第30話:渋谷大祓・前

 

 平日朝。多くの人が行き交う渋谷駅前に、サイレンが響き渡る。


『こちらは、宮内庁、実動祭祀部です。これより、禍言祓まがごとばらえが行われます。該当区域にいらっしゃる方々は、ただちに避難してください。該当地域は、渋谷駅前、道玄坂下――』


 サイレンを聞いた群衆は、一度静まり返ったのち、駅へ戻る者、単純に区域から離れる者など、各々に動き始める。しかし、これほどまで多くの人間がすぐに動くことなど不可能で、更には彼らに危機感などなく、退避は遅々として進まない。


 その一方で、群衆がおおわらわに逃げまどっている場所もあった。東急百貨店付の近く、紫月と淡島が争いを繰り広げているところだ。


『……東急前は人がいなくなりましたが、他のところはまだ全然です。どうします?』


 渋谷駅付近の路肩に停まったバンの中で、インカムで無線を聞いた大野は舌打ちをする。


 そのバンは実動祭祀部の公用車で、大野の他に、ハンドルを握るかい百合阿ゆりあ、そしてとよが乗っていた。ともえは祈祷課として持ち場に付いており、日比谷はある交渉のために霞ヶ関へ戻っていた。また大野の無線の相手は、現場指揮に当たっている祈祷課の加茂である。


「駅はどうだ」


『まるでダメです』


「……これ以上待っていられん。結界範囲を狭める。ハチ公前は外せ。移動完了次第、そちらの判断で展開しろ」


『了解』


「よし、こっちも出るぞ」


 大野の一声で、四人はバンから降り、渋谷駅前へと走る。戒は軍刀を、大野は黒鞘に金の装飾が施された刀を差しており、百合阿は生箭日女いくさひめの小刀を携えていた。


 その一方、渋谷駅ハチ公前や道玄坂上では、それぞれ配置された祈祷課の職員が、それぞれの方法で結界を作っていた。ある者は読経どきょう、ある者は祝詞のりとの奏上、ある者は式を飛ばし、また巴をはじめとしてただ腕を組んで念じている者も居る。彼らの傍らには帯刀し腕章を着けた護衛課職員が付いており、またその足元には、道を塞ぐようにして陰陽課の札が並べられている。


 結界の中には、まだ避難中の人間もおり、彼らがすれ違いざまに言いがかりを付けてくることもあったが、刀を持った護衛課の職員に凄まれ、妨害をするものは誰もいなかった。


「お前ら、避難状況を確認しろ。外に出ている人間がいなければそれでいい」


 大野が無線に吠える。お前ら、とは結界外縁に配置されている護衛課職員のことだ。


 その頃には、一行はがらんどうになった渋谷駅前に到着していた。


 遠方には、有名な109の看板下に、大小二つの人影が見えている。それは、争い合いう紫月と淡島だった。


「よし、始めるぞ。……加茂、やれ!」


『了解!』


 無線の向こうで加茂が叫ぶ。


 その瞬間、二つの人影の内、小さい方――紫月しづきが突然動きを止めた。


「何……これ」


『まずい。紫月、身を……』


 脳内で陽が警告するより早く、紫月の身に刻まれた花の紋様から、吸収してきた黒い幽質ゆうしつが噴き出す。紫月にとってそれは、まるで臓物を引きずり出されるような感覚だった。叫ぶこともできず、浅い呼吸を繰り返し、水晶の刀を支えにしてその場にへたり込む。


「……遅えっての、白馬の王子様め」


 一方、淡島あわしまは様子がおかしくなった紫月ではなく、渋谷駅前にようやく表れた戒の姿を見つめていた。


「悪いな、時間切れだ。後はごゆっくり」


「待……って。まだ……」


 辛うじて言葉を絞り出す紫月には目もくれず、淡島はきびすを返して走り出し、どこかの裏路地へ姿を消してしまった。


「陽ちゃん……、これは」


『やられた。紫月に繋げた龍脈の流れを逆転された』


 陽が紫月に繋げた人造龍脈は、そもそも実動祭祀部祈祷課がその技法を確立させたものだ。いかに陽がそれを弄ろうと、その上で別の操作をされてしまうのは道理だった。


「――紫月」


「駄目だ。お前の役目は後だって言っただろ」


 一方でハチ公前では、紫月の状態を見た戒が走り出そうとして大野に止められていた。


「日比谷はまだだな。荒牧あらまき、削れるだけ削ってくれ。加茂は龍脈の現状維持」

 

 大野がインカムを耳に押し当ててながら指示を飛ばす。


 そして、全身から穢れの実体化した幽質を吹き出させる紫月を睨み、言った。


「始めるぞ。……修祓しゅうほつ開始」


 それを合図にして、百合阿が一歩前に出、小刀を抜く。


ちぎりにりててんおわ御名みなばん。建御雷たけみかづち


 百合阿の後ろに姿の分からない何者かが現れ、彼女の周囲の空気が凛と澄み切る。


「――合一ごういつ!」


 百合阿の姿が、白の小袖こそでと赤いはかまに変わる。


 彼女は小刀を水晶で伸長させずに逆手さかてで持つと、あろうことか白の小袖を大きくはだけさせる。さらしを巻いた胸と、無骨な手甲が露わになった。


 その頃には、紫月から噴き出た幽質が、薄っすらとケガレビトの形を取り始めていた。


 紫月へ繋がった人造龍脈は、祈祷課が展開した結界で途中から断ち切られており、結界内へ穢れを幽質として吐き出していた。そして、封牢結界は存在しないものの、その量の多さ故に、幽質が臨界を迎えていたのだ。


「紫月ちゃん、動かないでね……!」


 百合阿は言うと、逆手に小刀を持った手を振りかぶり、正拳突きのように鋭く目の前を打ち抜いた。


 その瞬間、彼女の手甲から光が迸ると、離れた場所にいたケガレビトを貫いた。雷そのものの神格化とも言われる建御雷の権能だ。


 しかし、それでもケガレビトはとめどなく湧き出してくる。


「まあ、だよね」


 しかし、それは百合阿も分かっていたことだ。彼女は量の拳を打ち合わせると、ケガレビトの群れへと駆け出していく。


 まずは最も手前にいたケガレビトの頭部へ一撃。それだけでケガレビトは頭を砕かれ、倒れ伏して消えていく。これが、彼女の本来の闘い方だった。


「百合阿さん……やめて……」


「聞かないから、そんなこと!」


 百合阿は叫び、雷を纏った拳を振い、次々とケガレビトをなぎ倒していく。


『まずいことになりました』


 とその時、大野のインカムに加茂の声が入る。


「どうした」


『穢れが多すぎる。人造龍脈の強度が限界です。このままでは一気に溢れます』


「悪いがどうにか粘ってくれ。日比谷が許可を取らんことには……」


 大野が言いかけたその瞬間、紫月の身体から噴き出していた幽質が、急激に勢いを増す。


「んぐっ……。うああああああっ!」


 苦痛に耐えかね、紫月が喉を潰さんばかりに叫ぶ。力を維持できなくなったのか、水晶の刀が消失した。同時に、更に幽質の勢いが増し、紫月の姿が隠される。


「紫月ちゃん!」


 百合阿が叫んで駆け寄ろうとするも、濃すぎる幽質に阻まれてしまう。


 それどころか、元は穢れである黒い幽質は、まるで百合阿の力を削ごうとするようにその身体に付着していく。


「荒牧、離れろ!」


 大野が叫ぶも遅く、百合阿の身体に付着した幽質が実体化、多くの手となって、彼女の首や腕を掴む。


 だが、現役最強と評されている百合阿には、その程度通じなかった。


 突如、晴天の空から、百合阿目掛けて雷が落ちる。しかしその雷は百合阿を焼くことはなく、彼女に纏わりついていたケガレビトのみを跡形もなく焼き払った。


 それを見て、大野は内心で胸を撫でおろし、同時に、自らに呆れていた。


 あの日から、もう五年なのだ。彼女ももう子供ではなくなっているののは当然だ。


 ――大野は少しだけ、吉原事変の日を回顧する。


 突如吉原に出現した、数多のケガレビト。中には刀のようなものを持ったケガレビトもおり、当時のヤタガラス近衛衆このえしゅうは、ただ生箭日女を守ることで手いっぱいで、とても生箭日女にケガレビトの相手をさせられる状態ではなかった。


 その時護衛していた生箭日女というのが、当時新人だった百合阿だ。大野はまだ長の立場になく、ただ一人の護衛として、その場にいた。当時のヤタガラス局長と、経津主ふつぬしの生箭日女佐城朝那さじょうあさなもその場にいたはずだったが、連絡は取れなくなっていた。


 そんな中、焦った百合阿は飛び出して闘おうとし、ケガレビトの群れの中に取り残されてしまった。


「俺が行く、援護頼む」


 そう言って突っ込もうとした大野は、隣の同僚に制止された。


「待て、死ぬ気か」


「お前こそ、生箭日女を殺す気か」


「こんな状況だ、自分の身を守ることだけ考えろ」


 当時の上司にそんなことを言われ、大野はこめかみの血管が切れた気がした。


「おい、大野!」


 子供を見殺しにして何が近衛か。大野はもう何も言わず、ケガレビトの中を突っ切って百合阿の元まで走っていた。


 そして彼は、彼女を斬りつけようとしていたケガレビトの刀を軍刀で受け止める。


「怪我はないか!」


「は、はい!」


 しかし、危機的状況であることに変わらない。突破口を探し、大野は視線を巡らせる。


「……悪い冗談だろ」


 黒一色のケガレビトの合間に、赤い色が見えた。それは、深々と身を斬られて絶命している局長から流れ出た血だまりだった。


 その瞬間、彼の頭に、天啓のような、否、正しく天啓が下る。


「は。代替わり、ってわけか」


 大野はこんな状況だというのに、ニヤリと笑った。


「荒牧、五秒くれ。無事でいろ」


 手短に言い、再び大野はケガレビトの間を縫って走り出す。その際、少し離れたところに佐城朝那の亡骸も見えたが、それをどうこう思う余裕はなかった。


 ケガレビトの刀を掻い潜り、大野は局長の死体の傍らに転がっている刀を掴み取る。


 ――それこそが、混沌と悲惨を極めた吉原事変を収束させた鍵だった。


『ねえダイユウサク、聞こえてる? 許可取れたわよ』


 インカムから聞こえた日比谷の声が、大野をほんの一瞬の回顧から引き戻す。


「無条件でか?」


『まさか。一般人に危害があったら首を飛ばすそうよ』


「飛ばせるもんなら飛ばして欲しいもんだがね」


 軽口を叩き、大野は金の装飾が施された刀の鯉口を切った。


「荒牧、予定通り行くぞ。とよ様の護衛を代われ」


「了解です!」


 百合阿がケガレビトの群れをかき分けるようにして三人のところまで戻ってくると同時、大野は低い声で祝詞を唱え始める。


「契りに拠りて御身おんみに代わり穢れを討ち祓わん。其の名、熱田大神あつたのおおかみ


 熱田大神。皇祖天照あまてらすの姿の一つとされ、倭建やまとたけるが振るった神剣草薙剣くさなぎのつるぎを御神体とする神だ。


「――神威抜刀しんいばっとう夜露薙よつゆなぎ


 そして、刀を抜く。その刀身は、まるで炎の揺らめきのような光を放っていた。


 夜露薙。それは、熱田の力を借りることのできる神刀だった。熱田は元を辿れば女神である天照であり、生箭日女の合一とは逆に、適性のある男性が持つことで、合一に近しい力を得る。


 そして、その適性のある者だけが、ヤタガラス局長となることを許されていた。


 あの状況から吉原事変が収められたのも、今の実動祭祀部部長が大野であるのも、全ては彼が熱田の力に適性があったためだ。


 余談だが、この力は万が一の際の保険として存在が伏せられ、普段は使用も禁じられている。知っているのは吉原事変で立ち会ってしまった百合阿や、成りモノ殺しを担っていた戒含め、ごく少数だ。


 大野は、無言で夜露薙を大上段に構え、無造作に一閃した。


 途端、彼の前方一帯が激しい炎に包まれ、空中を漂っていた幽質ごと、ケガレビトを焼き尽くしていく。その炎は瞬く間に祈祷課の結界の手前まで広がったが、紫月の周囲だけは器用に避けていた。

 

 そして炎が収まるとそこには何も残っておらず、紫月とそのごく近くにいたケガレビトが残っているだけだった。


「まあ、こんなもんか」


 大野は夜露薙を納めると、剣帯から外して戒へと放る。


「そら、一色。行ってこい!」


 それを受け取り、自らの剣帯に装着した戒は、振り向き、転生体である少女を見た。


「……とよ様」


「ええ」


 頷き返し、戒は駆け出す。当然、向かう先は紫月だった。


 だが、その手前にはケガレビトがまだ残っている。そして、朝那の刀を失った戒には対向手段がない、はずだった。


「契りに拠りて御身に代わり穢れを討ち祓わん」


 戒は大野のものと同じ祝詞を唱え、夜露薙へ手を掛ける。


 しかし、戒には熱田の力に適性はない。成りモノ殺しを担うようになった際、既に試しており、戒には夜露薙の力を引き出すことはできなかった。


 ただ、夜露薙は熱田の力をそのまま宿しているわけではない。あくまでその力の受け皿、依代であり、少し強引だが、そこに他の力を宿すことも可能だった。


「其の名、豊受姫神とようけひめのかみ


 戒がその名を呼ぶと同時、後方で、とよが固く目を瞑って手を合わせた。


「――神威抜刀、夜露薙!」

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