第26話:紫陽花
同日、夜。警視庁庁舎内、実動祭祀部東京支部、会議室。
無機質に机と椅子が並ぶその部屋の中で、
本当は今日、
服は既に着替えていた。と言っても、大きめのパーカーを羽織っただけだ。
こんな最低な自分になど、何も施されるべきではないのだ、と。
いつの間にか、紫月はそんな考えに陥っていた。
――母の死を願い、見殺しにした。それを忘れようとした。穢れた存在なのに、浮かれて、あの人の気を引こうとした。
だからきっと、罰なのだ。
――父親を殺された。あの人に、穢れた生まれを知られた。
「罰なんかじゃないよ」
不意に隣から声がして、紫月は顔を上げる。
そこには、行儀悪く机に腰かけた夕が、優しく微笑んでいた。
「夕……。どうして」
夕と家以外の場所で話すのは初めてだった。陽と居たときは家から出たことがなく、夕は家でしか姿を現さなかった。
だから、紫月は勝手に、自分だけの友達は家でしか現れないのだと思っていた。
「実はね、私はあなただけの友達じゃないの」
「え……」
夕はゆっくりと手を伸ばし、紫月の頬に触れる。
「触れてるでしょ?」
紫月の脳裏に、五年前のある一瞬が蘇る。
「紫月は、
自嘲気味に笑って、夕は手を離す。
「それでも、自分の好きに動くことはできる。例えば、あなたのお義父さんを殺してくれるように、別の神様に頼んだり」
その言葉を聞いた瞬間、紫月は、視界がぐにゃりと歪んだような気がした。
本当はそんなことしてないよね、だとか。どうしてそんなことをしたの、だとか。言うべきことはあるはずだというのに、紫月の口は、ただ呼吸しかできなかった。
「そうじゃないと、あなたはあの男に、死ぬまで使われることになっていた」
「お義父さんは……」
そんなことをしない、と。紫月は本心からそう思うことができなかった。
紫月は、
また、いつか自分も、母のような仕事をするのだろうと、ぼんやりと予感していた。
そして、それが恩返しになるのなら、それで良いと思っていた。
「だから、殺した。あなたにそうなって欲しくないっていう、わたしの願いのために、わたしがそうした。罰なんかじゃない」
しかし、紫月には、そう思うことなどできなかった。
「やっぱり、罰だよ。……
紫月の目には、結われた夕の髪の隙間から覗く、右耳に下がる青いピアスが見えていた。
「…………」
今まで違和感がなかったといえば嘘になるだろう。陽は紫月と共に成長して、陽としての人格を得ていた。しかし夕は、出会った時から夕だった。
「そうだよね。わたしなんかを、戒さんの近くにいさせたくないよね」
戒から朝那の話を聞いたことは数えるほどしかない。しかし、戒がどれだけ朝那を想っていたかは、今の戒を見れば分かる。分かってしまう。
そして、今まで一緒に居てくれた夕だからこそ、人の思いを無下にするような人間ではないと、つまりは朝那もまた戒のことを想っていたに違いない、ということも。
「……ねえ紫月。わたしは」
「朝那さん」
何かを言おうとした夕――佐城朝那を、紫月は遮る。
「戒さんは、ずっとあなたのことを想ってます。だから、もう一回会ってあげてください」
その言葉遣いはもう、夕という慣れ親しんだ存在に対するものではなくなっていた。
朝那はそんな紫月に対し、ただ悲し気な視線を向ける。
しかし、紫月はそれに気付かず、ふにゃりとした笑みを浮かべ、続ける。
「わたし、いなくなりますから。……お母さんのことも、知られちゃいましたし」
紫月は戒のハンカチへ再び視線を落とすと、それをぎゅっと握って、再度朝那を見た。
「ばいばい、夕」
そう言った瞬間、朝那の、夕の姿が霞のように掻き消える。
神産みに願われた存在は、神として存在が確立する。その逆もまた、然りだ。
そして紫月は、消えた夕と入れ替わるようにして、ある懐かしい気配を感じ取る。
「……そっか。ずっと、いたんだね」
そう呟いたのも束の間、コンコンと会議室のドアがノックされた。
「落ち着いたか?」
現れたのは戒だった。手にはホルダーに入った紙コップがある。
「……はい」
戒とは視線を合わせないまま、紫月は頷く。
「ココアだ。せめて、何か腹に入れた方がいい」
紫月の前に、甘い湯気の立つ液体が置かれる。
紫月はあの後、夕食も食べず、水分もまともに摂っていなかった。
「あの、戒さん、これ」
しかし紫月は、ココアに口を付けることもなく立ち上がった。
「ごめんなさい。ずっと、返し忘れてました」
そう言って、紺色のハンカチを差し出す。
「ああ……、あの時の」
戒はそのハンカチにあまり見覚えがなく、思い出すの少しかかった。
思い返せば、紫月と初めて会ったのは随分と昔に感じる。
「紫月?」
それを受け取ろうとした戒は、紫月の両手が震えていることに気付き、その手に触れようとした。身体が冷えているのではないかと思ったのだ。
戒は気付けば、彼女の身体に触れることに、何も抵抗が無くなっていた。
「……っ」
途端、紫月は声にならない悲鳴を上げ、手を引っ込める。
行き場を失くしたハンカチが、会議室のカーペットの上へ落ちる。
「触っちゃだめです、戒さん」
紫月は、戒の指が僅かに触れた手の甲を抑える。
「わたし、穢れてますから。うつっちゃいますよ」
紫月が何を言っているのか、戒には分からなかった。
いやそれよりも、涙を流しながら微笑んでいる彼女に、戒の理解は全く追い付かない。
そんな戒を放ったまま、紫月はゆっくりと後退る。
「やっぱり駄目です、わたしなんかじゃ」
その後ろに、何者かが立ち現れた。歳頃は紫月と同じ。
それと同時、会議室にどこか静謐な空気が満ちる。程度は比べるまでもないが、その気配は、
「タルパ……? いや……」
固まりかけた思考の中、戒はその存在に勘付く。とよが言っていた、紫月が生み出したイマジナリーフレンド、そこから生じたタルパ、そしてそれが昇華した、紫月だけの神。
「ごめんね、陽ちゃん」
「……大丈夫」
陽と呼ばれた少年は、紫月へ優しく声を掛ける。その瞬間、少年と紫月の背後の窓硝子が、誰も触れていないにも関わらず外へ向けて粉々に弾け飛んだ。
紫月が、再度戒を見て言う。
「さよなら、戒さん。今日、とっても幸せでした」
紫月は一歩二歩と更に下がると、窓の外に身を投げた。
陽もまたそれを追って夜の空へ跳ぶ。
「紫月……!」
慌てて戒は窓に駆け寄る。
焦っている戒は、未だに気付いていなかった。紫月の神が男だったということが、何を示すのか。
「来て、陽ちゃん」
落下する最中、紫月は陽へと手を伸ばす。
「「――合一」」
陽の姿が消え、紫月の姿が変わる。
服装はパーカー一枚のままだが、薄紫色をした茎と葉、そして小さな花弁の集まった花の紋様が身体中に刻まれ、頭の脇にはその紋様と同じような花飾りが生じる。
そして、彼女の胸の部分から猛烈な勢いで幾本もの
すると、その蔓は瞬く間に縮み始め、大きな繭を作っていたことが嘘だったかのように、繭の中心に居た紫月の胸へと吸い込まれ、消えていった。
そして、傷一つない状態で歩道へと降り立った紫月は、迷うことなくどこかへと歩道を駆け出して行く。
「……
一方、戒だけが取り残された会議室では、物音を聞いた
「ちょっと。何、これ」
そして、巴は会議室の状況を見て唖然とする。
しかし本当に驚いていたのは割れた窓硝子ではなく、部屋に残るその気配だった。
「神様……? いやそれにしては何か……ていうか合一したわけないし、そもそも短刀渡すわけ……、ねえ一色さん、紫月ちゃんどこ行ったの?」
戒はゆっくりと振り返る。ようやく、何が起こったかを理解していた。
「上代が合一しました」
「え、そんなわけ……」
「
「待ってよ。いや、そうだとすれば分かっちゃうんだけど……でも、なんで」
戒は首を横に振る。全くもって分からない。分かるわけがない。なぜ天は紫月の神を女だと言ったのか。どうして彼女は合一し、そして自分に別れを告げたのか。
しかし、戒はすぐさま思考を切り替えた。
「上代を追わなければ」
「お、追うって」
「上代が窓から飛び降りて逃げたんです」
「え……ええ?」
「大野課長か日比谷さんへ伝えて下さい」
戒は、巴の脇をすり抜けて会議室を飛び出すと、下行きのエレベーターへと駆け込んだ。そして一階へ着くと同時に外へと走り出し、紫月が落ちたであろう場所へと向かった。
そこには、割れたガラスが散らばっており、すでに庁舎から出てきたであろう警官や刑事が右往左往していた。戒はその中の手の空いていそうな人間に片端から声を掛け、紫月の行先を聞いて回った。
しかし、紫月の姿を見ていた人間は誰もいなかった。
戒がただ焦りばかりを募らせていたその時、不意に戒の携帯電話が鳴動する。
「はい、一色」
『大野だ。
「……見失いました」
『分かった。……戻ってきて報告をくれ。来栖の話じゃ分からん。そうしたら、今日はもういい。帰って休め』
「しかし」
『別にお前を思い遣ってるわけじゃねえよ。お前の仕事は上代が見つかってからだ。その時にへばっていたんじゃ話にならん』
それは何らかの説得をすればいいということだろうか、と戒は悩む。
紫月と、紫月自身の神が合一した生箭日女。それは天にも
しかし、逃げ出してしまった紫月を見つけられたとして、どうすればいい。そも、なぜ紫月が逃げ出したのかすらわからないというのに。
「……了解しました」
戒は喉元まで上がってきていた多くの言葉を飲み込み、それだけ答えた。
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