、わたしは──」
「かなり出血があったから、危なかったかもしれない」
「まあ、命の恩人ですね」
教えられて、エレナは
恩人であるクリスタベルはこの場にいない。これまで
「直接お礼を言えなくて、申し訳ないです」
「……いや」
詫びるエレナにオスカーは言葉を
(
クリスタベルとエレナは
エレナがまくし立て、クリスタベルが泣く。
それがこの二人の関係であり、天地が逆になってもエレナはクリスタベルに礼など言わないはずだった。
そのエレナが、こうして
「全部知りたいと言うから話したが」
「ええ、ありがとうございます。ショッキングなお話でした」
「君のことだ」
「あ、そうでした」
背中にクッションを当てて半身を起こしたエレナの
(同一人物とは信じ難い変わりようだな)
オスカーの知っているエレナとは、表情も
ヘーゼルの
(……これが
以前のエレナは常に気を張っており、
際限のない悪口を聞きたくなくて顔を合わせることも
「あの、わたしが盗もうとしたという、おばあ様のブローチはどうなりましたか?」
「祖母が気づく前に、クリスタベルが宝石箱に戻した」
「それならよかったです!」
エレナは心底ほっとしたように表情を
ブローチは祖父から祖母への
中央に配された
だが、資産としての価値以上に、専用の宝石箱を開けるたびに祖母が穏やかな
そんなブローチが
「それにしても、どうしてわたしはそんなことをしたのでしょう」
「現場を見つけたクリスタベルには『
「あら。そんな
残念な令嬢ですねえと、まるで
部屋に使用人たちがいる状態で、自分の失態を話されることを気にしていないことも
目の前にいるのは本当にあのエレナなのだろうか。何度でも目を
「そんな
「そう思うか」
「ええ」
今年のシーズンのために、エレナの家族──父と
婚約の取り決めは家同士のものであり、解消するには
そのため実際の手続きはエレナの父が来てからになるが、先に本人に話を通そうと思ったことが昨日の事故に
「むしろ、よく三年も
「はい──っ、し、失礼を!」
「あら、構わないわ」
あっけらかんと
(
この家でエレナの相手をする羽目になることが一番多かったクリスタベルの話では、
顔立ちさえ違って見えるのはいつもの
(好ましい? 俺はなにを──)
自分でも予想外の心の動きに
「……初めのころは、そこまで
「そうなのですか?」
「そもそも
(そうだ。話をするどころか、会ってもいなかったじゃないか)
準備不足のまま
それをいいことに、本来果たすべき婚約者としての役割も放棄していたのは事実だ。
悪い評判を耳にするようになった最近まで
しかも、オスカーに
(最後にまともな会話をしたのはいつだったか……)
エレナの問題ばかりを挙げたが、自分にも非はあった。
思い返してみれば、
(婚約者から初めて呼ばれた理由が、婚約
初顔合わせの際に、エレナはオスカーに
そんな相手から冷たくあしらわれ続け、ついに婚約も破棄されるとなったら平静ではいられなくて当然だ。
「せっかくお話を
「なに?」
聞き
心の声を聞こうとするようにゆっくり
(……どうせ外見だろう)
自分の容姿が女性に好まれる
ろくに会話も交流もしていないのだ。ほかの理由などありえない。
聞き
「
「……待て。俺が
「だって『婚約者に贈り物を一度もしていない』だなんて。ふふ、正直すぎますよ」
全部「エレナが悪い」で押し切れた話だ。
そう言って目の前の女性はふわりと
額に巻かれた包帯が痛々しかった。
「そんな誠実な方だから、
午後の日差しを受けたエレナの
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