ゴールデンブラウン ~golden brown bread ナギコさんの平穏な日常3

澳 加純

第1話

ゴールデンブラウン……深みのある茶色みの黄色で、輝くように見える茶色につけられた名称。きつね色。琥珀色。黄金色。




********




 ある日、ナギコさんは近所の商店街に、小さなブーランジェリーが開店したことを知った。パン屋でも、ベーカリーでもなく、ブーランジェリーであることがナギコさんの好奇心を刺激した。




 ブーランジェリーといえば、昨今はやりの、意識高い系のパン屋さんである。


 聞きかじった知識ではあるが、パン職人自らが小麦を選び、生地をこねて発酵させ、焼いたパンをその場で販売するお店ということらしい。


 スーパーに並ぶ大量生産のパンや、冷凍生地を焼いただけのパンを並べているだけの店とは一線を画した、職人の焼く本物のパンの店だから、店先に並ぶ数々のパンが美味しくないはずはない。




(美味しいパンが食べたい!)




 パン好きのナギコさんとしては、どうしても足を運ばずにはいられなかったのである。










 くだんのブーランジェリーは商店街の入り口付近にあり、間口一間いっけんほどの小さな店だった。少し前まで大手クリーニングチェーンの取次店があったところなのだが、ガラス張りの店内には、いかにも開店祝いらしき胡蝶蘭の鉢植えが見える。


 ブーランジェリーなどという名称から、華やかでおしゃれな外観を想像していたのだが、店構えは至って地味。看板も目立つものではない。清潔感を重視したのか、余分な装飾は排除したのか、とてもシンプルなこしらえだった。


 狭い店内は、2名か3名入れば満員といった様子。商品は全てショーケースの中に並んでいて、注文すると店員が取り出してくれる対面販売だ。




 店の前には行列が出来ていた。開店間もないという物珍しさからもあるのだろうが、ネットの食べログでも高評価がついていたから、評判を聞きつけたパン好きが品定めにやってくるのだろう。ログの評価は、どうしても主観が入るので、時としてアテにならないこともある。好きだからこそ、自らの舌で確かめてみたくなるではないか。


 ナギコさんもそのひとりであるのだから、期待と好奇心に胸を躍らせつつ、大人しく行列の一番後ろに並ぶのだった。




 行列に並ぶ時間は、ナギコさんにとって苦にならない。その先に楽しみが待っているのかと思えば、ワクワク感の方が勝るからだ。


 入れ替わり立ち替わり客が店のドアを開け閉めする度に、ほんわり流れてくる芳ばしい香り。ナギコさんの鼻が反応する。お腹もパンを、クロワッサンを食べたいと主張を始めていた。




 実は、出不精のナギコさんがブーランジェリーに足を運んだのには目的があった。


 好物のクロワッサン、それも美味しいクロワッサンを求めて、いそいそと足を運んだ次第である。




 バターをパン生地に折りこんで焼き上げたパン。 フランス発祥で、サクサクした食感が特徴的なクロワッサンは、子供の頃始めて口にしたときから、彼女のお気に入りであった。以降、パン屋へ行くたびにクロワッサンを買い求め、美味しいクロワッサンとの出会いに心躍らせていた。






 クロワッサンには「新月」とか「三日月の形の」という意味があるそうだ。


 また、同じクロワッサンでも、菱形のものと三日月型のものがある。成形するパン職人によって形が変わるのかと思っていたナギコさんだが、調べてみると意外な事実を知った。


 クロワッサンの形は使用している油脂で習慣的に決まっており、前者はバター、後者はマーガリンであるとのこと。本家フランスでは、菱形のものは「クロワッサン・オ・ブール croissant au beurre(バターのクロワッサン)」と呼ばれるそうだ。




 ナギコさんの好みはどちらかと言えば「クロワッサン・オ・ブール」の方で、表面の薄皮の軽やかな歯応え、中身のふんわりとした食感とともに、鼻孔に拡がるフレッシュなバターの香りに愛を感じていた。小麦の旨味、咀嚼するほどに口内に染み渡るバターの塩味と油脂の濃厚さ、追随するほのかな甘みに尊さを感じていたほどである。




 ブーランジェリーであるから、当然美味しいクロワッサンがあるはずである。いや、なければいけない。


 意識高い系のパン屋さんには、美味しいクロワッサンがなければいけないのだ!




 ――と、ナギコさんは心の中で叫んでいた。




 


 始めて訪れるブーランジェリーではあるが、ここにはそんなクロワッサンがあるに違いない。順番待ちの間に、ナギコさんの期待は否が応でも膨らんでいく。そして、いつしかそれは確信に近くなっていった。










 ところが――。




「申し訳ございません。クロワッサンは完売してしまったんです」




 ようやく順番が回ってきて店内に入ったナギコさんだったが、店員の口から返ってきたのは、実に残念な事実であった。期待が大きかった分だけ失望も大きい。待ち時間にクロワッサンのことばかり考えていたので、脳内はそれ一択になっていた。


 ショーケースの中には、ふんわり焼き上がった食パンやハード系のカンパーニュ、ブールやバターロールと言った定番商品や、惣菜系のパンも並んでいる。


 だが、まだ見ぬクロワッサンへの憧れと期待でいっぱいになっていたナギコさんには、それらはどうしても魅力的には映らなかった。




「ご注文がお決まりでしたら、仰ってください」




 と言われてもお目当てのクロワッサンはすでに無いし、かといってこのままなにも買わずに店を出るほどの勇気も無い。散々迷った末に、バゲットとあんパンを買って店をあとにした。




 


 愛しいクロワッサンの影さえ見ることのできなかったナギコさんだが、それでも手にしたパンからは食欲をそそる香りがして、ふんわりと彼女の心を包んでくれた。家路への道すがら、それはずっとナギコさんの食欲と創作欲を刺激した。




 だから「絵を描いてみよう!」と、ふと思いついたのである。








 * * * *








 ナギコさんの趣味は、「絵を描くこと」である。


 人と接することが苦手なナギコさんだが、子供の頃から絵を描くことは好きだった。おしゃべりするより、クレヨンや色鉛筆を動かしていたいタイプの人だ。心躍ることがあると、突然絵を描きたくなる衝動は、今も昔も抑えることができない。




 今回は珍しく快いことがきっかけではなかったが、創作意欲の刺激というものは、いつどこからやって来るかわからない。なにはともあれ、絵を描きたいという衝動に突き動かされたのだけは、間違いのない事実である。




 帰宅するやいなや、ナギコさんは戦利品のパンをダイニングテーブルの上に放り出して、スケッチブックと色鉛筆を取り出しに行った。そして3分もかからぬうちに、画材を抱えて、鼻歌を歌いながら戻ってきたのであった。




 適当な歌詞と節回しの鼻歌に乗せて、テーブルの上にスケッチブックを開き、彼女の宝物の水彩色鉛筆セットも並べてみる。


 今日のモチーフは、もちろんクロワッサンだ。悲しいかな目の前に素材はないが、ナギコさんの脳内にある、理想のクロワッサンを描こうと思っていた。




 その前に腹ごしらえをしなければと、買ってきたあんパンを袋から取り出しパクつく。自家製(と店員が教えてくれた)こしあんとソフトバターをしっとりとしたパン生地が包み、三位一体となった口溶けの良さは絶品だった。


 北海道産小豆の上品な甘味のこしあんと、軽やかなソフトバターの組み合わせだけでも誘惑的なのに、均一な丸く美しい形に焼き上がった外皮と、しっとりふんわり木目の整った内側クラム。鼻の奥で、ほんのりと牛乳の香りもする。




(クロワッサンは買えなかったけど、あんパンも美味しいっ! あのブーランジェリーは隠れた名店かもしれないわ!)




 あんパンも、速攻で『私のお気に入りリスト』に追加しようとナギコさんは考えた。同時にクロワッサンが売り切れたというだけで、他の商品に興味が持てなかった自分は、大層小さい心根の人間だったと反省する。


 もう少しで、名店の名品を逃してしまうところだったのだ。




 しかし、こうなるとバゲットの味の方も気になり始める。あんパンが美味しいのだからバゲットも美味しいに違いない、と思う。バゲットが美味しければクロワッサンは更なる美味に違いない、のだ。


 愛するクロワッサンのためにそれを証明しなくては……という言い訳の元、好奇心と食欲を満たすために、ナギコさんはバゲットの端をちぎり口へと運んだ。




 表面のクラストの部分が、カリッと香ばしい音を立てた。白く大きな気泡がたくさんある内側クラムは、もっちりとした食感。バゲットは卵や乳製品、砂糖などを使わないハード系のパンだから、素材の味がダイレクトに伝わってくる。


 クラム部分は少なめだが、バゲットはクラムを味わうというより、表面のクラストを噛み締めながら食べるのが真骨頂なので、ナギコさんもしばらくはゆっくりと顎を動かしていた。




(ガーリックバケットにしてもいいし、ハムや野菜を挟んでバケットサンドも美味しそうね。そういえば惣菜パンのところにそんな商品が並んでいなかったかしら?)




 あの時は売り切れのショックで、気分はどん底だった。余裕を失ったナギコさんは、ショーケースの中になにが並んでいたのか、あまり記憶がないのだ。




(こうなったら、明日もう一度、あのブーランジェリーに行かなくっちゃ。今度こそクロワッサンをゲットして、他にどんなパンがあるのかもリサーチしよう。あんパンはリピよ!)




 さらにちぎったバゲットを口に運んだところで、目の前に並べられた水彩色鉛筆が目に飛び込んできた。




(そうだった!)




 パンの味見に夢中になって、当初の目的をすっかり忘れていた。理想のクロワッサンを描く途中だったのだ。ウェットティッシュで指に付いた油分を拭き取り、スケッチブックに向き合う。






 バターを練り込んだ、幾層にも重なった生地。


 表面は焼き色を付けて、繊細にハラハラと。


 内側は薄羽のような生地が大胆な層になっていて、ふわふわでありながらジューシーな口当たりと芳醇な香りを放っている――という理想の「クロワッサン・オ・ブール」を描くため、ナギコさんは顎を動かしながら色鉛筆に手を伸ばした。










   * * * *










 その日の夕食時、ナギコさんの夫ショウさんは、妻の食欲が無いことに疑問を感じた。


 いつも美味しそうに食べる妻の箸が、さっぱり進まない。どこか具合が悪いのではと不安になったのだ。




「そうじゃなくて……」




 パンを食べすぎで、お腹がいっぱいだと言う。よくよく聞けばあんパン1個とバゲットを1本、ひとりで全部食べてしまったのだとか。呆れた反面、そんなに美味しいパンであれば、自分も食べてみたいという欲求が湧いてきた。




「ふ~ん、それって、どんなパンなの?」




 ショウさんは軽い気持ちで尋ねてみたのだが、その一言を聞いたナギコさんは、待っていましたとばかりにスケッチブックを取り出した。しまったと思ったが、後の祭り。妻は得意満面で、ページを開いている。




 ナギコさんの描く絵は、大層個性的だった。


 独自の空間把握力と色彩認識力、センスを駆使して、大胆で難解な世界観を構成してくる「天才画伯」タイプだ。瞳をキラキラさせて「どう?」と感想を求められるのだが、常人ショウさんの想定の斜め上をいく作品ばかりなので、毎回どう述べていいのか頭を捻らなくてはならなくなる。




 だが、今日は勝算があった。


 話の流れからいって、パンを描いたのは間違いないだろう。しかもあんパンとバゲットを買ったといったのだから、その二択だとショウさんは安直にうなずいた。




 しかし。


 スケッチブックに描かれていたのは、それぞれ長さの違う辺で結ばれた不格好な四角形であった。しかも、色はきつね色と焦げ茶色、黄色にところどころ赤色がちりばめられている。




 形からいけばトーストした食パンが妥当かと思うのだが、赤色がなにを現わしているのかわからない。いちごジャムでも塗ったという想定なのだろうか? それとも、あんパンからはみ出した餡子とか?


 ショウさんの口端が引き攣った。




 この際、不安要素あかは排除して考えた方が良いだろう。「答えは二択」というショウさんの確信は、なぜか揺るがない。そこは揺るがないのだが、回答を待つ妻の、キラキラの瞳にたじろいでいた。


 これは、なにがなんでも正解を出さないと、あとが大変なことになるパターンだ! ゴクリ、と唾液を飲み込んだ。




 一般的にバケットは細長い形だから、おそらくあんパンではないかと答えを推測するのだが、万が一でも外したときのダメージを考えるとおいそれとは口にできない。


 選択するための時間稼ぎのつもりで、




「ァ~っと、ほら、あれ。え~っと、なんて言ったっけ……」




 と商品名がわからない態を装っていると、焦れたナギコさんからヒントがでた。




「私の大好物のあれよ! 菱形で、こんがりきつね色に焼けたバターたっぷりの、あれ!」




 ショウさんは大急ぎで該当しそうな妻の大好物を、記憶の中から探し出す。




「え? まさかクロワッサン?」


「そう! 上手く描けたでしょ?」




 一段と目を輝かせたナギコさんが、はち切れんばかりの笑顔になる。


 


 だが。


 ショウさんの目には、その絵はどうしてもクロワッサンには見えなかった。どう捻っても、生地を巻いて中央を山形に盛り上げた形状が特徴的なクロワッサンには見えなかった。フレンチトーストと言われた方が納得できたかも知れないくらい、理解できなかった。




 でも妻は笑顔でご機嫌なのだから、ショウさんにとって、それは大した問題ではない。絵を理解できないのは自分に芸術的センスが無いから、だと思っている。




 その代わり「明日はクロワッサンもあんパンも2個ずつ買ってきてよ」とナギコさんに注文する。ふたりで味見をしようという魂胆なのであった。







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語源由来辞典・ウィキペディア、参照




ブーランジェリー、フランス語でパン屋のことです。フランス語の発音を日本語で表記するのは難しいのですが、ブーランジェリーとかブーランジュリーとか。


ただし本国フランスでは厳しい条件があって、「パン職人が冷凍処理など一切せず、店内で小麦から生地を作って焼いたパンを売るお店」だけが名乗れる名前なのだそうです。日本ではその辺は曖昧みたいですけど。


でもわざわざブーランジェリーと名乗るお店は、こだわりの強いお店みたい。




サブタイトル「golden brown bread」について、相談に乗ってくださったジャガイモ探偵様に感謝!


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