暦の上ではもう春。

@HIRSCH

暦の上ではもう春。

暦の上ではもう春。

なのに、まだ寒い日が続いている。


まだ人気のない早朝に近くの河川敷まで散歩をするのが私の日課。


正確には、その河川敷から向こう岸に向かって大きな声で唄うまでが私の日課。


ここ5ヶ月間、毎日欠かさず、雨の日も雪の日も。


今日もそう。

身だしなみを整える。

髪のまとまりはちょっと悪い。

鏡の前でにっこりしてみる。

今日もいつも通りの普通の私。

朝のテレビ、天気予報、BGMに耳を傾けながら、茶の間のテーブルに、一緒に暮らす家族に宛てて「いってきます」のメモを残し、河川敷まで散歩する。


早朝のまだ薄暗い誰もいない道、ピンとした空気、遠くに聞こえる新聞配達のバイクの音。

すれ違う人は今日もいない。


河川敷までは10分くらい。

歩きながら考えるのが好き。

今日もいつも通りに、いつも通り。

変化のない日々、変化があっても3パターン位が好きだし安心する。


河川敷のいつもの定位置、目印は向こう岸にある大きな樹。

周りを見渡して誰もいないことを確認したら、あの樹に向かって、私は唄う。

大きな大きな大きな声で。


2か月前、私は向こう岸にいる人に恋をした。

この時間、この場所に来ると必ず向こう岸のあの樹の下でいつもワンコといるあの人に。


あの人から見た向こう岸、つまりこっちの岸には私がいるのに、その人はそれを気にしない。


初めは何でだろうと思ったし、この状態であの樹に向かって唄うなんてもう、私にはできないと思った。


だけど。


この日課は私にとってはとても大切な事。

将来の自分がかかっているとても大切な事。


だから、やめるわけにはいかなくて。


だから、私がその場を去るのではなくて、その人があの場を去るまで私は続けようと心に決めた。


それからも毎日毎日私は唄う。

大きな大きな大きな声で。


それでも、その人は私の唄うこの時間この場所に必ず向かい合わせに座ってる。

まるで私の歌を聴くために、そこにいてくれているかのように。


それからも毎日毎日、私は唄う。

それからも毎日毎日、その人は向こう岸から私の歌を聴いてくれている。


だから、そう。

2か月前、私は向こう岸にいる人に恋をした。

この時間、この場所に来ると必ず向こう岸のあの樹の下でいつもワンコといるあの人に。



私の中のおまじない。


朝起きて、身だしなみを整えたらいつもよりも髪のまとまりが良くて、思った通りの髪型になれて、鏡の中でにっこりしてる自分がいつもよりもほんの少しキラキラに感じられて、朝のテレビの天気予報の日替わりのBGMが私の好きなナンバーで、茶の間のテーブルに一緒に暮らす家族から私に宛てて「いってらっしゃい」のメモがあって、河川敷まで散歩してすれ違う人たちがいて、その人たちが楽しく幸せそうに、そう見えたなら。


あの日から決めていた、私の決めたこのジンクス。

揃ったら、私はその時好きな人に気持ちを伝えると。


これが揃った、今日。

私は好きな人に気持ちを伝えると。

今日も向こう岸に樹の下にワンコと一緒にいるあの人に。


今日も私は歌を唄う。

大きな大きな大きな声で。

届け届けこの想い。


遠くてお互いに顔も見えないこの距離に、声だけでもあなたに届きますように。


唄い終えて、いつもなら家に帰るけど、今日はいつもと違うルートに足を向ける。


橋を渡って、あの人に会いに行こう。

想いを伝えに会いに行こう。

毎日毎日、欠かさずに私の歌を聴いてくれてたあの人に、この想いを伝えに行こう。

ジンクスは揃ってる。

今日だけは、きっと神さまだって私の味方をしてくれる。


少しずつ日も昇り、人もまばらに歩き出している、いつも対岸から見るこちら側。


歩き始めて後ろ姿のあの人に、届け届け私の気持ち。

大きな声で歌を唄う。

大きな大きな大きな声で。


すれ違う人たちは、誰も私に気も留めない。


あの日、事故で潰れた私の喉笛からは、言葉ではなく、吸い込んだ分に比例した空気が「ピー」と僅かに音を漏らすだけ。


お医者様は毎日の訓練で声が出るようになると言っていたけど、今の私にはこれが精いっぱい。


あの人の背中に向かって私は唄う。

届け届け私の気持ち。

どうか、届いてこの気持ち。

今日だけは、どうか神さま、私の味方して。

私に気づいて振り向いて。


そんな気持ちを込めて私は唄いながら少しずつ歩み寄りその人の背中のそばまで近づいた。


ワンコが足を止めてその人の顔を見上げたら、やや遅れて、その人が立ち止まり、こちらに振り返り目を閉じたまま「あぁ、不思議だね、今日は時間過ぎているのにあの歌がまだ聞こえる。しかもこんなに近くまで」と、ワンコに語りかけたその優しそうな表情は、ジンクスを守った私への神様からのご褒美かもしれないと思った。


ワンコがその人と繋がるハーネスをクイっと引き、私に向かって「わんっ」と声をかけてくれたのが、なんとなく私に「ほら、唄って?」と言ってくれているように思えて、それに応えるように私は唄ってみたら「あぁ、綺麗な声」とその人が言ってくれた。


「はじめまして」といった私の声は歌声と同じ。

「ピー」という漏れる音。


その人は「はじめまして」と私ににっこりほほ笑んだ。


ワンコは尻尾をぶんぶん振りながら、何故か得意げな表情で私とその人を交互に見つめている。


暦の上ではもう春。

だから、これからは温かい日が続きそうです。

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