振り向いてよ、僕のきら星

街田あんぐる

ねえ、いまくん

 早朝のシャワーのあと、ユニットバスの鏡はぼうっと曇って僕のシルエットを映す。髪があと2センチ伸びたら、衣真いまくんに告白しよう。


 大学に合格してから髪を伸ばし始めた。「伊藤なら長髪も似合いそう」と何人かに言われて、そんな気がしてきたから。せっかくなら似合う格好をしたいものだし。

 快活な美容師さんいわく「今が伸ばしかけの一番面倒なとこ」らしい。結ぶにも結べず、前髪を分けて下ろしておくしかない。不満に口を結んでドライヤーの風を当てていく。

 ワンルームに据えた大きな姿見を覗く。きちんと乾かして櫛も入れたのに、モサモサと格好のつかない髪型だ。こうなるとおしゃれの気力も湧かない。どうせ服も靴も登校の間に梅雨ばいうに濡れてしまう。


 あと2センチ我慢して、かっこいい状態で告白したい。素敵な衣真くんの恋人が、こんなモサモサな髪ではいけないと思うのだ。


 あ、でも。今日は衣真くんと会える日だから。ブルーグレーの開襟シャツを手に取る。「好きな人のためのおしゃれ」は楽しい。東京に来てから買ったレインシューズを履いて、浮き立った気分で家を出た。


 2ヶ月前。僕はサークル新歓の人混みにもみくちゃにされていた。僕は純文学が好きだから、文学関連のサークルに入りたい。それ以上の希望はなかった。


 あ、いえ、運動部は大丈夫です。いえいえ大丈夫です、興味ありません、すみません……。


 そして新歓のブースに座った、やる気なさげな二人が目に入った。一人は読みかけの文庫本を雑に片手で掴んで、もう一人は頬杖をついて、喧騒から一線を画して雑談している。「書評の会」という手書きの張り紙は、慌てて用意したんだろうか。飾らない雰囲気を感じよく思って、ブースに近寄る。


「こんにちは」

「ああ、こんにちは。えーっと……」


 本を掴んでいた先輩は、華奢な眼鏡をかけて細い声でしゃべった。いかにも文学青年といった印象だった。


「こんにちは。どうぞお掛けになって」


 頬杖をついていた方がフォローに入る。こちらはつやのある黒髪をボブにして、ブラウスにカーディガンを羽織った大人しそうな人だ。


「うちは書評の会なんですけど、質問とか、ありますか? 会員が書いたものがこれで、そうそう、新歓の日程のプリントが……」


 あれこれと冊子やプリントを見せてくれる。その割に、どうしても新入生を獲得したい、という熱意は感じられなかった。僕が席を立っても引き止められないだろう。「来るもの拒まず去るもの追わず」。運動部の過激な勧誘をくぐり抜けてきた僕には、この二人の飾らないスタンスがやっぱり好ましく思われた。


「あの、新歓、見学に伺いたいです」

「あら。ありがとうございます。連絡先を名簿にするので……」


 名前と連絡先を聞かれて、「伊藤 早暉」と書き込む。いつも読み方を訊かれるから、あらかじめ「さき」とふりがなを振った。


「伊藤さんね。お待ちしています」


 あっさりと説明は終わり、僕は席を立った。感じのいいサークルだった。「珍しい名前ですね」と言われなかったから。

 自分の名前は好きだ。話題のタネになるから得だと思う。でも「初対面で名前に立ち入らない人は、いい人」というのが、19年生きた経験則。


 付近できょろきょろしていた男子が一人、僕と入れ替わりに「書評の会」のブースに腰掛けた。黒髪はつるんとして、シャツにネイビーのカーディガンというシンプルな格好の人だった。

 それが衣真くんだったと、あとになって気づいた。


 書評の会の新歓は、ワークショップだった。書評とはなんぞや、を簡単に説明されてから、短編を読んで実際に書いてみる。

 読書感想文とは違う、と説明された時点で手に汗がにじみ、ほうほうの体で書き終えた。場違いなサークルに来てしまったかもしれない。僕は理系だし、文系の猛者揃いだったら……?

 その日の参加者は4人。互いの書いたものを読み合って、悟った。宮澤衣真くんは恐ろしい。段違いにキレのある文章を書く。書評をまともに読んだことのない僕でも分かった。

 でも、彼はいい奴だ。初心者のピンボケな書評にも丁寧にコメントする。


 宮澤くんの仕草は男子ながらかわいらしく、話し方はほわほわとしている。表情はいつもやわらかい。笑うとき口をキュッと結ぶのが癖のようだった。棘を一切感じない好青年。初対面でいい奴だと分かったから、余計にチクチクと意識してしまう。

 次こそ宮澤くんに手放しで褒められる書評を書きたい。燻る感情のやり場がないから、結局サークルに足を運ぶ。

 

 新歓を経て残った新入生は僕と、宮澤くんと、関根さんと、山口くんの4人だった。理系は僕だけ。宮澤くんは文学部哲学科。関根さんは文学部のフランス文学コース。山口くんは法学部で弁護士を目指すらしい。

 正直に言おう。すごく引け目を感じていた。小説が好きなだけで入れるサークルじゃなかったかも。


 いや、まだ書くことに慣れていないだけだ。自分だってやればできる。負けん気を原動力にして、活動に毎回参加した。


 そんな空元気を打ち砕くほど、宮澤くんの書くものはすごかった。美しかった。認めざるを得なかった。

 書評でありながら、確固たる文体を持っていた。言葉の端々に奔放で自在な表現力がきらめいて、なおかつそれをぎょす慎重な手つきを忘れてはいなかった。


 ランタンを灯して夜を駆ける馬車の、青馬の躍動と御者の白い手袋。


 そんな光景が浮かぶほどの文章があることを知った。


 4月の下旬、図書館前で山口くんに遭遇した。何か言いたげな顔をしていた。


「ねえ、サークル、残る?」

「え?」


 虚を衝かれて一瞬口をつぐんだ。その選択肢は目に入れないようにしていた。でも……もうサークルに行かなければいいのだ。山口くんは、そういう話をしている。


「いやー。衣真くん、圧倒的すぎるじゃん?」


 彼を「衣真くん」と呼ぶ人は多い。仕草がかわいらしく、小動物的な雰囲気で、みんなの弟のように思われている。本人も嬉しいらしく、名前呼びが浸透していった。名字で呼んでいるのは僕だけかもしれない。複雑な心境のまま下の名前で呼ぶ気になれなかった。


「宮澤くんが圧倒的、は、わかる」

「でしょ」

「でも、いい奴だし」

「衣真くんはいい奴、それはそう。でも迷ってる。関根さんは残ると思う。伊藤くんは……自分に自信ありそうだから、聞いてみた」


 オブラートに包んでくれたけど、口ぶりで「プライドが高そう」と言われたのだと分かった。顔が熱くなる。「実力がないのに宮澤くんに張り合おうとしている」と言われたみたいだ。

 そういうつもりじゃないのは分かっている、山口くんも同じように悩んでいる。でも、図星を突かれた防衛反応が僕の口を重くする。


「それは……いや、でも、僕が書くのをやめる理由にはならないから」

「んー。ぼくは幽霊会員になりそう」

「ありだと思う。でも会費集めるって。一年に1000円」

「1000円払って幽霊会員になるか……。これは悩ましい」


 そんな会話のあと、山口くんは集まりに来なくなった。言葉通り幽霊会員になったのか、入会を取りやめたのかは分からない。


 4月末の涼しい夜も、宮澤くんは圧倒的だった。傷ついたプライドがじりじりと疼く。それなのに、なんの因果か僕と彼の二人で同じ駅へ向かう。

 宮澤くんが話す言葉は難しい。お父さんが私立大学の哲学科の教授なんだって。英才教育。東京育ちのエリート。勝てっこない。ぐずぐずと歯切れの悪い恨み言が脳裏に浮かんでは消える。


 宮澤くんと僕の間に、沈黙が下りた。街灯のまばらなキャンパスを歩く。

 気を遣わせている。一浪したから僕が年上なのに。年下に甘えていると分かっていても、このまま言葉を交わさずにいたい気分だった。


「あ。星がよく見える」


 僕に話しかけたわけではなかった。星がよく見えて嬉しいから、すっと口から出た言葉みたいだった。


「……火星かな?」


 赤っぽいから言っただけ。たぶん僕の返事はいらないけど、居心地が悪いから何か言いたかっただけ。


「火星なの? 赤いから?」

「うーん。適当。でも恒星にしては明るい」

「なるほど! 伊藤くんは星に詳しいんだね」

「別に詳しくないよ。父がたまーに教えてくれた」

「素敵だねえ。伊藤くんは広島の出身?」

「そう。よく覚えてるね」


 自己紹介で一度言っただけの出身地を覚えている宮澤くん。たまたま? 宮澤くんも広島にゆかりがある? それとも、宮澤くんは僕に興味を持っている?


「そう? 伊藤くんのご実家は、ここより星がよく見える?」


 宮澤くんはちょんと小首を傾げて、僕の出身地を覚えていた理由は言わなかった。


「あー。実家は住宅街だから、むしろ大学より明かりが多いかなあ。ここ、暗いよねえ」

「暗いよねえ!」

「ちょっと歩けば畑と田んぼだから、そこは星が見えるよ」

「そこでお父さまに星のことを教わるんだ」

「子どもの頃はね」

「いいねえ」


 会話はここで途切れた。僕から別の話題を振ってもいい流れだった。でも、なんだかとても気恥ずかしくて。僕は悩んだり嫉妬したり、ずっとうじうじしているのに、宮澤くんは気づかないフリで軽やかに話しかけてくれる。

 年下なのに僕より人間ができてる。情けなくてポケットの中で手を握りしめる。爪が手のひらに食い込む。


 でも、心にひとつ暖かい火が灯った。それは「宮澤くんはすごい」という素直な心の灯火ともしびだった。消してはいけない。嫉妬の風に攫われないように、大切に家まで持ち帰ろう。

 もうひとつ、頭に引っかかっていること。星空についての名言を残した哲学者がいた気がする。あれ?


 星空と、偉大な哲学者の名前と、隣を歩く秀才が、一本の線で結びついた。


「衣真くん、の『衣真』って、カント?」


 そのときの僕は、よほど目を丸くしていたんだろう。衣真くんは口を押さえてくすくす笑った。


「そう! イマニュエル・カントの『イマ』だよ。よく気づいたねえ」

「星空がなんとかって名言、なかったっけ」

「『星空と我が内なる道徳法則を敬愛してやまない』ってやつだね」

「それだー!」


 大哲学者の名を持つ青年は、くりっとした目をさらにまんまるに見開いて「おやおや」という顔をする。


「星空を見て気づいたの? 伊藤くん、なかなかに粋だねえ」


 ……衣真くんに初めて褒められた。

 いや!! そんなのとんでもない思い込みじゃないか。衣真くんはいつだって、僕の拙い書評の美点を見つけてくれた。僕が、屁理屈をこねて素直に受け取らなかっただけで。


「いや、すごいね、素敵な由来だね」


 取り繕う口調になってしまった。でも、衣真くんとの関係は僕がちゃんと修繕していかなくちゃ。

 僕はこれまで衣真くんのかけてくれる言葉を無視してきた。なんて不誠実で幼い振る舞いだろう。これからは衣真くんに、心からの褒め言葉を贈りたい。それが埋め合わせになりますように。……ああ、もっと上手く話せたらいいのに。


「ううむ。カントが偉大すぎて、ぼくは名前負けの可能性がかなり高い」


 天気予報の言い方で、でもカラッとした笑い声で言う。衣真くんの笑い方は晴れやかだなあ。知らなかった。いや、気づいてなかっただけか。


「カント……って何を言った人? いや、高校の世界史で名前を聞いただけで……」


 衣真くんは唇をニーッと横に引いて笑ったけれど、その瞳は夜の歩道でも分かるくらいに探究心で輝いていた。


「一言では到底説明できない。一晩かけても無理かもしれない」

「そんなに!?」


 僕は驚きをそのまま口に出した。衣真くんの前で格好を付けずに話すのは、想像していたよりずっと楽しかったから。地下鉄へ下る階段に僕の声が反響して、それもまた可笑しい。


「カントはいろんなことを言ったからねえ。入門書を読んだ方がいいよ。貸せるよ。読む?」

「読んでみようかな。難しい?」


 哲学というだけで難しそうで、しかめ面になってしまった。衣真くんはけらけら笑って先に改札を通った。地下鉄のホームの青白い光の中で、衣真くんの笑顔は暖色みたいに明るい。


「読書会をしようか? あ! あとで打ち合わせよう」


 ひらひらっと軽やかに手を振って、衣真くんはやってきた電車に乗った。僕と衣真くんの家は逆方向なのだ。

 衣真くんと読書会。そもそも読書会って何をするんだろう。

 でも今、衣真くんのことを知りたい。衣真くんの聡明さに触れたい。そう素直に思えた。少しくすぐったい「知りたい」気持ち。それが満たされそうな、嬉しい提案だった。

 メッセージアプリを開いて、少し考え込む。「いまくん」ってどういう漢字だっけ? 表示名は「Ima Miyazawa」。手がかりはなし。


 はたと気づいた。僕は途中からずっと、衣真くんを下の名前で呼んでいた。

 面映おもはゆくなる。みんな名前で呼んでいるから、なんでもないことなのに。サークルのグループチャットを検索して「衣真」という漢字を見つけ出す。

 衣真くんは僕のことを「伊藤くん」と呼ぶ。その距離感に不思議な気分になる。


 衣真くんの少し高めで明るい声が「早暉くん」と僕を呼ぶ、そんな想像は「1番線に電車が参ります」のアナウンスにかき消された。

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