第8話 大団円
ここから先、何が大団円なのか分からない。
大団円というと、そのほとんどが、ハッピーエンドなのだが、著者の作品のほとんどは、最期の章を、いつも、
「大団円」
で締めくくっている。
最後の章に名前をつけるのが面倒だともいえるのだが、つける気がしないと言った方がいいかも知れない、
それは、どこか、強引に締めくくろうとするからで、このお話もその類に漏れることはない。
マサムネがソープから離れた理由は、確かに、
「30代を超えてからの毎日が、あっという間に過ぎていくことで、その回数が減っていった」
そして、その感覚が次第に慣れを呼んできて、
「行かないのなら行かないで、我慢できないわけではない」
と思うようになると、自分がまるで大人になり、一皮むけたかのような感覚になったのだ。
しかし、逆に考えてみると、
「女の子の身体に飽きてきた」
という感覚もあった。
しかし、この感覚は、実は矛盾している。
「飽きがくるというのは、それだけの頻度が、必ずどこかに存在しているからだ」
といえるからではないだろうか?
というのも、ズルズルと長く続けていたとしても、いきなり、
「もう顔も見たくない。身体にさわりたくもない」
というほどの嫌気が刺すほどの、飽和状態が訪れたわけではない。
本当にそこまでの域に達するためには、常習的な感覚だけではなく、きっかけとしての突然訪れるものがなければ、飽きというものは、簡単に訪れるものではない。
それは、マサムネだけが感じている感覚なのか、他の人も感じていることなのかまでは分からないが、正直、他の人がどのようなことを感じたり考えているかということを、話もせずに分かるなど、聖人君子でもない限り、ありえることではないだろう。
そんな飽きが来た瞬間が、必ずどこかであったはずなのだが、それが思い出せない。
そのせいで風俗から一時期いなくなったのだが、急に戻るということになったのは、そこにも、何かきっかけがあったのだろうか?
目に見えているきっかけがあったわけではない、ただ、身体がムズムズしたことで、足が風俗に吸い寄せられたわけでもない。
ただ、
「吸い寄せられた」
という感覚に間違いはないのだが、身体が反応したからではなかった。
ということになると、
「どこか、懐かしさのようなものが、心地よさとなって、思い出されてきたからではないか?」
と思えた。
昔はお気に入りの女性がいて、その人に入っていれば、それだけでよかった。飽きがくるなど、考えたこともなかった。
しかし、もし、飽きがきたのだとすれば、それは、30代に入って、行く回数が減ってしまったことが弊害となったのではないだろうか?
行く回数が減ったことで、自分では、その時は飽きるということに対して、想像もしていなかっただけに、回数が何かの影響になるなどということを考えたこともなかった。
しかし、まさか、行く頻度が減ることで、飽きが目立つようになるとは、想像もしていなかった。実際にすぐには、理解できるものでもなく、正直、今でも信じられないでいるのだった。
そんなことを考えていると、
「俺の風俗通いって何だったんだろう?」
というものだった。
「彼女たちから、サービスをしてもらい、自分の癒しにしてもらう」
ということだったのではないだろうか?
そのために、お金を払うのであって、だから、まわりで毛嫌いしているような風俗とは種類が違うものだと思っていた。
ありがちな発想だが、
「俺が通っている風俗というのは、世間一般で毛嫌いしている人の風俗とは違うものなのだ」
と考えていた。
しかし、世間一般が毛嫌いしているわけではなく、
「そんな毛嫌いする連中がいる」
と思っていることで、そんな連中がいるとして、
「何をどう毛嫌いしているのかということを自分の中で理解しようとして、まわりの幻影を自分の中で抱え込んでしまったのではないか?」
と考えているのだ。
つまり、まわりが考えていると思うのは自分の幻想であり、確かに毛嫌いをしている人も一部にはいるだろうが、決して人と共有はしていない。
考えれば分かることで、人に自分がそんなことを考えているということを知られることが恥ずかしいと思っているのだから、自分からそれを他人に公表することはしないだろう。
しかし、一度公表してしまうと、
「何だ、お前もそうなのか?」
と、どんどん仲間が増えていき、その感覚が、皆のまわりに群がっていく感覚が生まれるのではないだろうか?
「要するに、風俗に対しても偏見は、妄想にすぎないのだ」
といえる。
しかもその妄想を、世間一般に皆が、まるで常識だといわんばかりに共有していることだと思い込んでいるので、なかなかそこから抜け出すことはできない。
なぜなら、その妄想というのは、子供の頃から教育として培われてきたモラルであったり、今では、
「コンプライアンス」
などという言葉で言い表されるものなのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「自分が女の子に対して、飽きが来たのは、本当であれば、頻度が高くなくてはいけないのに、頻度がそんなに高くない状態で、どうして飽きが来るようになったのかということが癒えるのか、考えるようになった」
ということだったのだ。
そんなことを考えていると、
「ここから先、お金、いや、値段は度返しして、また通い始めたい」
と考えるようになった。
ここは、一種の好奇心だったのかも知れない。
「頻度を増やすことで、飽きが進行するのかどうか?」
ということと、逆に、
「頻度を増やすと、飽きというものがなくなり、マンネリ化してくるということになるのか?」
ということを考えたりした。
それぞれに、両極端ではあるが、とにかく、また通ってみることにした。
そんなこんなで、また40代近くになったところで、風俗通いの頻度を深めた。
そもそも、辞めていたわけでも、中断していたわけでもない。ただ、頻度を低くしていただけなのに、感覚としては、辞めてしまったかのように思えたのは、そこに何か、辞められないという思いと、マンネリ化してしまったことで、感覚がマヒしていたのではないかと思えたのだ。
そもそも、風俗というのは、全部が受動的なものである。
もちろん、プレイになると、お互いに相手を感じさせようとするものなので、主導権がそれぞれに移動するというようなことはあっただろうが、基本は、
「癒してもらいたい」
というのが基本であり、当然の発想なのであろう。
だから、金銭が発生し、女の子の商売として成り立つのだ。
「お金が絡むから、いかがわしい」
と思える。
と考える人は多いだろう。
何しろ、言葉をどのように変えたとしても、
「売春である」
ということに変わりはない。
日本には、
「売春禁止汪」
というのがあるが、この法律の趣旨は何なのであろうか?
「モラルに反することなので、公序良俗、つまり、公衆の秩序、善良な風俗に違反している」
ということなのか、それとも、
「社会的に見て、昔の人身売買を思い起こさせるようで、あの時代は仕方がなかったのかも知れないが。文明国となったこの国ではありえないことを、この業界は奨励しようとしていて、金にさえなれば何でもありということで、さらには、その金が、反政府組織になどに流れる」
と考えるという思いなのか。
どちらであっても、
「性風俗産業は、どんなきれいごとを言っても、違法である売春禁止ということに、関わっていることは明白なことである」
といえるのではないだろうか?
ひょっとすると、マサムネは、その二つの発想が今頭の中にあり、その葛藤を感じていることで、
「逆の意味」
での、飽きが生まれているのかも知れない。
「あくまでも、法律違反だ」
ということが独り歩きして、自分の考えがまとまらず、それが飽きに繋がっているのではないかと思うのだった。
マサムネは、最近では、一人の女の子に嵌っている。
40代になって、また頻繁に来るようになって、なかなか定着しなかった。
最初は、気に入って、数回入るのだが、気が付けば飽きがきていて、
「もういいか?」
と、風俗に行くことすら、自分で拒否してしまうような気がしたからだ。
そうじゃないと、
「このままなら、風俗というもの自体が嫌いになる」
と考えたからで、それはまずかった。
本当にストレスが溜まって発散が必要な時、風俗というものが自分の選択肢に浮かんでくることがなかったら、のっぴきならないことになってしまった時、その解決方法に苦慮し、逃れられないところに追い詰められる気がしたからだった。
実際に、ストレスが、なくなるような女性が、風俗の世界にいるのかと言われると疑問であったが、少なくとも、今の自分のまわりにそんな人がいるとは思えなかった。
「俺は、風俗の世界に生きるべき人間なのではないか?」
というおかしな妄想に取りつかれている気がしたのだ。
そんな時に感じたのが、
「ヒモであってもいいんじゃないか?」
ということであった。
「女が、身体を武器に稼いでくれる。男はそれを支える側になる。女に対して、嫉妬やジェラシーが湧いてくることで、自分の飽きも来ることはない」
この思いが、頻繁に行けば行くほど、女性に対して飽きがこない原動力なのかも知れない。
嫉妬というものがある限り、飽きを来させないようにするというのは、この考えは、それほど無理のないこと、いや、必然にさえ感じられたのだ。
そんなことを考えているから、ヒモという発想が生まれてきた。
嫌ではないが、気になるのは、自分のプライドや自尊心である。
「普通は最初にそっちを思い浮かべるのに、まず飽きであったり、ストレスとの絡みを感じてしまうという時点で。最初から自分には、自尊心やプライドなどなかったのか、それとも風俗に通い出したことによって、そんな感情が次第に失せてくるようになったのかではないだろうか?」
と考えたが、それとは別に、
「俺自身は、誰かに尽くすという喜びを知ってしまったのではないだろうか?」
と考えると、風俗通いの自分は、普段の自分とは違った人間であり、相手に対して、二人の人間が同時に見ているような、不可思議な感覚になっているのではないかと思うのだった。
「黒子に徹する」
と言われるがそうかも知れない。
いや、裏方というのは、スタッフという意味で、別に表に出ないというわけではない。特に、プロデューサー、監督、脚本家、さらには音楽など、芸術家の巣窟ではないか?
そう思うと、
「人を支える」
というのは、
「自分が表に出るということではなく、表に出ている人を自分の芸術的センスで引き立たせる。つまりは、主役は自分だ」
といってもいいかも知れない。
マサムネは、それからしばらくして、小説を書いた。内容は、風俗に関してのことを、面白可笑しく描いたのだが、その内容は、果たして成人向けなのかどうなのか? 実際に考えてみたが、
「別にこだわることはないと思う」
と感じた。
別に放送禁止用語を並べているわけでもないし、官能小説のように、性欲を掻き立てることが目的ではないからだ。
「舞台が風俗の世界というだけで、普通の男と女の関係を描いているだけで、ひょっとすると、普通の恋愛小説の方が、描写は生々しいかも知れない」
と思っている。
なぜなら、
「恋愛小説というのは、恋愛の中に、エロスを隠し、エロスの中に、恋愛を隠すというような二重構造ではないか」
と思っているからだ。
「官能小説は、あくまでもエロスが中心、裏であろうが表であろうが、中心なのだ。だから、官能小説というのは、難しいと言われる」
ということだと解釈していた。
マサムネは、その両方の、
「いいところ」
を中心にして描いて行こうと思うのだった。
「40代になって、一度はヒモのような関係になってみるのもいいかも知れない」
と思ったが、ならずによかった。
その代わり、マサムネは、
「恋愛小説なのか、官能なのか分からない」
という新ジャンルを、風俗のお店を中心にして新たなジャンルを確立することができた。
これが、マサムネの話としては、序章なのではないかと思えてならないのだった……。
( 完 )
風俗の果て 森本 晃次 @kakku
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