カス屋-プロローグ

@Ichor

***

 足立健一は裸足だった。

 薄いソックスを通してアスファルトの感触を感じながら、走り去る列車の屋根を見つめていた。

―こんなとき、どうして靴を脱ぐんだろう―

 そんな、取り留めの無いことを繰り返し考えていた。


 世に“貴人”という言葉がある。本来「あてびと」「うまひと」などと読み、身分の高い人物を指す言葉であるが、古来、この言葉には別の意味があった。

 その人物と出会うことをキッカケとして、自らの人生が良い方向に広がって行く。そういう人物を「きじん」と呼んだのである。

 その意味での貴人の対義語は見当たらないが、あえて言うなら“卑汚”かも知れない。

 それは、そのまま「ひお」と読む。性格がいやしく、平気で人を汚す者。そういう人間は、世の中に少なくない。


「あれっダッちゃん、こんな所で何やってんのかな?」

―ダッちゃんなんて、呼ぶな!―

 健一はギュッと両肩を寄せ、奥歯を噛み締めた。次の瞬間、事務机に座っている健一の背後から、本橋課長の両手が殴るような勢いで肩に振り下ろされた。

「つっ!」

 その後は、力一杯グリグリと掴まれる。健一は苦痛に耐えきれず、思わず身体を振るわせるように大きくのけ反った。

 毎朝のことだ。

「リラックス、リラックス。もう会社にも慣れただろ? 入社してどのぐらいだっけ? 3年? 5年?……、あっそうか、まだ3ヶ月だったっけ」

「や、やめて、くだ……」

「お前みたいなダメ男はさあ、この会社にはいらないんだよなあ!」

 同じ室内には、健一と本橋の他に6人の人間がいたが、誰も動こうとはしなかった。

「な、何が、ダメな、ん……ですか⁉」

 本橋はさらに力を入れた。

「い、痛っ‼」

「ハッハッ。俺、ダメなんて言ったっけ? あっ、言ったかも。仕事がさあ……なんかさあ、本当グズなんだよなあ、お前」

 どんなに身をよじっても、本橋は手を離そうとしない。

「も、もう……ヤメロっ‼」

 健一は、本橋の腕を思いきり払いのけて立ち上がった。あまりの勢いに、本橋はよろけて後ろの机で腰を打った。

「ヤメロぉ⁉ 今お前、ヤメロとか言ったか⁉ おい‼」

 恐ろしい形相で掴み掛かろうとする本橋を、それまで静観を決め込んでいた周りの社員たちが止めに入った。

「課長、そろそろ企画会議の時間が……」

 一人が間に入ったが、本橋はその社員を振り払った。

「土下座だ‼ そこに土下座しろ‼」

 本橋は新人の口答えだけでなく、自分がよろけて恥をかかされたことが許せなかった。

「足立、あやまれ。あやまっとけ」

「そうだ。あやまった方がいいぞ」

 何人かが健一に言った。

 じっと床を睨みつけている健一の肩が、ふるふると小刻みに震えていた。

―オレが謝る必要なんて、ない‼―


「それで? どうなったの、お兄さん」

 健一はハッとして、掴まっていた陸橋の欄干から落ちそうになり、とっさに腰を落とした。

 その中腰の姿勢のまま振り向くと、すぐ横に女の子が立っていた。

「いつから……いたの?」

 夜目にもわかる純白のワンピースを着た、小学生くらいの女の子だ。ただ立って、じっと健一を見ている。

「もう遅いから帰った方がいいよ」

 軽く咳払いをしながら健一が言うと、女の子は「お兄さんは帰らないの?」と言った。

「関係ないだろ⁉」

「電車が好きなの?」

―しつこいな―

「ああ、そうだよ。電車が通るのを待ってるんだ……もう、あっちへ行ってくれ」

 健一が立っているのは、数本の線路の上に架かる長い陸橋の上だった。百メートルほど駅寄りに新しい橋が出来てから、ここは昼間でも、人も車もほとんど通らない場所になっていた。

「今日はもう電車来ないよ。さっき最終電車が行っちゃったから」

 女の子はクスクスと笑った。

「えっ?……そ、そんなこといいから、早く家に帰りな」

「あのさあ……」

 女の子は、楽しそうに下から健一の顔を覗き込んだ。


―死んじゃうんだったら……いっそ、呪ってみませんか?―


「今のは⁉」

 女の子の声に似ていたが、それは健一の頭の中に響いた。

「私だよ」

 女の子はキョトンして言った。

「それで、さっきの話の続きは……どうなったの?」

「何の話だ?」

「お兄さんの会社の話、でしょ?」

「ちょっと待て……何も言ってないぞ。何で知ってるんだ⁉」

 健一は、思わず女の子の両肩を掴んで揺さぶった。

「あっ……ゴメン。あんまり変なこと言うから、つい」

―大人げない……こんな子を責めたって仕方が無い―

 健一は一歩後ろに下がった。

「大丈夫だよ。……私こそ、ごめんなさい。お兄さんの心の中を覗いちゃったの」

「心の中……?」

 女の子はペロリと舌を出した。

「本当にもう帰った方がいい。きっと、お父さんやお母さんが心配してるよ」

「パパ?」

―ふふっ―

 女の子は、バレリーナのようにくるくると回りながら数メートル後ろに下がった。そして、こちらを向いて両手を左右に開き、そのままその手で、ワンピースの左右の端をつまんだ。

「パパなら、ここにいるよ」

 そう言うと、片足を後ろに引いて優雅にカーテシーをした。

「……何」

 チリチリと。

 女の子はお辞儀をしたたまの姿勢で。

 その背後の闇から。

 チリチリという。

 自転車のリムが回るような音がする。

「何……だ?」

 暗闇という霧を吹き割るように、それは、そこに現れた。

 漆黒の、恐らく鉄製の……屋台。

 ゆっくりと近づいて、ちょうど女の子の横で、タイヤの回るチリチリという音が止まった。

 女の子はカーテシーを解いた。

 屋台の陰から男が現れた。

「さあさあ、寄ってらっしゃい」

 タキシードを着た長身の男は、女の子の頭を撫でながら低い声で言った。

 健一は訳が分からず、その場を動けなかった。

「フィリア。さあ、ご案内して」

 男はそう言うと、手際よく屋台を整えていった。

 フィリアに手を引かれ、健一はふらふらと縁台を跨いだ。


 健一は固く拳を握ったまま、膝を折った。

 本橋は笑っていた。

 肩を振るわせながら土下座をする健一の頭の上に、本橋は自分の足を乗せた。

「課長!」

 声を上げたのは二年先輩の田村京だった。

「いくら何でもひど過ぎです」

「……みやこ、くん?」

 全員が息を飲んだ。

 本橋は足を下ろし、京を振返った。そして天井を見上げると、肩をすくめるようにしてニガ笑いをした。

「ほらほら、仕事だ、仕事!」

 手を打ち鳴らしながら本橋は怒鳴った。

 本橋が行ったのを確認すると、京は健一の所に歩み寄って小声で言葉をかけた。

「ガマンしよ。ね? 一年もすれば治まるから」


「いい人もいるんだね」

 フィリアが健一の隣で言った。

「……いた」

「まあまあ、まずは一杯。これは私のおごりです」

 タキシードの男は、カウンター越しにカクテルグラスを差し出しながら言った。

「この屋台は……?」

「こんな風ですが、一応RARなんです。私のことはマスター、とでも呼んでください」

 マスターは黒い暖簾を指差した。身体をよじって見てみると、真紅の擦れた文字で……

“BAR カス屋”

 と、書いてあった。

「カス屋?」

 変わった名だと思った。

「先々代から使っているものでして、だいぶ古いんですよ。店名もかすれてしまって……最初は一本、棒が入っていました」

「カース屋、って言うんだよ」

 フィリアは、どこか楽しそうだ。

「それでその……京さんは、どうされましたか?」

「うぐっ‼」

 突然、健一は両手で頭を抱え、カウンターの上に額を付いた。

 激しく肩が上下していた。


 三日目になる。

 あのことがあった翌日から、京は出社していなかった。

 誰も理由は聞いていないらしく、ただ「さあ……風邪とかじゃないの」と言うだけだった。

 パソコンの陰から本橋を見た。

 大口を開けて欠伸をしていた本橋が、気配に気づいたのか、健一に視線を向けてニヤリと口の端を吊り上げた。

 健一は慌てて目を伏せた。

 いつもなら、ちょっかいをかけに来るタイミングだが、来ない。あれから嫌がらせの頻度が減ったように感じる。

―やっぱりアイツが京さんのこと、何か知ってる―

 健一は思った。

「んっ?」

 パソコンに貼ってある付箋の一つが目に留まった。

『書類の確認』と書いてあるが、貼った覚えがない。よく見ると、付箋は二枚重ねになっている。

 健一は一枚目をめくってみた。

『田村京は課長に犯された』

―なっ⁉ 誰が、書いたんだ⁉―

 周りを見回したが、皆、いつものように黙々と仕事をしている。健一は慌てて一枚目ごと付箋を剥がすと、丸めてズボンのポケットに押し込んだ。

『田村京という若い女性が、急行列車に跳ねられて死亡した』

 というニュースが健一のスマホを鳴らしたのは、それから二日後のことだった。遺書は見つかっていない。


 健一はカウンターに伏せていた顔を上げた。

「それって、まさかこの陸橋なの?」

 フィリアの言葉に、健一は力なく頷いた。

「何も言ってない……。心の中が見えるって、本当なんだな」

「ええ。失礼とは思いますが、当店のお客様は皆様、他人に言いにくいご事情をお持ちですので。申し訳ありません」

 マスターは頭を下げた。

「別に……もう、どうでもいいです」

 そう言って、健一は琥珀色のカクテルを一口飲んだ。喉の奥を熱いものが通る感覚が、心地よかった。

「彼女が死んだのは僕のせいです。あんな会社、辞めてしまえば良かったのに、できなかった。……だから、僕は……僕もココで!」

「それで……どう、されますか?」

 マスターは、台の下からガラスの“ぐい呑み”を一つ取り出した。青い、透明な液体が入っている。

「どう、って?」

「死んじゃうの? 復讐しないの?」

 フィリアは健一の顔を覗き込むようにして言った。

「えっ?」

「その方を……本橋という人間を恨まれますか?」

「……恨むなんて、そんなもんじゃ……殺してやりたいさ‼ でも証拠が無い」

「あなたへの嫌がらせで十分では? 後は、ご本人が語ってくれるでしよう」

 マスターは健一の目の前にぐい呑みを置いた。

 液体の色がみるみる変わっていく。

「これは、人の恨みを吸収して“呪い”を生み出す特別なお酒です。赤みが強いほど呪いも強くなります。どす黒いほどの赤になった方もおられました」

「カルペディエム、だよ」

「私の祖父が名付けました。『今、この瞬間を楽しめ』……そんな意味でしょうか」

 カルペディエムは赤みを帯びた紫色になった。

「良い色になりました」

 さっき口にしたカクテルのせいなのか、健一は頭が少しぼぅっとして、目も虚ろになっていた。

「それは、どんな呪いなんですか?」

 健一が言うと、マスターはカルペディエムの上に手のひらをかざした。

 ぐい呑みから黒い煙が立ち上る。

 マスターが手の甲をこちらに向けて上下に2、3回振ると、煙が消え、何もなかった空間に一枚の紙が現れた。何の変哲も無い、ただのプリント用紙のような紙だった。

「……これは、時間を切り取る呪いですね」

 健一には意味が解らない。

「つまり、対象の方の人生の、“明日”から“死の一日前”までの時間を切り取ってしまうものです」

「それじゃあ……」

「はい。解りやすく言えば、その方が今おいくつであっても、寿命の残りは一日、ということになります」

 健一の背中を、冷たい感覚がゾワゾワと登って行った。

「課長は確か……40代の後半だった」

「でしたら、通常なら40年ほどの時間が一瞬で消えて無くなることになります」

「こわぁぁぁ」

 フィリアが茶化した。

 健一は残っていたカクテルを一気に飲み干すと、震える両手を握り合わせ、睨むようにマスターを見上げた。

「お、おいくらですか⁉」

 声を詰まらせながら言った。

「お金はいただきません」

「でも」

「ご説明します。まず、本橋という男に自筆でこの紙に本名を書いてもらってください」

「お兄さん、できる?」

 少し心配そうにフィリアが言った。

「何とか、する。……その後は?」

「紙を二つに破いてから燃やします。それで呪いはセットされます。後は、あなたが発動させるだけです」

「どうやって?」

「心の中で『カルペディエム』と唱える。その瞬間、相手がどこに居ても呪いは成就します」

 フィリアがパチパチと手を叩いた。

「結果を確認されましたら、一週間以内に対価をお持ちください。今回の対価は……」


―本当にそんなことが起るのだろうか―

 健一はまだ半信半疑だったが、とにかく例の“紙”をバッグに入れ、いつものように部屋を出た。

 いつもの道。

 いつもの列車。

 いつもの顔ぶれ。

 そして課の入り口を通ると、そこにも変わらぬ日常があった。田村京という一人の人間の死など、無かったかのように。

 本橋はまだ出社していなかった。

 パソコンのデータを確認しながら、健一は待った。

「しぶといねぇ‼」

 突然、耳元で本橋の大声が炸裂した。忍び足で近づいて来ていたことに、全く気がつかなかった。

「くっ」

 鼓膜が破れたかも知れない。

 本橋は高笑いをしながら自分の席に付いた。

―今に見てろ!―

 健一はチャンスを待った。

 そして午後4時を回った頃だった。一人の先輩が健一を呼んで、「足立くんさあ、悪いんだけどコレ……総務に出す書類なんだ。ここに課長のサインもらって来てくれないかなあ」と言った。

 皆、課長はニガテで、何かと健一に押し付けて来る。だが、健一はそれを待っていた。

「ええ、いいですよ」

「悪いなあ、いつも」

 三枚綴りの書類の間に、小さめのカーボン紙とあの“紙”を素早く挟んで整える。一つ、静かに深呼吸をすると健一は席を立った。

 本橋はスマホでもいじっているのか、机の下に両手を入れてごそごそやっていた。

「課長」

「……何?」

「あの、総務部に届ける書類にサインをいただきたいんですが」

「じゃ、そこに置いといて」

「あっ、いえ」

「何、急ぎなの⁉」

「はい」

「んならそう言えよ、ったく! どこ⁉」

「ここに、お願いします」

 本橋は書類の上にバシッと左手を置いて、へたくそな字で名前を書いた。

「これ、お前が作った書類か?」

 そう言うと、指をなめて一枚目をめくろうとした。

「あの、急ぎなので失礼します」

 健一は慌てて書類を引ったくり、一礼をして部屋を出た。

―中身も確認しないでサインするなんて。職務怠慢のダメ男はお前の方だ。でも、おかげで助かった―

 エレベーターの前で、挟んであった紙を抜き取った。そこには本橋のサインと、左手の指紋の一部までが複写されていた。

「おい」

 後ろから声をかけられて、心臓が口から飛び出しそうになった。咄嗟に二枚の紙を上着の内ポケットに押し込んだ。

「総務へは俺が行くから、もういいよ」

 書類を頼んで来た先輩だった。

 オイシイところは自分で取る。いかにも人間らしい人間だと思う。

―見られたか?―

 書類を渡しながら、健一は注意深く相手の表情を窺った。

「早く戻った方がいいぞ」

「そうですね。それじゃ、すみません」

―大丈夫そうだ―

 胸の奥からこみ上げて来る笑いを必死にこらえながら、健一は課に戻った。


 その日、健一がアパートに帰り着いたのは夜の11時を過ぎた頃だった。

 ドアの施錠を確認し、乱暴にネクタイをゆるめると、そのまま台所へ向かった。

 上着の内ポケットから“紙”を取り出すと、広げて丁寧にシワを伸ばす。シンクの上の、薄暗い15ワットの蛍光灯に照らされて、本橋の憎々しい文字が踊っていた。

―よろしくお願いします‼―

 見えぬものに一礼をすると、健一は一気に紙を引き裂いた。

「よし……後は」

 ガス台のツマミを最大までひねると、勢い良く炎が立ち上がった。炎は、それを見つめる健一の瞳の中にも火を灯す。瞳の中の炎は赤みを帯びた紫色に輝いていた。

 二枚の紙片を火にかざすと、あっという間に灰になって消えた。

「明日だ! 明日、呪いを喰らわしてやる」

 健一はスーツのまま布団にくるまると、その中でいつまでも笑っていた。


 いつもの朝。

 いつもの空気。

 だがその日、そこに日常は無かった。

 たった今、本橋課長がストレッチャーに乗せられて救急搬送されて行った。

 課内は一様に騒然となった。

 部長や、他のフロアの社員もやって来て「いったい何が起きたのか」と繰り返していたが、それに答えられる者は無く、口々に発せられるのは、意味の無い言葉の断片だけだった。


 わずか十数分前……。


「何だ、そのシワくちゃのスーツは⁉ お前、会社をナメてんのかっ‼」

 本橋は襟首を掴んで健一を立たせると、そのまま激しく床に押し倒した。

 頭を抱えて机の下で縮こまる健一の尻を、本橋は何度も蹴った。

「出て来い‼ このクズがっ‼」

「課長! 暴力はいけません」

 何人かの社員が止めに入った。

 そのとき。

 健一は唱えた。


―カルペディエム!―


 本橋の動きが止まった。

 室内に数秒の静寂があった。

「うっ、うくぅあぁぁぁ」

 突然、絞り上げるような甲高い金切り声が部屋の空気を引き裂いた。それは本橋の喉から出た悲鳴だった。

 止めに入った社員たちが皆、手を離して後ずさった。

 本橋は全身を激しく痙攣させた後、空気が抜けるようにその場に這いつくばった。ちょうど土下座をするような格好で、うなだれた頭が健一の目の前にあった。

 見る間に、頭髪が色を失って抜け落ちて行く。本橋はゆっくりと顔を上げ、白濁した虚ろな瞳で健一を見た。

―みやこさんは?―

 声を出さずに唇の形だけで、健一はそう問いかけた。

「ああ……俺だよ。ヒヒヒ」

 つぶやくように言うと、本橋はシワだらけの顔でニヤリと笑った。そして上体を支えていた腕が力を失って曲がり、にぶい音を立てて頭を床に打ち付けた。


 翌日、本橋は心不全で死亡した。医師は老衰という診断を下した。


 陸橋の欄干にもたれるようにして、健一は何とか身体を支えていた。

 月は出ていたが辺りは闇に包まれていた。

 濃い、黒い霧が月の光を遮っている。

「もう少し、傷が癒えてからでも良かったのですが」

 霧の中からタキシードの男が現れた。

「でも、7日以内に対価を持って来ないと、僕に同じ呪いが返って来るんでしょ?」

 健一は小さなタッパーをマスターに手渡しながら言った。マスターは中身を確認すると、ちょっと首を傾げた。

「足の指を3本、確かに受け取りました。どの指でも良かったのですが、どうして親指を2本も? かなり不自由ではないですか?」

「……いいえ。親指の爪を切るのって、大変だから」

「なるほど」

 マスターは言って、ちょっと微笑んだ。

 健一は首をひねって、自分の肩越しに後ろを見た。

「今夜は……フィリア、ちゃんは来てないんですね」

「はい、うるさいので……オッと!」

 激しい苦痛のせいで倒れそうになった健一を、マスターが支えた。

「す、すみません」

「いいえ」

 健一を欄干に掴まらせると、マスターは踵を返した。

「あの……あなたたちは、いったい」

 健一はマスターの背中に問いかけた。

「ただの、カス屋……いえ、カース屋です」

「嘘ですよね。だってあれは、あんなのは人間業じゃない」

「私は子持ちのバツイチなもので、がんばって稼がなければなりません。ですが、当店は一見さんを歓迎いたします。何度もご来店くださる方は、それだけご不幸な方だということですから。それは悲しい。大変失礼ながら、もう、あなた様ともお会いしたくはありません」

「……」

「でも……もしまた、強い恨みの心が見えましたときには……」

 薄れていく声は、やがてマスターの背中とともに黒い霧の中に同化して行った。


  

<終>

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