まぶしい

 ゴールデンウィークに合宿がある、なんて聞くと華やかなサークルの華やかな団体旅行を想像するかもしれない。実際は、学校の部活棟の一室に缶詰になるだけ。畳敷きの部屋で各自気ままに過ごす、いかにもうちのサークルらしいイベントだ。

 名称は「積読消化合宿」。名前の通り本を読む人もいれば、書評を書く人もいれば、課題のレポートに必死な人もいる。自由な空間。


 そんなゆるい雰囲気の中、僕は若干体調が悪かった。

 今日は細い雨の降る低気圧。持病の頭痛が顔を出す。部室棟にはぬるい冷房がかかっている。うっすらと肌寒く、でも羽織るものは持っていない。

 頭痛はいつものことだから心配はかけたくない。先輩たちには何も言わず、本を読んでいるフリをする。実際は一文字も頭に入ってこない。


「おやつ買ってきましたー!」


 衣真いまくんの楽しげな声も、頭にズキズキ響く。お茶とジュースとチョコとポテチを「飲み物・おやつコーナー」に並べる姿をぼんやりと見る。

 衣真くんはマメだなあ。ちまちまとお菓子を並べ直す様子は、巣穴を整えるリスみたいだ。そう思っていると、衣真くんは振り返って僕を見た。

 ぱちっと視線が合う。見ていたのがバレたことより、体調の悪い表情を見られたことに動揺する。

 衣真くんは小首をかしげた。それからすすすと寄ってきて、僕の前に正座で座った。


「体調悪い?」


 僕の顔を覗き込んで、声をひそめて訊く。


「あ……うん」

「何か欲しいかなと思って。これ、冷えてるお水。常温のお水もあった。スポドリは冷えてるのしかなかった。低血糖ならチョコ、あるよ」

「え」


 僕は目を丸くして衣真くんの顔を見つめた。


「買ってきてくれたの、わざわざ」

「うん」


 衣真くんは「当たり前だ」という表情で、ふわりと微笑んだ。衣真くんの周りだけ、陽だまりみたいに優しく温かい。僕はほんのちょっとだけ泣きそうになった。


「ありがとう……。常温のお水、もらおうかな」

「うん。ほかのも置いとくね。ほかに欲しいものがあったら、言って」

「うん。あの、ほんとにありがとう……」


 頭がどんよりと重くて、うまくお礼の言葉が出てこない。僕の心には、もっと伝えたい気持ちがたくさんあるのに。

 衣真くんだけが、雨の中、購買まで行ってくれた。衣真くんだけが気づいて、行動に移してくれた。なんでもないことみたいに。


「あのお菓子とかって、カモフラージュ……」


 僕に気を遣って、あくまで全員分の買い出しってことにしてくれた……?


「うん。でもせっかく購買に行ったから。どうせみんな食べるでしょ」


 衣真くんはあっけらかんと目を細めるけど、それってすごく大変なことだ。

 飲み物だけで5キロのレジ袋を、傘を差しながら運んできてくれた。僕のために。


「大丈夫だよ」


 にこっと笑って、衣真くんは僕に小さくうなずいた。それから大変なことは何もなかったみたいにお菓子コーナーを物色し始めた。

 衣真くん、すっごく優しいなあ。普通だったら、面倒でやらないことだ。僕だって、ここまでの親切はしない。できない。自分のちっぽけな心が恥ずかしくなる。

 衣真くんは人に親切にするのが当たり前なんだ。すごいなあ……。


 もらったお水で頭痛薬を飲む。思考がぼんやりして、薬を飲むことも頭から抜け落ちていたのだ。

 冷えた身体に、常温のお水の優しさがしみ込んでいく。スポーツドリンクも口に含む。こちらは冷たい。でもちょうどいい甘さがこわばった身体をほどいてくれる。

 お水とスポーツドリンクを交互に飲む。心が温かく満たされていく。衣真くんの優しさも一緒に、身体の中に溶け込んでいくような気がした。

 衣真くんは、すごい。僕はこの人に敵わなくていいんだ。素直にそう思えた。


 衣真くんとの読書会が始まった。毎週水曜日の4限は二人とも授業が入っていない。その時間にラウンジに集合することにした。

 その前に、哲学の入門書を衣真くんが選んでくれた。そしてお茶目な上目遣いで「宿題がありますよ」と言うんだけど、そんな仕草も衣真くんによく似合う。なんて思ったんだから、僕はそのときから衣真くんの魅力に絡め取られていたんだろうなあ。


 衣真くんの「宿題」というのは、第一章を読んで分からない部分をリストにすることだった。僕は張り切って、1ページ目の最初の文を目で追う。

 ……どういうことだろう、分からない。普段から使う語彙が、この本ではどういう意味で使われているのかさっぱり分からない。僕はたった1文から3つもの単語を抜き出してリストに加え、へこたれそうな気持ちでため息をついた。ここから第一章を読み切るまでに、どれだけの分からない単語があるのだろう。

 単語だけではない。2文目を読もうとして僕はほとほと嫌になった。文が長くて構造が複雑で、日本語のはずなのに意味が頭に入ってこない。入試の現代文を読み解くように、補助線を引きながらちびちび読み進める。


 ああ、衣真くんはこんな難解なものを難なく読めるんだ。僕とは別次元の存在なんだ。そんな彼にライバル意識を持っていた自分が恥ずかしくてたまらなくて、「あ〜〜」と意味のない声を上げて顔を手で覆う。

 恥ずかしい。


 1時間かけて2ページしか進まなかった。僕の頭が悪いんだろうか? 衣真くんの宿題は「第一章まで」。哲学にこれから入門するような人でも、簡単に第一章のリストアップを終えられると思ったから、衣真くんはそういう宿題にしたんじゃないか?

 有名大学に入ってから、やっぱり周囲のレベルは変わった。衣真くんだけじゃなく「敵わない」と思う人に何人も出会った。それだから、入学して1ヶ月、僕の自信はふにゃふにゃに萎えてしまって、怠惰な気持ちが「どうせ敵わない」を言い訳にぶくぶく太る。どうせ僕なんて……。

 意識が逸れてしまった。入門書をにらんでも、すっかり集中が切れてしまって視線がツルツルと滑るばかり。

 読書会の前々日の夜までに、衣真くんに分からない部分のリストを送ることになっている。つまり明後日の夜までに第一章を読み終えなければならない。でも1時間に2ページじゃ到底無理だ。無茶を承知で、大学の講義の課題を犠牲にしてやり遂げるプランを考えてみて、やっぱり無理だと匙を投げた。


 読めたところまでのリストで許してもらおう。そう決めたけれど、本当は衣真くんの前ではいい格好をしていたいから、心がじゅくじゅくする。ジャムみたいだ。腐った果物で作った、とても食べられないジャム。

 僕の心には、よくそういうのが湧いてくる。腐ったジャムを心に隠していること自体が恥ずかしい。ああ、恥ずかしい。じゅくじゅく。じゅくじゅく。


 一旦ジャムが心に湧いてくると、放り出したい気持ちになってしまって、翌日になってもやる気は湧いてこない。結局、3日かけてたったの5ページだけ読んで、内容にはさっぱりついていけないまま、衣真くんにリストを送った。


『ごめん、難しくて全然進まなかった』


 チャットで言い訳を添えて。

 やっぱり僕はばかなんだろうか。ばかならばかなりに、こんな難しい本を読もうとしなければよかった。僕の身の丈を超えていたんだ。恥ずかしい。ぶくっ、ぶくっ、とジャムが沸き立つ。


『こんばんは。リストありがとう!』


 衣真くんからのメッセージを見ると、なぜかいつも衣真くんの明るい声が浮かぶ。それだけで僕の縮こまった心が明るさを取り戻す。


『僕の宿題が悪かった! ごめん!』

『こんなに丁寧に読んでくれると思わなかった』

『伊藤くんはすごいよ。どうすごいかは読書会で説明する!』

『おやすみなさい。よく休んでね』


 衣真くんは4つのメッセージで会話を切り上げた。僕はなんと返信したらいいかわからなくて、『こちらこそありがとう。おやすみ』と挨拶だけ返した。

 心がもやもやに支配される。「こんなに丁寧に」読まなくてよかったんだろうか。馬鹿正直に読もうとしたから僕は5ページしか進められなかったんだろうか。

 衣真くんに「すごいよ」と言われた。でもその文字はなんだかスマホの画面の中で居心地悪そうにしている気がした。それは今の僕の心に、衣真くんからの「すごいよ」を受け入れる場所がないから。

 敵わなくていいって思ったのに、敵わないことにへこたれてしまう。でも僕が2ページで放り出さずあと3ページ進めたのは、合宿のとき優しくしてもらったからだ。あの出来事がなかったら、僕はとっくにむくれて衣真くんから距離を取っていただろう。

 敵わない。かっこいい。


 ——衣真くんはかっこいい。


 この一文は、僕の心にストンと落ちてきて、そのままそこに落ち着いた。

 ああ、衣真くんを「かっこいい」と思えばいいんだ。そうすれば、きっと僕のこのぐじゅぐじゅも溶けていく。

 もう一度トーク画面を見返す。


『伊藤くんはすごいよ』


 今度は、素直に嬉しく思えた。思わず頬が緩んで、スマホをきゅっと握りしめる。回り道をしたけど、僕は衣真くんの言葉をそのまま温かく受け取ることができた。


 ガラス張りの壁から初夏の陽射しが差し込むラウンジ。グループ用に椅子とテーブルが並べられたそこは、いつも学生で混み合っている。僕は隅っこに二人分の席を見つけた。衣真くんに居場所を連絡する前に、自動ドアが開いて衣真くんが入ってきた。

 一番奥の席から離れていても、一瞬で衣真くんだと分かった。きょろきょろとラウンジを見回す仕草が、どことなく小動物感があってかわいいから。

 すぐ立ち上がって呼べばいいのに、僕は少しだけ、ほんの少しだけ衣真くんが僕を探す姿を見ていたくなった。僕の席は奥まっているから、衣真くんは考えるときの癖で口をちょんと尖らせて、それから小首を傾げた。やっぱり小動物だ。かわいい。

 あれ。僕、衣真くんのことを「かわいい」と思ってる!?


 どうして声をかけないなんて意地悪をしてしまうんだろう。僕は自分の行動にショックを受けて、慌てて立ち上がった。そのとき、ほんの一瞬、ちかっと僕の胸底の本音が光った。


 ——衣真くん、僕を見つけてよ。


 かっこいい衣真くんに、見つけてほしかった。

 僕は自分の子どもっぽさが心底恥ずかしくて、大声で衣真くんを呼んだ。


「衣真くーん!!」


 ぱっと振り向いた衣真くんは、僕が勢い余ってあまりの大声で呼んだものだから、くすくす笑って口に手を当てた。

 「かわいい」を封印してしまいたいのに、心の中でぴかぴか光って漏れ出してくる。かっこよくてかわいい、僕の……。

 あれ。衣真くんは僕のなんなんだろう。サークルの同期。きっとまだ「友人」ではない。

 なんて考えているうちに衣真くんは僕のところへやってきた。


「やあ。こんにちは」


 今どきの大学生は「やあ。こんにちは」なんて言わない。でも文語めいた挨拶が衣真くんにはよく似合ってしまう。その目の奥にきらめく知性がそうさせるのだろうか、と思って、僕はやっぱり衣真くんをすごくかっこいいと思った。


「こんにちは」

「席取ってくれてありがとう」

「いえいえ。時間を取ってくれてありがとう」


 衣真くんはどっこいしょ、とパンパンに膨らんだリュックを下ろす。その中にはすごい量の本が詰まっていると、サークルで1ヶ月一緒に過ごして分かってきた。その本を読む時間を割いて僕に付き合ってくれるのは、もしかして、すごく幸運なことなのかもしれない。


「こちらこそ。あのリスト、僕の方がすごく勉強になった」


 衣真くんはリュックを漁る手を止めて、僕に笑顔を向けた。


「え、そうなの……?」


 僕のたった5ページ分のリスト。僕がばかだから、理系だから、読む力がないから、宿題の半分も進まずに放り出した……。また、腐ったジャムがぐつぐつと疼き始める。


「あのリストには、すごく大切な哲学の問いがたくさん詰まってる。僕も、一旦自分の学びを振り返って、学び直すことがたくさんあったんだよ」


 衣真くんは僕に、ホチキス留めされたリストを渡した。一見僕が送ったリストに見えたけど、そうではなかった。僕の挙げた疑問点一つひとつに、事典の引用がびっしりぶら下がっている、衣真くんが作ってくれたリストだった。


「すごい……衣真くん、ここまでしなくても……」

「ふふ。ちょっと大変だった」


 衣真くんはまたくすくす笑う。


「ごめん、僕は最後までやらなかったのに……」


 心がきゅうっと狭くなって、その中にどろりとしたジャムがあふれる。恥ずかしい気持ち。情けない気持ち。年下の衣真くんと自分を比較し始めたら、ジャムはもう我が物顔で僕の心を占領した。ぐずぐず。ぐじゅぐじゅ。自分を卑下する気持ちがあふれ出して、僕はどうしようもなくて泣いてしまいそうになった。


「ううん。僕が伊藤くんを甘く見ていたから、第一章全部を宿題にしてしまったの。伊藤くんはすごかった。ごめんね」

「え……?」


 少し眉を下げて上目遣いで謝られても、何のことだか分からない。


「話が飛ぶようだけど、この大学にはプライドの高い人が多いでしょう。ぼくも含めて、ね」


 グサっと僕の心の一番恥ずかしいところを刺されて、僕はもう本当にいたたまれなかった。僕はプライドが高い。僕よりすごい人をいくら目の当たりにしても、自分のプライドにすがりついてぐじゅぐじゅに腐ってゆく。それがすごく恥ずかしくて、またどろどろの心を抱えてしまう。

 でも、衣真くんも、同じなのかな。


「衣真くんも?」

「うん。だから伊藤くんのリストに、こてんぱんにされた。いくつもの用語を、ぼくは説明できなかったから」

「衣真くんでも、そうなの」


 あの5ページを、衣真くんは完璧に説明できるのだと思っていた。


「そう。ぼくは、理解したつもりで鼻にかけてきただけだったんだ」


 安心したのはほんの一瞬で、やっぱり衣真くんに圧倒されてしまう。僕は「鼻にかけてきただけだったんだ」なんて、こんなにさらりと言えやしない。

 衣真くんはちら、と僕を見たけれど、話を続けた。


「この大学の人たちは、『分からない』ことを恥ずかしがるじゃない。でも伊藤くんは、分からなかった部分を全部挙げてくれたんでしょう? ほかの人なら見逃してしまったり、分かったフリをして誤魔化して、自分が『分かっていない』ことを隠そうとしたりする、そんなところまで、全部」

「……そうかもしれない」

「それは本当にすごいことだよ。分からないことを『分からない』と言える伊藤くんは、すごいと思った」


 衣真くんのまっすぐな目に見つめられて、僕はどうしたらいいかわからなくて細い声で「ありがとう」とだけ言って、目を逸らした。

 衣真くんの前だから、かっこつけて頑張っただけだよ。普段はもっと手を抜いて生きてるよ。講義で分からないところがあってもスルーして、僕はそうやって生きてるよ。

 そんなこと、言えやしなくて、言えやしないことが僕のプライドの証明のようで、もう頭がぐるぐるになった。


「ありがとう。ぼくはまだ何も理解していないことを、教えてくれて」


 衣真くんの穏やかな声が、ずっと頭の中に響いていた。


 衣真くんは丁寧に言葉を重ねて、僕のリストに説明を加えてくれた。ときには二人で考え込むこともあった。ほんの些細な言い回しで使われている普通の単語を深掘りすると、哲学の迷路に迷い込んでしまうのだ。

 哲学って、こういう学問なんだ。この学問の奥深さに比べたら、衣真くんすら入り口に立っているだけのような、そんな途方もない知の営み。

 衣真くんが僕を先導してくれる人でよかった。僕は衣真くんになら、「それってどういうことなの」と素直に質問できる。そして僕の賢い案内人は、僕の質問を歓迎して、ゆっくり、時折あごに手を当てて考え込みながら、丹念に言葉を紡いでくれる。

 考え考え、ゆっくりと言葉を交わす。それは今までに経験のない、静かな波に揺られるような、充足感のある時間だった。


 次の読書会の約束をして、ラウンジを出たところで別れた。


「忙しくなったらいつでも言って。読書会はいつお休みにしても構わない。哲学は逃げたりしないから」


 目を細めて笑って、ひらひらっと手を振りながら衣真くんは大講義室の方へ去っていった。

 確かに、数千年の営みである哲学は、少し休んだくらいで逃げやしない。

 でも、衣真くんはどうなの。


 次の講義に向かいながら、しみじみと思った。


 ——僕は衣真くんの言葉を分かりたい。


 衣真くんが時折口にする難しいセリフを分かりたい。それは……衣真くんをもっと分かりたいから?

 衣真くんはかっこよくてかわいくて、僕の……「友人」になってほしいから、なんだろうか?


 友人と呼ぶには、衣真くんはちょっときらきらしすぎているような気がして、僕は新緑の木漏れ日に目をぱしぱしとしばたたかせた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る