第27話:廻りて朝は来る

 夜半過ぎ。かいは疲労と共に住み慣れたアパートまで帰っていた。


 戒の報告を聞いた大野は「まあ、なんとでも言い直してお上に報告しておく」とは言っていたが、最も紫月しづきの近くにいた戒は、気が気ではない。


 ちなみに大野の言うお上とは内閣府のことだ。元々が外部組織のヤタガラスである実動祭祀部は、組み込まれた先である宮内庁とはほとんど接点がない。ヤタガラスへの命令権を持っていたのは内閣府のみで、実動祭祀部となった今もそれは変わらない。


「あ、おかえり。戒」


「ただいま」


 そんな挨拶をしたのはもう五年ぶりになるだろうか。ドアを開けると既に家の明りが付いていて、懐かしい声に出迎えられたのだ。


 廊下の奥に、朝那あさなが立っていた。顔も服も雰囲気すら、五年前のあの日のままだ。


 彼女が、ようやく帰って来たのだ。


 ――そんなはずがない。


「違う」


 すっと頭から血の気が引き、戒はふらついて壁に手を突いた。


 朝那は死んだのだ。


 冷たい身体の身元確認をしたのは。葬儀の喪主をしたのは。納骨堂へ遺骨を納めたのは。


 全て戒だ。


「誰だ」


 戒は、その誰かへと目線を向ける。


 脳裏に、悪意ある良くないものではないかという可能性がよぎる。


 そういう存在は大抵、甘美な誘惑を携えてやってくるものだ。


「……確かに、佐城朝那さじょうあさなとは、ちょっと違うかもね」


 その誰かは、眉尻を下げて言った。


「今は、夕っていうの。夕暮れの、夕。『陽ちゃん』の後に来た、あの子だけの神」


 陽ちゃん。その単語を聞いた戒は、目を見開く。その名は、紫月が口にしていた。


「佐城朝那という人間が、上代紫月かみしろしづきの願いで神になった存在。それが今のわたし」


 とよが言っていたのは、彼女のことだったのだ。紫月のかたわらにいる、女神。


「……は」


 どうしてか、戒はそれで一気に腑に落ちた。同時に、彼女を疑う気持ちは全くなくなり、一周回って不思議と落ち着いてしまった。


 なぜ今になって現れたのか、どうやって入り込んだのか、死人が神になることなどあるのか。疑うべきこと、考えるべきことはあるはずだが、彼女の前では全てが些事さじだった。


「……死んでからも人助けなんて、朝那らしいな」


 心の全てが、目の前にいる存在が佐城朝那だと告げていた。


 彼女はずっと寄り添っていたのだ。見ず知らずの男に引き取られた紫月に。


「そうかな」


「それに、言う言葉は反対だろ」


 戒は笑う。こんな風に笑えたのは、もう五年ぶりだ。


「おかえり、朝那」


「うん、ただいま」


 朝那も、五年前と変わらない笑顔で答えた。




「――聞きかせてくれないか。この五年間の、朝那と、上代かみしろのこと」


 二人は、折り畳みの小さな椅子に座り、ベランダの窓を開け放って、夜の街の灯りを眺めていた。足元には、随分前に期限の切れた蚊取り線香が細く紫煙を立てている。


 まだ二人でいた頃は、夏になると、電気代の節約のためによくこうしていたもののだ。


「彼女といるのに、他の女の子のこと訊いちゃう?」


「いや、それは」


「はい、言い訳は駄目です。戒くん減点」


「……じゃあ、朝那のことだけでいい」


「拗ねないでよ」


「拗ねてない」


 そんなやり取りはさておき。


「……声が聞こえたの。一緒に来てくれって。死んじゃう直前、いや、もしかすると直後だったのかも」


 朝那の死因は失血だった。胸に大きな切り傷があったことを、今でも思い出す。


 吉原であふれたケガレビトの中には、刀を持っているような者も居たと、戒は大野から聞いたことがある。


「その声が、紫月……上代のものだった?」


「え、何。戒くんも紫月のこと下の名前で呼んでるの?」


「……本人が、苗字で呼ばれるのに慣れていないと」


「ほほぉー。いつの間にか女の子と距離を詰めるテクを身に付けて。わたしと会った頃なんて、佐城先輩、佐城先輩って」


「朝那」


 戒は一瞬で脱線した話を元に戻す。


「……多分、陽って人のだった。いや、人じゃないか、わたしと同じだから神なのか」


「その陽というのは?」


「わたしの前に、紫月と一緒にいた神様。男の子。わたしと違って、陽は紫月から生まれて、一緒に育って、神になった。それで、その子が、わたしを呼んだ」


 朝那は続ける。


「これも多分だけど、陽はあの日、吉原にいた紫月を守っていた。それで、力を使い果たしちゃって、死んだばかりのわたしを呼んだんだと思う。自分の代わりに、紫月の隣に居てくれるように。そうして、わたしは紫月と会って、一緒に居ることにした。あの子、どうしようもなく独りぼっちだったから」


 福井から既に聞いていた話だ。


 家から出されることもなく、ずっと彼女は独りで、いや、陽と一緒にいたのだろう。


「それで、紫月は、あの鏑木かぶらぎって人に引き取られたんだけど……」


 ふと、朝那が表情を曇らせる。


「戒くん、鏑木についてどのくらい知ってる?」


華屋はなやという犯罪組織に所属している疑いがある、と」


「そうだね……。合ってるよ。でも、本当はもっと酷い」


 朝那はその表情のまま、更に続ける。


「華屋は鏑木が作った。紫月みたいな子を集めて、お客を取らせる仕組み。その管理をしてる人たちが、華屋」


「……それは、紫月が?」


 戒が訊くと、朝那は首を横に振った。


 ではどうやって知ったというのか。この部屋にいつの間にか入っていたように、人ではない身を活かして内偵でもしていたのだろうか。


 朝那は少しの間口をつぐむと、不意に笑みを浮かべた。


「ごめん。ちょっと、怒られること言うね」


 ふにゃりとした、無理をしているときの笑い方だ。


 それを見た瞬間、戒の脳裏で繋がった。恐らく、朝那は紫月の前でもこんな笑い方をしたのだろう。……道理で、酷く似ているわけだ。


「わたし、全部分かってたの。神様になったときから。鏑木が、そういうつもりで紫月を引き取ったことも、紫月が心を許してしまって、鏑木に従うようになることも。……鏑木を殺すでもしなければ、その呪いが解けないことも」


「……まさか、朝那が淡島あわしまに頼んだのか?」


「うん。少彦名すくなひこな様に、わたしが頼んだ」


 沈黙が二人の間に流れる。


「いやー、これでわたしも人殺しだね。まさか死んだ後にそうなっちゃうなんて……」


「朝那。無理しなくていい」


 戒は下手に喋ろうとした朝那を制止する。


「全て分かっていたというなら、そうするのが最善だったんだろう?」


 朝那は首肯するも、視線を落とす。


吉原事変よしはらじへんの後、鏑木が来なければ、紫月はどうすることもできずに、あの部屋で飢え死にしてた。鏑木は紫月を商品としか思ってなかったけど、だからこそ、ちゃんと教育した」


 紫月は戸籍も身寄りもなかった。鏑木から逃げ出したところで、然るべきところに保護されれば良いが、より劣悪な環境に身を落とす可能性もあった。


「こうなるって、知ってたのにね」


「……因果応報だろう、あの男のことなら」


 他人を利用してきた人間の末路としては相応しいとすら思う。少し危険な考えかもしれないが、少なくとも今は、そう思えてしまった。


「因果応報なんて、わたしに言っちゃう?」


 不意に、朝那が困ったように笑う。


「因果がどうなるかなんて、大体分かっちゃうのに」


「全部分かってた、って話か?」


「そう。私は死んでるわけだから、本当は身体がないわけでしょ。だから時間だとか空間だとか、そういう概念がないの。時間も空間も物理的なものだから。わたしみたいな神様って、ただ因果だけの存在なの」


 朝那の言い出したことが突飛すぎ、戒は黙って聞くしかない。


「本当は、死んだ瞬間のわたしも、紫月と話しているわたしも、今こうしているわたしも、どれが先でどれが後ということもないの。時間という概念がないから」


「……じゃあ、この先のことも分かるのか?」


 そう訊くと、朝那はなぜか小さく吹き出した。


「ほんと、戒くんは情緒がない。いっつもそう」


「もう手遅れだろうな」


 戒も釣られて少しだけ笑う。


「二十歳を過ぎると、人間は殆ど変わらないらしい。……それで、どうなんだ」


「……分かるよ。でも、言えない。言えないの。因果が変わるかもしれないから」


 そこに来て戒は、初めて弱音を漏らす。


「分からないんだ」


「うん?」


「紫月の気持ちだ。いや、歳の離れた少女の気持ちなんて分かるのは稀だろうけど。せめてどう言葉を掛けたものかぐらいは分かればいいのに、それもさっぱりだ」


「相変わらず優しいね、戒くんは」


「本当に優しかったら、逃げ出されてなんていないだろ」


「優しいって。だって、何をしでかすか分からない、生箭日女いくさひめの力を持った女の子が脱走しちゃったわけでしょ。そんなもの力づくで捕まえれば良くない?」


「それは……。実際問題そうだろうけど」


 それでも、と戒は思う。そんなやり方をしたくない。あんなに苦しそうに泣いていた紫月にだけは。


 一方で、朝那はそんな戒をにやにやしながら見つめていた。


「じゃあさ、もう抱きしめちゃえばいいじゃん。それでこう、耳元で愛を囁く……的な」


「もしかして俺を刑務所に入れようとしているのか?」


「いやまあ、冗談だけど」


 しかし、そう言う朝那の表情は、完全にふざけているわけでもなさそうだった。


「でも、方向としてはこんな感じのことなの。今の紫月に必要なことって」


「……いや。やっぱり、分からないよ」


 それでも、戒は首を横に振った。


「話してみて気付いた。俺には何もないんだ。俺は、朝那の言動をなぞっていただけだった」


 紫月を気に掛けていたのも、とよ様に軽口を返していたことも、そもそも生箭日女のために戦ってきたのも。全てはただ、朝那の真似でしかなかった。彼女を前にした今なら分かる。


「今更そんなこと言っちゃう?」


 そうだ、今更だ。戒はもう少年ではないのだ。大人はそうそう変わらない。


「もうきっかけなんてどうでもいいと思うよ。何年もそうしてきたんでしょ?」


 わたしのせいなんだけどさ、と朝那は頬を掻いた。


「戒くんがどう生きてきたか、知ってるよ。戒くんはさ、新人の生箭日女を面倒をちゃんと見るし、軽口も叩けて、しかも裏では穢れも祓っちゃうヒーローなんだよ。始まりは関係ない。今の戒くんはそう」


 そう言う朝那は、随分と嬉しそうだった。


「……だから、そう。玉砕してきなよ」


「玉砕したら駄目だろうが」


 褒め言葉を無に帰すような発言に、戒はまた笑う。


「全く。本当に変わってないな。いつも無茶ばかり言う」


「変わらないよ。神様は変わらない。変わるのは人だけ」


 少し寂しそうに朝那は言った。


「でも、戒くんも変わらないね。分かってたのに、びっくりした。あの日のままだもん」


「変わらないようにしていたんだ。もし君が帰って来ても分かるように」


 ピアスも髪型も、戒のおおよそ社会人らしくない装いの理由はそれだ。


「……ごめん。長かったよね。でも、そうしなきゃだった」


 戒から目線を外し、朝那は夜の街に目を向ける。


「もし、だよ。わたしが、すぐにこうして顔を見せてたら。戒くんは護衛課の仕事続けた?」


 今の戒なら、その答えはすぐに分かった。


「続けていないだろうな。朝那の姿を追う必要がなくなるわけだから」


「うん、だから、会わなかったの。紫月は、戒くんと会わなきゃだった」


 夜空を見たまま、朝那は微笑む。


「でも、嬉しかった。あの日のままの戒くんで。顔見て安心した」


 そして、再び戒を見る。


「……ありがとね。でも、駄目だよ。そんなことしちゃ」


 戒も、それは分かっていた。いつか巴が言っていたことだ。その後、しばしの沈黙が流れた。しかし今度のそれに気まずい雰囲気はなく、二人はただ、街の喧噪を聞いていた。


「……わたしね、紫月とお別れしてきたの。多分、そのせいだと思うんだよね」


 今度は朝那が話題を切り出した。


「気付いたらこの家に戻って来てたの。神産かみうみっていう力を持ってる紫月との縁が薄くなっちゃったから、一番縁の濃いこの家に引っ張られたんだと思う」


「お別れ?」


 戒が訊くと、朝那は頷く。


「鏑木を殺すように頼んだのはわたしだって言った」


「……それでか」


 戒は内心で頭を抱える。


 唯一の家族が殺され、その黒幕が五年間一緒だった存在だとなって、まともな精神状態でいられる人間などいない。しかし同時に、黙っているというのも酷な話だ。


「最初から決めてたの。わたしが紫月と一緒に居るのはそこまでって」


 その声は、酷く寂しそうだった。


「……楽しかったんだな。紫月と一緒にいたこと」


「それはもう、めっちゃ。わたし、ずっと妹欲しかったんだよね。お母さんもお父さんもいなかったけどさ」


「初耳だ」


 すると、朝那は戒を見て微笑む。


「戒くんがいたから、別に良かったの」


 そして、目を瞑って言った。


「今度は、紫月がそうなる番。なれる番なの。……だから、戒くん。よろしくね」


 朝那は立ち上がると、戒へと顔を寄せた。懐かしい匂いが鼻孔を突く。


「わたし。もういかないと」


 そう言って朝那は、戒の左耳のピアスを外した。


「……そっか」


 引き留める言葉など、百でも二百でも出てきただろう。しかし戒は、それを飲み込んだ。


 それがあるべき形であり、現実なのだ。五年もあった。理解できる。できてしまう。


「紫月によろしくね。あなたのせいじゃないって、ちゃんと伝えて」


「……ああ」


 朝那は大きく息を吸って、吐いた。


「ばいばい、戒くん。大好きだったよ」


「俺もだ。大好き――だった」


 朝那の姿が、霞のように薄らぎ、消える。


 その後に、戒はようやく、嗚咽を漏らした。




 カラン。


 同時刻、日女ひめ神社境内、実動祭祀部本部の一間。


 そこで保管されていた、戒の使う白木の鞘の刀が、刀掛けの上から転がり落ちていた。


 水晶の刃を備えていたはずのそれは、ただの鞘と柄だけになっていた。


 刃が消失したそれを、小さな手が拾い上げる。その手の主は、この日女神社の主であるとよだった。予感めいたものがあり、刀の様子を見に来ていたのだ。


「……逝かれたのですね」


 彼女は目を伏せ、それだけ呟いた。

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