10220
坂本梧朗
1話完結
堀井庸三は疲れを覚えながら、バスの座席で揺られていた。眠気を感じるのだが、頭が妙に興奮していて素直に目を閉じれない。彼は窓ガラスに顔を寄せ、流れていく街の景色を追っていた。飲み屋街の華やかなネオンが彼の心を引いた。退社時に飲みに行こうかと同僚を誘ったのだが、結婚して間もない彼は案の定断った。庸三の方も息抜きを求める気持がふっと口を衝いて出たまでだった。実は金も持っていなかったのだ。ネオンの華を見送りながら、あと三日だと庸三は思った。三日すれば山を越す。会社は決算期で残業が続いていた。
都会の歩道は明るい。その上を男や女が歩いていく。季節は秋から冬へ向かう頃だった。男達は黒っぽいコートを着、カバンを大事そうに抱え、俯き加減にセカセカ歩く。女達は色とりどりのオーバーを着、頭をあげ、ショーウインドウの明りに目や唇の化粧を誇らし気に浮き立たせながら、弾みのある足取りで歩いていく――庸三にはそう見えた。男が疲れて貧相なのに、女は生き生きしているのはなぜだ…………疲れた男である庸三は女達に冷笑的な反発と隠微な性的牽引を感じながら、そんな事を考えていた。三、四人連れで、さんざめきながら歩いていく若いOLなどを見ると、庸三の胸に嫉妬の様な気持が動いた。普通の会社なら退社時間はとっくに過ぎている時間だ、あいつら遊んでるんだ、極楽とんぼが、顔に出ている浮ついた興奮はどうだ、会社の中とは化粧まで違うだろう、ちぇっ、……ある女の思い出が庸三によみがえった。それは一筋の火縄となって庸三の胸を焼いた。バスを降りて酒でも飲むか、そんな自棄な思いがせりあがってきた。庸三は頭を振ってため息をついた。
バスは繁華街を抜け、三叉路を郊外の方に曲がった。明りがぐっと乏しくなった。高速道路の下を過ぎると、道路に面した喫茶店の、いつもの潤んだ様な紫の燈が見えてきた。
二十八か……庸三は何という事もなく自分の年を思った。…………俺は何をしてきただろう……。
わずかな慰めは今は職に就いているという事だった。毎日なすべき仕事があり、それによって自活できているという事だった。
一年前まで彼は無職だった。家の商売を手伝ってはいたが、それは片手間だったし、彼の意識から言っても無職と言ってよかった。親に本腰を入れて商売をやるか、就職をしろと小言を言われながら、自分には他になすべき事があるという思いにいつも追われて生きていた。彼はつまり偉大な何者かになる事を夢みていた。それは時に文学者であり、詩人であり、時に哲学者や政治家だった。
それだけは怠らなかった読書によって、彼は人生や社会について様々な観念をつくりあげ、その観念の中で希望を抱いたり、絶望したりしていた。彼にとってそれらの観念はどれも真実で偉大な思想に思えた。彼は自らをひとかどの人物と意識していた。一方で現実は常に彼を脅かしていた。現実の自分が親のスネをかじる半人前の存在である事が彼の秘かな、しかし頃固な負い目だった。大学を出て数年間庸三はそんな生活を続けた。
気持は焦っていたが、被の目指す方向で具体的な実績は何も生まれなかった。彼は結局本を読み散らし、うろついていたに過ぎなかった。庸三はしだいに自分の生活の不毛さを意識しはじめた。彼は不安になった。やかてその日その日の過ごし方に困惑する状態にまで彼は陥った。昼間何かに追われる様に街に出て、無意味に街をうろつき、夜になると少し落着いた気持ちをとり戻して、深い疲れとともに帰ってきた。
就職ーそれは被にはとてもやっかいな事に思えた。そもそも就職のための諸手続ーー職探し、履歴書書き、健康診断、試験、面接等が彼にはひどく面倒だった。それにちょっと考えると、就職によって生ずる時間的拘束や人間関係の煩わしさが思われ、嫌悪された。そこへ自分は独目の道を歩くのだという自負や、就職しなくても家の商売の手伝いで食べていけるという隠れた打算も加わって、彼は職につかずにきたのた。大体就職という面倒な事に費やすエネルギーや時間があるのなら、自分の歩むべき道を探求すべきだというのがそれまでの庸三の考えだった。だがその自分独自の道への抱負か揺らいできた。彼は今までの生活を読ける事ができなくなった。何よりも自分の生活に現実的な確かさがほしくなった。自分の足で社会に立つという実感を求めた。冢の商売は性に合わなかった。職に就く事を彼は決意した。
一人の友人が彼に職を世話してくれた。その友人は、狐独な気むづかし屋の庸三が今も友情と恩義という言葉をためらいなく使える唯一の友だが、小学校時代のクラスメートで、街をうろついていた時偶然再会したのだった。
一年前の日々が、今バスに揺られている庸三には遠い昔の事の様に思えるのだった。
――出社して数ヶ月は緊張して過ごした。毎日が現実の刃にさらされている様だった。しかし半年程経ち、仕事に慣れてくると、無職時代あれほど複雑に思えた社会や、困難に思えた人生が平明なものに変わっていた。出勤しておきまりの仕事をし、終れば帰っていく。嫌な仕事に出くわす事もあるが、勤務時間が過ぎていけばその仕事も過ぎていく。時折り気晴らしに酒を飲む。一月経つと俸給が来る。これが人生。同僚や上役と良好な関係を保つ。これが社会。頭の中で考えていた時よりもはるかに単純で見通しが効いた 。
無職の頃を思うと、庸三はより確かになり強くなった自分を感じる。それは幸福感をもたらした。彼は膝の上に置いたカバンをそっと撫ぜた。このカバンが表わしている現在の職こそ自分の生の証、幸福の源泉、そう思えたし、思いたかったのだ。だが実際の職場か浮かび、そこでの自分が思われると、忽ち忸怩たるものが庸三の胸をかんだ。しかし彼はそれを素早く振り払った。俺だって捨てたもんじゃない、ちょっと皆より遅れたが、これから着々と自分の人生を築いていくのだ、―― 庸三は女の思い出から沈みこんだ気分を引き立てようとしていた。女だって…………そのうち可愛い娘をつかまえるさっ。もうその事を考えたくなかった。庸三はカバンの中から電卓を取り出した。こんな時彼は よくそうしたのだが、自分の収人をいろいろと計算してみるのだった。 一年間の合計を出してみたり、一日で割ってみたり。そして出てくる数字にため息をつき、様々な感想を語りかけるのだ。庸三にとって自分が稼ぐ金額こそ、あの屈辱的な社会的無力の返上であり、自分の成長の証てあり、不安の沈静剤だった。
しかし取り出した電卓を眺めているうちに、庸三はその気をなくした。実際やってみるまでもなく、出てくる数字はわかっていた。月給に変化はなく、残業でふえる今月分についても二、三日前に計算済みだった。くり返してもつまらない …………珍しく彼はそう思ったのだ。
ある考えが彼に浮かんだ。それは収人の計算に匹敵する魅力的な考えと思えた。彼はさっそく取りかかった。
七十まで生きるとして……彼は365×70を電卓にセットした。イコールのボタンを押すと枠の中に25550という緑色の数字が浮かび出た。 二万五千五百五十日か、庸三は棯った。意外に小さな数だった。そんなものなのか、彼にはどうも変に思えた。漠然と数十万という数を予期していたのだ。だが電卓が間違えるわけがない。改めて頭で計算してみてもその辺の数字になる様だ。庸三は首をひねりながら、今度は少し緊張して365×28をやってみた。答えは10220。先の数と比較すると、もう一度その数字が見つめ直された。八十まで生きたらどうだ、七十とそんなに変わるはずがないという思いもしたが、庸三は何か大きな数字を期待してボタンを押した。 29200、 電池がなくなりかけているのかその数字が弱々しく揺れなから並んだ。…………八十まで生きても三万日に満たない…………それは手品の様に納得のいかない事だった。しかし事実らしかった。
庸三は何かに衝かれて顔を上げ、車内広告をぼんやりと誂めた。車内が一瞬暗くなった様な気がした。
一万日が過ぎてしまった……三分の一が終ってしまった……それも八十まで生きたとしてだ……。
バスが庸三の降りる停留所に着いた。
――歩く 庸三の頭の中で電卓の数字が明減していた。
俺は何をしてきただろう……。
庸三のアパートの わびしい灯が見えてきた。
10220 坂本梧朗 @KATSUGOROUR2711
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