こころの深いひと

 百均のアクセサリーコーナーにどぎまぎしながら、できるだけ地味なヘアピンを買った。4月から伸ばしている前髪が、いい加減うざったくてたまらない。

 美容師のお兄さんには「髪を耳にかけないでよ。癖がつくから」と口を酸っぱくして言われている。


「ヘアピンで留めたらいいよ。最近は『ヘアピン男子』とか言うでしょ」


 快活な若い美容師さんは、あっさり難易度の高いことを言う。「ヘアピン男子」なんて聞いたこともなかったけれど、曖昧にうなずいておいた。


 そして僕はうっかりしたことに、どこでヘアピンを買えるのかを聞き忘れた。ショッピングビルのキラキラしたアクセサリーコーナーが頭に浮かんで尻込みする。キラキラしていなくてもいいのだ。黒で、目立たなくて、しっかり留まればそれでいい。誰か女の人に聞こう。

 まず頭に浮かんだのは姉と母だけど、僕の家族はあまり仲がよくない。いや、仲がいい/悪いに分類されるような感じじゃなくて、疎遠なのだ。家族一人ひとりとの距離が、すごく遠い。ヘアピンの話だけで連絡するにはちょっと難しい関係だ。

 僕の学部には女子学生があまり多くなくて、仲のいい女性の友人はいない。うーん、と考え込んで数日が経った。


 書評の会の集まりで、僕は同期の関根さんのヘアピンに気づいた。関根さんは黒髪を一本の三つ編みにまとめて肩に流している。その耳の上あたりに、大きなパールのヘアピンを留めていた。

 まだ開始時刻までには時間がある。関根さんとすごく親しいわけではないけど、聞くなら今だと思った。


「関根さん、そのヘアピンきれいですね」

「……ん? ありがとうございます」


 関根さんの微妙な沈黙で、気づいた。周囲の人たちには、僕が関根さんに気があるように見えている……!

 顔がぼっと熱くなる。そんな、衣真くんもいるっていうのに……。


「あ、いや、僕もヘアピン欲しいんですけど、そんなおしゃれなのじゃなくて、黒で、しっかり留まればなんでもよくて、髪が、伸ばしてるんですけど、邪魔で」

「……ああ、なるほど」


 僕は焦って文になってない切れ切れのセリフを並べて、関根さんはいつものクールな顔を崩さずに「なるほど」とだけ言った。


「だから、どこで買えばいいんでしょうか? すみません、聞ける人がいなくて……」

「ああ、百均でいいんじゃないですか? ねえ、濱田はまださん」


 関根さんは、四年生の黒髪ボブの先輩に話を振った。新歓のとき、僕にサークルの説明をしてくれた人だ。


「そうね。百均の方がむしろシンプルなものが見つかると思いますよ」

「なるほど。ありがとうございます」


 衣真くんは真面目な顔で、僕たち3人の会話をふんふんと聞いている。さっき衣真くんのことが一瞬頭をよぎった気がしたけど、なんだったか思い出せなくて考えるのをやめにした。大したことじゃなかったんだろう。

 というわけで話は冒頭に戻り、僕は細いピンの詰め合わせ(パッケージには「アメピン」と書いてある)と、大きめのぱっちんピンを手に入れた。


 「ヘアピン男子」なんてウソじゃないか。検索しても出てくるのはイラストとコスプレばかり。あの美容師さん、テキトーな性格だな。でもあまりに髪が邪魔なものだから、なんとか髪がまとまって見えるようにピンを留めた。

 今日は衣真くんとの読書会が控えている。トイレで手を洗ってから、なんとなく鏡の前で髪を整えた。ゆるんでしまったピンを直して、ポロシャツの衿の角度も直す。最近古着屋で買ったお気に入りを着てきたのだ。


 ——だって衣真くんに会えるから。


 何が「だって」なのか、自分でも説明できない。さわさわと波立つ心の理由を知りたくない。何かを予感しているけれど、これ以上その予感を見つめたくない。

 そうして僕は、波打ち際に立って、心のざわめきが波となり裸足の足を濡らすのに気づかないフリをしている。


「伊藤くーん!」


 ラウンジに席を取った衣真くんが僕を呼ぶ。そのときひときわ大きな波が立ち、僕のくるぶしまでを濡らした。そんな感じがした。

 僕は衣真くんを「衣真くん」と呼ぶ。衣真くんは僕を「早暉さきくん」とは呼ばない。それってすごく、なんだか……なんなんだろう。

 もやもやとした心を隠すように口角を上げて、衣真くんの取ってくれた席へ。


「ヘアピンデビューしたんだね! おしゃれだねえ」

「え、そうかな……でもありがとう」


 正直あまりおしゃれとは思っていないのだけど、衣真くんに「おしゃれだ」と言われたことで僕の心の波はさざめいて、心がくすぐったい。


「伊藤くんはいつもおしゃれだからすごいよ」


 なんだか照れてしまって、口を結んで横を向く。「いつも」だなんて。衣真くんは思ったより僕のことを見てくれているのかもしれない。いつも僕を見て、おしゃれだと思ってくれてるのかな。


「髪を伸ばすなんて、すっごくおしゃれ。ぼくはそんなこと思いつきもしない」


 衣真くんが心底感心した口ぶりで褒めてくれる。僕は本当に恥ずかしくてくすぐったくて、まともにお礼も言えなくなる。

 衣真くん、そんなに僕を見てるんだ。もしかして衣真くんって僕のこと……。


「関根さんもおしゃれだよねえ。高一から髪を伸ばしてるんだって。あんな長い髪、大変だろうけど綺麗だよね」

「え、あ、うん」


 膨らんだ期待は、パチンと弾けて消えた。


「内山さんのパーマもおしゃれだよねえ。ぼくなんか全然似合いそうにない」


 内山さんは、サークルの先輩だ。衣真くんは彼のことも褒める。


「えっと……似合わないこともないと思うけど……衣真くんは、ほかの人のことをよく見てるね」


 衣真くんが「いつも」見てるのは僕だけじゃなかった。恥ずかしい。プライドが腐ったジャムみたいな恥ずかしさじゃない。耳の先がちりちりと熱くなるような、どうにもいたたまれない恥ずかしさ。


「よく見てるのかなあ。好きな人たちのことにはよく気づいてしまうだけじゃないかな」

「好きな人たち……」


 衣真くんが言う「好き」の単語はきっと呪文だったから、世界は一瞬金色きんのヴェールをかけられ、祝福された。そのヴェールが大いなる手に取り去られても、僕の目にはその一瞬の輝きが焼き付いて消えない。

 それなのに、衣真くんの「好き」は僕の胸のなかでもぞもぞと居心地悪そうに落ち着かない。ズレているんだ、何かが。


「うん。伊藤くんも好きだし、関根さんも内山さんも好き。ぼくの周りには素敵な人が多いからしあわせだよ」


 そう、衣真くんの「好き」は、世界をやわらかな眼差しで包み込む、博愛の「好き」だ。

 僕にも、関根さんにも内山さんにもダメダメなところがあって、お互いそれを分かっていて、好きだったり嫌いだったりする。でも衣真くんは何かもっと深い心を……そう、海のような心を持っていて、その海はダメダメな僕たちをあたたかく飲み込んでしまえる。

 そうして衣真くんは「好き」で「しあわせ」と言う。春の陽射しに温められた日向ぼっこの猫みたいに、笑う。


 なのにどうして、僕はまっすぐに衣真くんを見られないんだろう。目の前の人の幸福な笑顔に、ガジガジとノイズが入るのはなぜなんだろう。


「衣真くんが素敵だから、いい人が集まるんだよ」


 空々しいセリフを、空々しくないみたいに言った。本当は、ダメダメな僕らを包み込む深い心の衣真くんがすごいのに。

 僕がダメダメだって、気づいてほしくなかったから。僕がダメすぎて、衣真くんのあたたかい海から放り出されたくなかったから。僕は本当に、俗っぽい人間です。


「ぼくはそんなに素敵かなあ。よく生きたいと思ってるけど、できてるかは分からない」


 「よく生きたい」。ああ、この人は、こんなに高潔な人間だったのか。


「よく生きる、って思えてる時点ですごいよ」

「……でも実践は難しい。『正しい』と『よい』は違ったりする」


 衣真くんの言葉は難しい。哲学の読書会を続ければ、僕はこの人の言葉を漏らさず理解できるようになるのだろうか?


「好きな人がたくさんいるのは、『よい』生き方なの?」

「……? いいえ。それは……意識してそうなってるわけじゃない……ぼくの性格だろうね」


 衣真くんは目線を逸らして、考え込みながらゆっくり言葉を紡いだ。そんな話し方が、衣真くんの瞳の奥にきらめく知性をあらわにする。そのセリフが、衣真くんの深い深い心を証明する。

 僕はすっかり打ちのめされて、なぜか涙がにじんできた。悟られないように目を逸らす。


 衣真くんは、綺麗だ。くりっとした黒目がちな瞳はかわいらしいように見えて、そのまつ毛の先にはちかちかと、この人の心の美しさが瞬いている。


「衣真くんのこと、もっと知りたいな」

「ほんと!? ぼくも伊藤くんともっと仲よくなりたいな」


 嬉しそうに身を乗り出して言ってくれるけど、誰にだって同じセリフを言うんでしょう。

 誰にとってもちかちかと綺麗な、誰に対してもあたたかく深い海の心で包み込む、みんなの衣真くん。


「衣真くんも? 嬉しい」


 ウソじゃないけどホントでもない返事をするとき、喉の奥がチクっと痛んだ。


「ね、おしゃれな伊藤くんに、お願いをしても構わない?」


 衣真くんは僕をうかがう目つきで見た。衣真くんのお願いなんて、なんでも聞いてあげるのに。

 僕は改めて衣真くんの顔立ちを見た。目はどちらかと言うと小ぶりでくりっとしている。鼻は丸っこく、ちょんと顔についている。小さめな口から覗く前歯は、少し高さがずれている。

 そして、目の奥に知性を宿し、深い深い心を持ち、まつ毛の先にちかちかが光る。

 衣真くんは、綺麗だなあ。


「……伊藤くん?」


 考え込んでしまって、心配そうな衣真くんに顔を覗き込まれる。


「あ、ごめん! お願いならなんでも言って」

「ほんと! あのね、服を選んでほしい」

「もちろん!」


 僕ははしゃいで答えた。僕はファッションがどうしようもなく好きだ。母がアパレル業界に勤めていて、幼い頃からあれやこれやと着せ替えられてきたものだから。人に服を見立てるなんて、楽しくて仕方ないのだ。

 綺麗な衣真くんなら、なおさらに。


「衣真くんはいつもどこで服を買うの? 一緒に買いに行こうよ」


 そう言いながら、今度は衣真くんの全身を眺める。今日はポロシャツに濃いインディゴのストレートデニム。クラシックなスニーカーを履いている。

 いつも衣真くんはこんな感じだ。襟付きのトップスに、ストレートなデニムかスラックス。足元は革のスニーカー。クラシックなスタイルが好きなように見えて、どことなく着こなしが甘いのが気になっていた。


「いつもはね……あのね、大学生にもなって恥ずかしいんだけど、高校時代に両親に買ってもらった服を着てるの」


 衣真くんは照れ笑いして肩をすくめた。納得感のある説明だった。


「別に恥ずかしくないよ。一年生の5月だし。だいたいは高校で買ってもらった服でなんとかしてるんでしょ。僕もそういう服の方が多いよ」

「そうなんだ……でも、ぼくの格好、変じゃないかな」


 微妙な表情をする衣真くんは、自分の魅力は外見じゃなくて中身だってことに気づいてないのかなあ。


「変じゃないよ! おしゃれなご両親だね」


 着こなしはイマイチだが、アイテム一つひとつはいいものだ。ポロシャツとスニーカーは一目でブランドものだと分かる。

 衣真くんのご両親は二人とも大学教授。大学教授の年収って、イメージがつかないけど……。とにかく、育ちがおぼっちゃんなおかげで、大学デビューをそこそこクリアする人もいるんだなあ。僕は若干失礼なことを思った。


「よかった〜。でも一人で服を買ってみたい! でもほんとの一人は無理だから着いてきてー!」


 手を合わせて頼みこまなくても、僕は衣真くんのショッピングに付き合うってことにワクワクが止まらないのに。


「もちろん! 週末は?」

「土曜日いけます!」


 思わず頬が緩む。このかっこよくてかわいらしくて綺麗な人に、どんな服を着てもらおうかな……。


「どんな場所に着ていく服が欲しいの?」


 それくらいは事前に把握しておきたい。衣真くんのおしゃれデビューのために、万全の下準備で臨むつもりだ。


「えっとね……」


 衣真くんはちょっとはにかんで目を逸らした。伏せた目のまつ毛は細かく繊細で、軽く結んだ唇がかわいい。

 僕はいつのまにか、衣真くんを「かわいい」と思うことに抵抗がなくなっていた。


「普段着でもいいよ?」

「ううん。……デートに着ていく服、が欲しいの」


 音も立てずに、僕の足を温めていたさざ波が引いていった。


「デート、ああ、素敵だね、そっか、衣真くんは素敵だもんね、どんなお相手なの?」


 切れ切れに言葉をひねり出して、自分が何を質問したのかもよく分からなかった。


「バンドマンなの。バンドのボーカル」

「エッ!? 軽音楽サークルの人ってこと?」

「ううん。ぼくが高校の頃からライブハウスに通ってるバンドの、ギターボーカルの人。物販で話すうちに仲よくなって、大学生になったお祝いに遊びに行こうって言ってくれたの」


 衣真くんは照れて仕方ないって顔で、口角が上がるのを抑えきれない様子で話す。


「だからね、デートかはわからないんだけど。『かわいいね』って言ってくれるからそうなんじゃないかなって。だからおしゃれをして、かわいいって思ってほしい」

「そっか……。ちなみに『付き合ってはいけない3B』って知ってる?」


 僕は衣真くんが奔放な恋愛に突っ込んでいこうとしているのにショックを受けて、できるだけやんわりと、せめてなんらかのアドバイスはしておきたかった。


「バンドマン、美容師、バーテンダーでしょ。でも、そういう常套句クリシェにとらわれるのは『よい生き方』だと思わない。相手の心だけを見なくちゃ」


 衣真くんの高潔さは、同時に危うさでもあると僕は悟った。


「そっか……でも気をつけてね」


 僕に言えることはこれしか残っていなかった。

 衣真くんはキスしたことあるんだろうか。それ以上のことは……? 衣真くんの「初めて」が軽薄に奪われて、悲しい思い出になってしまったらどうしよう!?


「うん。こまめに父に連絡する約束だから。心配してくれてありがとう」

「エッ!? お父さんにバンドマンとデートする話したの!?」

「うん」

「それでお父さんはOKなの!?」

「うちは基本的に不干渉だけど、今回はさすがに心配された。だから連絡する」

「そっか……。でも、ご両親と仲よくてよかった」


 少しだけ実家と比較してしまって、ちくりと胸が痛んだ。


「うん。僕は両親も好き。尊敬してるんだ」


 ちくり。ああ、衣真くんは、綺麗でまぶしくて、ちょっと目が痛いな。


「そっか。えっと、でも衣真くんの普段着が『かわいい』って言ってくれる人なら、そのままでいいんじゃない?」

「そういうものかな。デート服って、いつもと違う側面を見せてドキッとさせるものじゃないの?」


 デート服のなんたるかを語る衣真くんは、たぶん高校時代も恋人がいたんだろう。みんなこの人の綺麗さにあてられちゃうんだ。


 ショッピングの打ち合わせに時間を取られて、読書会は大して進まなかった。来週の約束をして、ラウンジを出て別れる。

 またゆるんできたピンを雑に差し直したら頭皮にぐさっと食い込んだ。顔をしかめる。僕をくすぐったい気持ちにさせたあのさざ波は消えてしまった。

 さざめく波なんてなかったみたいに、僕は乾いた砂地に立っていた。指の間の砂利をわざと味わうように指を動かす。そんなイメージが浮かんだ。


 なんなんだろう。

 どうしてこんなに、心がざりざりと軋むんだろう。

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