駆け出して

 どうして、衣真いまくんはこんなに人のいる世界で、一番にぼくの目に飛び込んでくるんだろう。


 休日の下北沢駅の改札を出て、待ち合わせの人たちの奥をふっと見たらそこに、明るい笑顔の衣真くんがいた。衣真くんが身体の脇で小さく手を振るものだから、「かわいい」と口をついて言いそうになった。

 そこから一瞬遅れて思考が追いついてくる。今日は衣真くんが、衣真くんの好きな人と会うときの服を選ぶ手伝いをするんだって。

 バンドマンが好きなんだって。お相手のSNSも見たけど、チャラそうな人だった。誰かを大切にできるのか怪しい、そんな格好をして、そんなSNS投稿をして、そんな歌を歌う人。でも衣真くんはこの人が好きなんだ。


「伊藤くん。こんにちは。今日はありがとう」


 僕が手を振り返したら、ぱたぱたと駆け足でこちらへ来てくれる。衣真くんはデートの日にもこんな風に駆け寄って、「こんにちは。今日はありがとう」ってこんな笑顔で言うんだろうか。それとも、好きな人にしか見せない顔が、あるんだろうか。


「こんにちは。いやいや、衣真くんの服を選ぶなんて、楽しみだから」


 僕はなんにも気にしてないみたいな顔で、モヤモヤと心配な心を隠して、このセリフを言えているだろうか。


「伊藤くん、今日もとってもおしゃれでかっこいい。上級者って感じ」


 衣真くんは一歩引いて僕の全身を眺めて、それから輝く笑顔で褒めてくれる。


「そうかな……まだまだ上級者じゃないかもだけど……」

「そうなの!? でもすっごく似合ってるよ」


 素直な反応がかわいい。僕はもう、衣真くんを「かわいい」と思うことを自分に許可せざるを得なかった。

 今日の僕は、あえて衣真くんのデート相手みたいなコーディネートにしてみた。ユーズドのブラウンカーキのバンドTに、スキニーデニムに厚底のショートブーツを履いて。いかにもバンドマンって感じだ。


「似合ってると思う?」

「うん! 伊藤くんは雰囲気がクールだから似合ってるよ」


 雰囲気がクールな人が好きなの、衣真くん。こういう格好が似合う人が好きだから、あのバンドマンが好きなのかなあ。

 そんなの全然似合ってないよ。衣真くんは今日もレモンイエローのポロシャツにセンタープレスのスラックスで、綺麗に手入れされた白のスニーカーで、すごく、初夏の空に弾ける炭酸みたいに清潔だ。

 そのまんまデートに行けばいいのに。それで「おれのファッションには釣り合わない」って言われてデートなんてなかったことになっちゃえばいいのに。


 僕はそのバンドマンのことを知らないけど、衣真くんが彼を大切にする分の「大切」を衣真くんに返せる人じゃないと思う。衣真くんを傷つけるような、散らかった言葉でしゃべる人だと思う。

 それなのに僕は、「衣真くんがバンドマンに気に入られるための服」を見繕う役目を果たさなきゃいけないんだから、物事というのはうまくいかないものだなあ、と少し悲しくなる。


 量販店に行くよ、と言うと衣真くんは目を丸くした。


「古着じゃないの?」


 日本一の古着の街・下北沢に集合させられたからには、当然の疑問だと僕も思う。


「トップスはまず新品を見てみたいかな〜。衣真くんはきちんとした印象だから、上だけでもぱりっとしたのを着ておいた方がいいかも」

「ほほう〜! 理屈があるんだね」

「ファッションにも理屈があるんです」


 わざとむつかしい顔で言うと、衣真くんはケラケラ笑った。そういうあけっぴろげな笑い方を見るのは初めてじゃないけど、僕と二人きりのときにも見せてくれるのがなんだか嬉しかった。


「伊藤くんはおしゃれさんですごいねえ。どうしてそんなにおしゃれなの?」

「あー、母の仕事がアパレル系で」

「そうなんだ! その影響で好きになったんだ」

「そうなんだよね」

「素敵だなあ〜」


 雑談を交わしながら量販店のメンズフロアに到着し、まず目をつけておいた商品を見に行く。


「これとかどうかな?」


 リネン混の、襟なしのバンドカラーシャツだ。シャリっとした素材で、織り目が風合いを感じさせる。数色から、まずはアイボリーを手に取った。


「へえ〜! こういうデザインを着てみようと思ったことがなかった!」

「どうかな〜……」


 衣真くんにハンガーを渡して、肩に当ててもらって二人で鏡を覗く。


「このシャツを選んだ理屈は?」


 理屈から知りたがるところに、ふふっと笑ってしまった。聡明な理論派の衣真くん。やっぱりバンドマンじゃないんじゃない?


「衣真くんは今日みたいなきちんとした服が似合うから、それをお相手に合わせて少しカジュアルにしたいんだよね……。襟なしにして、素材もシャリっとさせたらいい塩梅かなと思ったけど……」

「ちょっと違ったんだ」

「うーん……衣真くんは気に入った?」

「ぼくは気に入ったな。こういう素材の服を持ってないから。デート用じゃない服として買おうかな」

「それはありだね。こういうの涼しいし」


 それなら、と別の色も試してみる。衣真くんは薄くて淡い色が似合うから、結局最初のアイボリーが一番似合うということになって、一旦その服からは離れた。


「難しいな……」


 僕は手を顎に当てて店内を歩き回る。こんなに真剣に、衣真くんにお似合い「じゃない」人とのデート服を探している自分に呆れてしまう。


「さっきのは何が違ったの?」


 ほら、衣真くんはいつだって理屈が知りたいんだ。あのバンドマンは、衣真くんの尽きない好奇心に応えられるの?


「素材と襟の形と、あとぶかっとしたシルエットの3点が全部カジュアルだから、カジュアルすぎたんだよね。もうちょっときちんと感のある方が似合うんだよ……」

「『きちんと感』!」


 衣真くんは目を輝かせて、今にもメモを取り始めそうなくらい真剣に僕の説明を聞いてくれる。かわいい。

 それにしても、さっきのシャツが本命だったから難しい。フリマアプリで未使用のブランドものTシャツを買う方がきちんとして見えるかな? でもTシャツなんて一瞬で脱がせられちゃうじゃん! ダメです! ダメ! ボタンがたくさんついたシャツじゃないと……。

 あれ……今、僕、バンドマン視点とはいえ衣真くんの服を脱がせる想像をしてしまった……!?


「……? 伊藤くん?」

「アッ、いや、ナンデモナイデス……」

「『きちんと感』とはなんですか? 先生」


 肩のあたりで軽く挙手して質問された。かわいい。バンドマンが「かわいいな」って思う気持ちはすごくわかってしまった。


「基本的に、スーツに近い方がきちんとしてるってことになってるんだよ。襟があって、ぶかぶかしてなくて、ハリのあるワイシャツみたいな素材で……」

「なるほど! あれはどうですか」


 衣真くんが指差した半袖シャツは確かにいい感じだった。レギュラーカラーだけど少し襟が大きめで、素材はワイシャツのようにハリがあって、五分丈の袖はワイドだけど身ごろは比較的ストンとしたシルエット。


「いいねえ〜!」

「いいですか、先生」

「いいですよ! 衣真くんは気に入りそう?」

「袖がいつもと違ってなんかおしゃれな感じでかっこいいと思う!」

「試着してみよ。何色がいい?」


 キャッキャッと色を選んで、ライトグレーのSとMを試着して、Sの方がシルエットがきちんとしていたからそちらを勧めた。衣真くんは嬉しそうにレジから出てきて、「ありがとう」と言ってくれた。


 衣真くんには馴染みのないショッピングというアクティビティを楽しんでくれて、本当に嬉しい。好奇心も強くて、色々なことにオープンな心を持って飛び込んでいける人なんだな、と思った。心が深くて、広い人。

 だからこそ、バンドマンとのデートにも飛び込んでいってしまうんだ。衣真くんの心の鏡にしか映らないきらめきがそのバンドマンにはあって、衣真くんはそのきらめきを信じてまっすぐな心で進んでいくんだ。


 ……僕はそのバンドマンが羨ましくなった。僕も衣真くんに自分の中のきらめきを見つけてほしい、認めてほしいと思った。


「伊藤くん? ここからは?」

「……ちょっと待ってね」


 話しかけられてハッとして、うーんと迷った。シャリっとしたシャツが本命だったから、それを前提にほかのアイテムも考えていたのだ。ライトグレーのシャツはすごく似合っているけど、どんなコーデを組もうかな……。


 古着屋をうろうろ回った。衣真くんは「ファッションの理屈」が気になるようで、店頭のマネキンがなぜおしゃれなのかを聞きたがった。僕はそれがとても楽しかった。普段は感覚で選んでいるものを言葉にするのは、なかなかに頭を使う、楽しいゲームみたいだったから。

 そして衣真くんにぴったりのパンツに巡り合った。てろんとした素材だけどセンタープレスが入っていて、しかも裾に向かってすぼまるテーパードのデザイン。濃いグレーで、さっきのライトグレーのシャツともよく色が合う。

 僕がこのパンツを買うべき「理屈」を説明すると、衣真くんはふんふんと嬉しそうに頷いてそれをレジに持っていった。


 昼過ぎに集合したのに夕方になってしまって、衣真くんがお礼に夕ごはんを奢ってくれた。衣真くんいわく「東京で三番目においしい」というラーメン屋の列に並ぶ。

 こういうところで、衣真くんも東京育ちの都会っ子なんだなと思い出す。「勝てっこない」なんて思ったことを思い出す。でも、僕が衣真くんに教えてもらうことばっかりじゃなくて、ファッションのことなら僕も衣真くんの役に立てる。


「今日は本当にありがとう。伊藤くんは本当におしゃれでかっこいいねえ」


 もう一度僕の全身を眺め回す衣真くん。その「かっこいい」という言葉に、感心した笑顔に、胸がちくりと刺されたように痛くなった。

 この痛みはなんだろう、と僕が考えている間にも、衣真くんは言葉を続けた。


「ファッションに理屈があるなんて知らなかった。特別にすごくセンスのある人だけが、素敵なコーディネートを選び出せるんだと思ってた」

「ああ、そうじゃないんだよね」


 僕は上の空の返事をした。


「伊藤くんだけだよ、あんなに理屈を教えてくれるのは。ぼく、すごくたくさん質問したもの。途中で嫌にならなかった?」

「いや、考えて説明するのは楽しかったよ」

「よかった! それはすごいことだよ!」


 ああ、衣真くんは僕の中にもきらめきを見つけてくれた。僕も少しは、衣真くんの「特別な存在」になれたんだろうか。

 でも衣真くんの心の鏡の真ん中に映っているのはあのバンドマンなんだ。僕のきらめきじゃだめなんだ。


 ああ。恋をすると同時に失恋をした。

 だからこんなに、ちくちくと胸が痛いんだ。


 数日後、シャワーを浴びてからスマホを見たら、衣真くんからメッセージが届いていた。


『フラれちゃった〜』

『でも服はおしゃれだねって言ってもらったよ』

『伊藤くんのおかげ。ありがとう』


 一瞬喜んでしまった自分が浅ましくて嫌になる。衣真くんは今どんな顔をしているんだろう。

 いつも明るい衣真くんの顔が悲しみに沈むくらいなら、軽薄なバンドマンだって誰だってお付き合いできたらよかったのに、なんて、てんで今までと矛盾したことを思う。


 僕は衣真くんが好きだ。


 そう思ったのが、スタートの号砲だった。

 心の中で恋心がわあわあ叫び出して、衣真くんの悲しみなんて無視して衣真くんに近づきたがる。心臓が速く打って、好きだ、好きだ、と僕をせっつく。


 衣真くんの心の鏡は、今は曇ってしまったのだろうか。それとも万華鏡みたいに、いろんな人のきらめきが映っているのだろうか。その中に僕も映っている、というのは、あながち思い上がりではないぞ、と恋心は勝手に僕の耳元で囁く。その囁きを、スライダーを滑り降りるように思い切って信じてしまいたくなる。

 誰でも深い心で受け止める、「みんなの衣真くん」。そんな素敵なひとの「特別」になるにはどうしたらいいんだろう。思考が急に駆け出して、先も見えないのに突っ走ろうとする。


 いきなり告白してはいけないと思う。高校の頃、仲のいい男友達から急に告白されて、特に異存がないという理由だけで付き合ったけれど、僕の中に彼が好きだという気持ちが育っていかなくて別れてしまった。このときと同じで、衣真くんの中にはまだ僕への想いは育っていないと思うんだ。


 衣真くんにフラれるシーンがフラッシュのように脳裏に浮かんで、息がつかえた。


『とても残念だったね』

『東京で一番おいしいラーメンを食べに行って元気出そうよ。今度は僕が奢るから』


 震える指で返信をした。こういう一歩で、いいんだろうか……?

 本当は、ホップステップジャンプで衣真くんに近づいて、今すぐ抱きしめたいのに。僕の心はもう駆け出して、心臓はばくばく打って、衣真くんが受け止めてくれるのを待っているのに。

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