第31話:渋谷大祓・後


「――神威抜刀しんいばっとう夜露薙よつゆなぎ!」


 かいは鯉口を切る。鞘から僅かに覗いた刀身は、木漏れ日のような光を宿していた。


 紫月しづきを助けに行くならば、戒でなければいけない。これは、とよ自身が提案した、それを実現させるためのちょっとした無茶だった。


「どうして、来たんですか……!」


 何体ものケガレビト越しに戒の姿を見とめ、紫月が叫ぶ。


「放っておけるわけがないだろう」


 戒が夜露薙を抜き放ち、紫月へ向けて一歩を踏み出す。


「駄目です……。わたしなんかに、そんなこと……」


 紫月がそう零すと、呼応するように残っていたケガレビトたちが一斉に戒の方を向いた。


「お願いです……放っておいて、ください……!」


 紫月が拒絶の言葉を口にする。すると、やはりそれに呼応して、戒のすぐ近くにいたケガレビトが彼へと遅い掛かり――


 ――その時には、ケガレビトの首は刎ね飛ばされていた。


「悪いが、断る」


 黒い霧となって消えていくケガレビトに目もくれず、戒は端的に告げる。


「少なくとも、君がそんな状態である内は」


 言いつつ、戒は夜露薙を逆手に持ち替え、一瞥もなく自らの背後を突く。そこにはいつの間にか背後に迫っていたケガレビトがおり、腹を貫かれていた。戒が刃を引き抜くと同時、ケガレビトは霧散する。


「来ちゃ……駄目なんです……! 戒さんは……戒さんだけは……」


 紫月が喉を締め付けるかのように叫ぶのと同時、周囲に残っていたケガレビトが戒へ殺到する。


 しかし戒は怯むことも後退ることもなく、穢れの群れを真正面から迎え撃つ。


 まず正面。夜露薙を袈裟けさ一文字いちもんじと振るって難なくケガレビト二体を消滅させ、その後ろから来たケガレビトの胸部へ夜露薙を深々と突き刺し、そのまま手を離す。


 続いて左。戒は軍刀を抜き、迫って来ていたケガレビトの片腕を斬り飛ばすと、正面と同じくそのケガレビトの胸部へ軍刀を突き刺し、思いきり蹴とばした。


 元は幽質とはいえ、今は実体化している状態だ。突き刺さったままの軍刀もろとも、蹴とばされたケガレビトは後続を巻き込んでよろめく。


 その間に右。正面のケガレビトの身頃を切り裂きながら突き刺しておいた夜露薙を引き抜くと、既に間近にいたケガレビトが伸ばして来た腕をかわし、空いている左手でその腕を掴んで捻り上げる。そのままケガレビトの脚を蹴りつけて膝を突かせては、強引に背を踏んでアスファルトの上へ倒す。


 そうして刀の間合いの内に入ってしまった敵を無力化すると、迫っていた後続を三体、何の造作もなく切り捨てる。その後に踏んでいたケガレビトの首も刎ね飛ばし、消滅させる。


 最後に、再び左。ふらふらと立ち上がっていた軍刀の刺さっているケガレビトから軍刀を引き抜き、夜露薙で斬り倒す。そしてその背後にいた二体を、二本の刀で同時に刺し貫いた。


 夜露薙を持っていた右手側のケガレビトのみが霧散する。戒はそれを確認し、自由になった夜露薙で左側のケガレビトの首を断ち切る。


 それで、残っていたケガレビトは最後だった。


「夕と……朝那あさなさんと一緒に居たらよかったじゃないですか……! わたしのところになんて……来なくても……」


「……振られてきたさ」


 軍刀で斬り飛ばされて残っていたケガレビトの腕を夜露薙で斬って消滅させながら、戒はそう言い放つ。


「振られ……え……?」


 こんな状況だというのに、紫月はぽかん口を開け、夜露薙を納めている戒を見つめる。


 その遥か後方では、夜露薙へ力を注いでいたとよがふらりと倒れ、百合阿に支えられていた。


「そんな、どうして……?」


「五年も離れていたんだ。お互い、考えも変わる。それに、ああしてこの世界に残っていたとしても、結局は死人と生きている人間だ。交わってはいけない。お互いそれに納得したんだ」


 戒は二振りの刀を納めながら、何事もないかのようにそう言った。


「そんな、そんなの……!」


 紫月はアスファルトの上にへたり込んだ姿勢のまま、ぼろぼろと涙を流す。


「悲しすぎます! 折角会えたのに」


「そうだな。でも、会えた。それでいいんだ。きっと、紫月もいつか分かる」


 戒は膝を突き、紫月の顔を覗き込んだ。


「聞かせてくれ。どうして、こんなことを?」


 ともすれば責めているように聞こえてしまうそれを、戒は最大限柔らかい口調で尋ねる。


「……役に立ちたかった……んだと思います」


 紫月は、目の前の戒から目線を逸らす。


「穢れたわたしだから、できるだけ穢れを集めて、それで消えちゃえたら……って」


 そう言ったものの、本当は違うのだと、紫月自身もう分かっていた。本当の理由は、もう一つ深いところにあるだと。しかしそれは、まだ口に出せないでいた。


「……俺は紫月に消えて欲しくない」


 戒が黒の革手袋を外し、紫月の手を取る。


「だ、駄目です。わたし、穢れて……」


 その手を振り払おうとした紫月だったが、戒は紫月の手を離さない。


 二人の力の差は言うまでもなく、紫月の手は、戒に掴まれたままだ。


 それはまるで、彼女をこの現世うつしよに繋ぎとめるようだった。


「か、戒さん……! わ、わたしそのっ、お風呂にも入ってないし……!」


「俺は紫月が穢れているだなんて思わない」


「それは……戒さんが優しいからです」


「産まれながらに穢れている人間なんていない。そうでなければ、全員穢れている」


「でも……わたしは……。お母さんを見殺しにしたし……お義父さんの仕事も、知ってて警察に言わなかったし……」


「それは紫月にはどうしようもないことだった。気に病む必要はない」


 そうは言うものの、紫月がそう言って納得できるような人間ではないことは分かっていた。でなければ、ここまでの騒動になどなっていない。


「もし、どうしても悔やんでしまうなら、俺を信じてくれ」


「戒さんを……?」


「ああ。紫月は悪いことなんてしていない。そう思っている俺を信じてくれ」


 そう告げて、戒は紫月の手を離す。


「戒……さ……」


 紫月の目元にみるみる涙が溜まり、その顔に笑みが零れかける。が、彼女はそれを押し留めるようにして口許を歪ませ、俯いた。


「ごめ……なさい……! わたし……」


「別にいいさ。その代わり、いつかどこで、同じように誰かを許してあげてくれ」


 少しの間。静まり返った渋谷の中心に、僅かな少女の嗚咽だけが響く。


 不意に、紫月が顔を上げた。


「会い……たかっ……です……」


 途切れ途切れになりながらも、しかしはっきりとそう告げる。


 戒にまた会いたい。しかしそれが叶えられるためには、きっといい子でいなければいけない。そのために、何かをしなければいけない。それが、穢れを集めた本当の理由だった。


 子供らしい、ずれた理屈。


「……ああ」


 それに、戒はただ頷いた。それだけで良いと思えたからだった。


『――おい、一色いっしき、聞こえるか! 加茂だ!』


 と、その時、戒のインカムに無線が入る。


上代かみしろに取り込んだ穢れはもう出きっているはずだが、何かが上代にしがみついている。気を付けろ!』


 その瞬間、紫月の身体に刻まれた、薄紫に戻っていた花の紋様が一瞬で全て黒に染まり、そこから汚泥のような黒い何かが流れ出した。


 そして、紫月を背後から抱くように、ケガレビトに酷似した何者かが現れる。


 その何者かは、まるで紫月を磔にするようにして立ち上がらせた。


 ――可哀そうだから生んであげたの。――紫月は金を生む花になる。――お前、捨て子なんだってな。――お前は娼婦の子だ。


 何人もの声が響く。


 その何者かは、見慣れない女や、小学生ほどの子供、そして鏑木と、ころころと輪郭を変える。しかし、紫月から流れ出したものと同じく真っ黒なままだった。


「う、あ……」


 紫月は、どうすることもできず、その声を受け入れることしかできない。


 戒はそれが、真の『穢れ』なのだと直感で理解する。


 負い目、何かを厭う感情、受けた悪意。そういった、心の中に残り続ける、傷。


 これを祓わなければ、禍言祓まがごとばらえは終わらない。


 しかし、夜露薙はもう使えない。さきほどケガレビトを祓い切った際、とよの力の限界が来たのは感じ取っていた。


 それと同時、戒は力づくでは意味がないということにも気付く。


 加茂は、紫月がため込んだ穢れは全て出きったと言っていた。それを信じるならば、この穢れは、紫月の内から溢れ出たものだ。それを力づくで祓うことなど、そもそもできないのではないか。


 そして結局、どれだけ言葉を重ねても、紫月の心の、真に本当の奥底までは届かなかったのだろう。今こうなっているのが何よりの証拠だ。


 ならば、どうするべきなのか――。


 戒は寸分の躊躇いもなく、黒に染まった紫月の手を取り、彼女の身体を抱き締めた。


 彼女の身体から溢れる汚泥が戒のスーツに染みを作り、先ほど響いた幾つもの声が、戒の脳内でも何度も響く。


 しかしそれでも、戒は怯まない。


「紫月、俺はここにいる! 一緒にいる!」


 彼女を抱き締めたまま、言い聞かせるように叫ぶ。


「そんなものに負けるな! 俺も負けない! だから……」


 心も、覚悟も、とっくに決めてきている。


「俺と一緒に生きろ!」


 バシュッ。


 打ち水のような音が響き、汚泥のようなそれが消える。それと同時に、彼女にしがみついていた何者かも、現れたのが嘘だったかのように消えていった。


 しかし戒の目には、それは紫月の内に戻っていったようにも見えていた。


 それも当然だろう。言葉一つで祓えるものではないのだ。それはこれから、戒や周囲の行動により、ゆっくりと祓わなければならない。


 しかし、ひとまずは。


「…………修祓しゅうほつ、終了」


 戒は一気に緊張の糸が緩んでしまい、紫月を抱えたまま仰向けに倒れ込む。鞘の先端が地面に引っかかり、刀が剣帯から外れた。


「うぐっ」


 戒は頭こそ打ちつけなかったものの、背中からアスファルトに叩きつけられ、思わず呻く。


「……か、戒さん?」


 その呻き声で我に帰ったのか、戒の上で紫月が身を起こす。


「無事か?」


「えっと……無事かっていうと……」


 紫月は視線を泳がせる。


「あの……さっきのって」


 聞こえていたらまあそうなるのは必然である。


「……ああ」


 どう言い直したものだろうか。


 戒はそういう意味でも言ったつもりで、紫月もそういう意味と思っているのだろう。


 しかしながら、それをはっきりと言葉にするのは、大人としての良識が最後の最後で咎める。


「あ、あのっ。わたしも……」


「俺から言っておいてあれだが」


 決定的な言葉を口にしようとしていた紫月を、戒は咄嗟に留めた。


「君が大人になったら、その時に聞かせてくれ。俺は、いくらでも待てる」


「は、はい……!」


 紫月が返事をするのと同時、彼女の肌の紋様が消失する。合一が解けたのだ。


 直後、彼女のそばに色白の少年が現れた。


「……良かった。やっぱり、僕がいなくても良いみたいだね」


「え……陽ちゃん?」


「いいかい、紫月。本当は、僕みたいな存在は今くらいの歳になったら消えるんだ。でも君は特別だから、僕は戻って来れた。でも偶然そうだっただけで、本当は必要ないんだよ」


「そんなこと……言わないで」


 しかし陽は首を横に振る。


「ただの事実だよ。たまに思い出してくれれば、僕はそれで幸せだ。だから、ね。あるべき姿に戻ろう」


 陽は手を伸ばし、紫月の涙を拭った。


「……陽ちゃんが、良いなら」


 指月は、拭われた後もまた涙を流しながら頷く。恐らく、戒と朝那のことを聞いたからというのもあるだろう。


「ありがとう、紫月。それと、あなたも」


 陽は、地面に横たわる戒を見て言う。


「紫月をよろしく。泣かせたら、戻ってくるからね」


「……善処する」


 陽は微笑みながら紫月を見つめた。


「じゃあね、紫月」


 そして彼は、かすみのように消え去っていった。


「……で、二人は幸せなキスをしてハッピーエンドってわけね」


 二人からは少し離れた渋谷駅ハチ公前にて。


 腕を組んで事態を眺めていた大野に、いつの間にか合流していた日比谷が茶化すように言った。


「これからの事後処理を前によくそんなことが言えるな」


「私はもう十分頑張ったわよ。残りはあんたがやんなさい」


「いや、おい。それはあんまりだろうが」


 その一方で、いつの間にかビルの屋上にいて事態を見守っていた淡島あわしまと、さらにいつの間にか現れていた神々廻ししばもまた言葉を交わしていた。


神産かみうみの力、消えちまったな。はっ、あのつくがみに良いように使われたぜ、まったく」


「構わんだろう。あの少女のことを考えれば、これで良い」


 神々廻は言って、きびすを返した。


「往くぞ。おれ達はおれ達でこの国が沈まぬようにするだけだ」


「はいよ、相棒」


 こうして、後に渋谷大祓しぶやおおはらえと呼ばれる一連の騒動は、死傷者を誰も出すことなく、幕を閉じた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る