ひかりの影

 村上真穂さんは高校の同級生だ。1年生のときに同じクラスだったけど、話をした記憶はあまりない。

 ただ、1年生から3年生まで文系の学年トップの座を譲らないことで有名で、学年の全員が村上さんの名前を知っていた。僕が1年浪人してようやっとこの大学に合格したのに対して、村上さんは滑り止めの一つも受験せずに涼しい顔で現役合格したとか。


 その村上さんから、連絡が来た。ごはんのお誘いだった。僕は正直面食らって、でも断る理由はないし、友人は多い方がいいと思うから行くことにした。


 待ち合わせ場所で待っていた村上さんはおしゃれをして来てくれたんだと、すぐに分かった。袖口に小さなフリルが付いたワンピースも、ネックレスもイヤリングも、綺麗にカールしたまつ毛も、ベージュ系だけど華やかなリップも。

 そのとき僕はようやくこれがデートのお誘いだったんだと理解した。母がアパレル業界に勤めていると、こういうところに気が回ってしまってかえって困るものだな。


「髪、伸ばしてるんだね」


 少しはにかんで村上さんが言う。そこで僕は、自分との約束を思い出した。髪が伸びたら衣真くんに告白するんだ。それなのに別の人とデートなんて、まずいんじゃないかな!?

 衣真くんに目撃されてはいけない。僕は急いで店内に入り、衣真くんがいないかぐるりと見渡した。僕が焦っているのを村上さんは不思議そうに見ている。


「何を食べる? 何品か頼んで取り分ける?」


 村上さんがメニューをめくる。村上さんは小柄で、ダークブラウンに染めた髪を肩上のボブにして、小鳥のような声でハキハキと話す。


「そうだね、取り分けよう」


 僕は女の人をエスコートするのに緊張して、うまくしゃべれなかった。


 僕はゲイだって、知らないのかな。高校で男友達と付き合ってたけど。いつゲイだって言ったものかな……。


 授業はどう、とか、バイトはしてるの、とか、サークルは、とか、ありきたりなことを話す。村上さんは口数の多い人ではないけれど、そのペースが心地いいと思った。

 聡明で、尊敬できる人で、空気感がちょうどいい。僕が村上さんを好きになる要素はあるな、と冷めた頭で考える。


 僕はゲイだけど、たまたま今までの恋が男性だっただけで、女性を好きになることもありえるのかな。まだ10代なのだし、そのへんの感覚はふわふわしている。


 まだ好きじゃないけど、恋愛対象外だけど、好きになれるかもしれない。


 衣真くんも、そういう考えで僕のお誘いに付き合ってくれてるんだとしたら……?

 衣真くんのことを考えるとやっぱりどきどきして、また店内を見回す。僕は衣真くんが好きなんだよ、村上さん。


「伊藤くん?」

「あ、ごめんね、緊張しちゃって」


 ふふ、と村上さんが笑う。こういう風に笑うんだな、と思った。でも心は閉じた貝のように静かなままだ。

 衣真くんもこんな冷めた心地で僕と会ってるんだったら……悲しいな。


早暉さきくん、と呼んでもいい?」


 うつむいて言われて、どきりとした。


「あ、もちろんいいよ」

「嬉しい。同じクラスのときから呼んでみたかったの。綺麗な名前だから」


 高校1年のときから僕が気になってたって話!? 僕はこの人を邪険にしてはいけないのかもしれない、と身体が固くなる。


「ありがとう……。じゃあ、真穂さんと呼ぼうかな」

「ありがとう」


 小さくはにかむ村上さんに、僕は何か言わなきゃいけない。


 ——早暉くん!


 頭の中で衣真くんの声が響いた。それは僕の想像だった。衣真くんには「伊藤くん」としか呼ばれたことがない。僕の、願望だった。


 それから村上さんはときどき雑談メッセージを送ってくるようになった。彼女の視点はおもしろくて、例えば小さな花が咲いていたとか、珍しい鳥を見たとか、そんな内容で、そういうのって素敵だと思う。


 僕はこのまま村上さんと友達になりたかった。僕がゲイだと言ってしまえば村上さんは友達になってくれるだろうか? 村上さんの興味はあくまで僕との恋愛に向いていて、付き合えないなら離れていってしまうだろうか?

 僕は村上さんのメッセージが届かなくなることを想像して、彼女との関係が惜しくなってしまった。


 村上さんに展覧会に誘われたのは、僕たちがすっかりじめじめした梅雨に慣れた頃だった。僕は迷って、ゲイだと伝える言い方を3通りひねり出して、誘いに乗ることにした。

 ところが働き始めたばかりの古書店のバイトが忙しくて、2人の都合が合うのは2週間後の水曜日の午後だけだった。


 水曜日の午後。衣真くんとの勉強会と重なってしまう。でも勉強会は毎週やるのだし、1回くらいお休みにしてもらおう。衣真くんに「お休みにしたい」と連絡したとき、胸がちくりと痛んだ。


 別に、村上さんと恋仲になろうというわけじゃないんだけどな。衣真くんが、好きなんだけど。


 僕のクラスに岡部という男子がいる。衣真くんと同じ高校の出身だ。衣真くんの母校はこの大学に年間何十人と合格者を輩出するところだから、クラスに1人いたって何の不思議でもない。

 岡部は僕と同じ一浪組で、それもあってときどき話をする。からっとしていい奴だ。クラスでも目立つタイプで、まとめ役。


 彼が幹事になって、一浪男子組でコンパが開催された。

 参加者は僕も含めて5人で、お好み焼き屋の長テーブルに各々腰を下ろした。二十歳はたちになっているのは岡部だけで、レモンサワーをちびちび飲んでいる。僕たちはお好み焼きだけ頼む。

 盛り上げ役の岡部が酔って陽気になっているから、ほかのメンツは飲まなくても話が弾む。


 6月ともなるとクラス内にカップルが数組成立して、その噂話から始まって恋バナになる。ヤっただのヤらないだのと探り合う。僕は聞かれて、正直に「男と付き合っていた」と答えた。


「お、マジ? おれも高校のときカワイイ男の子と付き合ってたんだわ」


 岡部が軽い口調で反応した。

 カワイイ男の子、と言われるとすぐに衣真くんが思い浮かんでしまう。そこで岡部と衣真くんが同じ高校だと思い出した。もしかして、と聞こうとして口をつぐんで、どきどきする心臓を押さえつける。


「カワイイってなに? 女装男子?」

「いやいや〜。顔がいいとかじゃないんだけど、なんていうの? 小動物系? とか女子には言われてたけど。仕草と表情がカワイイ系」

「え〜、想像がつかんわ。写真ないの」

「写真じゃ伝わらないんだよな〜」


 それ、衣真くんだよね。って言葉が出てこない。いい奴だけどガサツな岡部と、僕の大好きな綺麗な衣真くんが結びつかなくて脳が焼き切れそうだ。じわり、と泣きたくなる。


「そんなカワイイならなんで別れたんだよ」

「確かに。キープしとけよ。まさか乗り換えたのかー?」


 黙って、うまく割れなかった割り箸を見つめている僕を置いて会話が進む。


「いや〜! 喧嘩すると大変なのよ! お父さんが哲学者で? まず『善とは何か』からお説教が始まるわけ」

「うわっ。重……」

「普段はカワイイんだけど。いつも正しい行いについて考えてるからこっちの言い訳の余地がないわけ。善と悪の基準がその子の中でぜーんぶ決まってんの。それは動かしようがないのよ」

「キツいな〜!」

「それ、衣真くんだよね」


 はっきり遮るつもりが、乾いた声しか出なかった。


「ん? 知り合い?」

「サークルが同じだから。あんまり悪口は聞きたくない」


 自分の言葉で宴席がしゅるしゅると盛り下がる。それでも、これ以上聞くのは無理だった。岡部と衣真くんのカップルを想像するのも限界だった。


「あー……。ごめん」

「いや、僕もごめん」


 何に対して謝っているのかよく分からないけど、謝った。


 帰り際、岡部に肩を叩かれた。


「なあ、衣真くんが好きなら、やめとけよ」


 僕は目を見開いて、ごくりと唾を飲んで、身体が機械仕掛けになったみたいにぎくしゃくとクラスメイトに着いて歩いた。


 岡部はなんでもないように僕の肩を叩いた。岡部はあんな風に衣真くんに触ったんだ。

 どこまで触れることを許されていたんだろう? してはいけない想像をして、目頭がじわっと熱くなる。

 羨ましい。岡部のくせに。


 家に帰って、いたたまれなくて枕を殴った。衣真くんのことをあんな風に言う岡部が許せなかった。

 でも、もっと強い感情が僕を支配していた。ねたましかった。僕も衣真くんに触れる権利が欲しかった。喧嘩をするほど親密になりたかった。僕も東京に生まれて、衣真くんと同じ高校に通って、そこでチャンスをもらいたかった。

 涙がこぼれた。僕の中で燃えている嫉妬心みたいに熱い涙だった。


 でも頭の一部では、岡部の言い分はもっともだと冷静に考えていた。

 「『善とは何か』からお説教が始まる」。嘘でも誇張でもないと思った。衣真くんが怒ったらそうするだろうとすんなり信じられた。


 衣真くんが好きなのか、わからない。好きでいられるのかがわからないよ。

 村上さんはきっと、そういう怒り方はしない。


 今週の水曜日は衣真くんに会える。僕は衣真くんへの感情がわからなくて、いつもはおしゃれをして行くのに、適当なTシャツとスウェットに黒縁眼鏡で勉強会に向かった。


「あれ、伊藤くん?」


 明るい声をかけられた。その瞬間、僕の心臓は嬉しさに弾みはじめる。呆れてくすくす笑ってしまう。僕は何にも抗えないくらいに衣真くんが好きだった。


「今日は眼鏡なんだね」

「あ、うん……朝急いでたから」

「いつかぼくの眼鏡も選んでもらいたいなあ。今持ってるのはおしゃれじゃない気がして、かけてないんだ」

「え……今度見に行こうよ。あ、そんなすぐにはいらない?」


 ほら、僕はどうしたって衣真くんとデートしたいんだから。


「すぐでもいいの? とても助かるよ。ありがとう」


 言いながらラウンジのテーブルに今日の資料を広げる。


「あとで日時を決めよう。ねえ、今週のレジュメもとてもよかった。伊藤くんは問題の核心を見極めるのがすごく得意じゃない?」


 機嫌よくプリントに視線を落とす衣真くんを見て、思った。

 岡部だからだめだったんだ。ぼくなら衣真くんの言葉を理解できる。きっと理解できるようになる。僕は衣真くんに近づけるように努力してるんだ。だから、大丈夫。

 僕なら一番に衣真くんを大事にできるよって、次のデートで言おう。


 村上さんにお断りの連絡をした。僕は男性が好きだと、直球で伝えた。それから村上さんからの連絡は来なくなって、僕は少し寂しかったけれど、衣真くんのことを考えるのに忙しかった。

 告白スポットの下調べをしなくちゃ。

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