第19話:汚泥の中に生まれ落ちて
「最近よく見てるよね」
某日、夕暮れ、
紫月は、夕に声を掛けられ顔を上げた。
彼女は紫月と向かい合って壁に
「写真」
「……うん」
茜色に染まる部屋の中で、紫月は眺めていた写真を脇へ置く。
彼女の部屋は、ごく簡素なベッドと学習机があるのみで、年頃の少女らしいものは何一つといって置かれていない、十代半ばの少女には全く不釣り合いな、寂しいばかりの空間だった。
そして、その眺めていた写真もまたそうだった。
今となっては珍しい銀塩写真。それに写っているのは、四十も過ぎたほどの小太りの男と、濃い化粧と露出の多い服を着た若い女だ。撮られたのはどこかの温泉街のようである。
その女は、紫月の母だった。
男の方は、名前も知らない。父であるかどうかすらも。
写真の右端の日付から、紫月が生まれる前だろうことは判るものの、それだけだ。
「ねえ、夕」
呟いて、紫月は膝を抱えた。
「
夕は黙って腕を組んだ。その表情が僅かに曇ったことに気付かず、紫月は続ける。
「憶えてる。お母さんと住んでたところも、そんな名前だった」
紫月は自分の脚を強く抱きしめる。
「でも、お母さんは死んで『陽』も消えちゃった」
「そして、わたしと紫月が会った」
「多分、その日が」
紫月は膝に顔を埋める。
視界に何もなくなり、真っ暗になる。そうすると思い出すのは、決まって昔のことだ。
狭くてゴミだらけだった、あの部屋の。
『可哀そうだから産んであげたの』
紫月が憶えている母の言葉の中で、一番に思い出すのは決まってそれだ。
母は娼婦だった。
多分、世間的にはキャバ嬢だとかホステスだとか、もっと迂遠な言い方があったのだろうが、紫月本人は、どこで聞いたのかも憶えていないそんな言葉こそ、母を表すのに相応しいのだと思っていた。
そんな母が紫月に掛ける言葉の多くは『紫月』という名の、本来の持ち主のことだった。
ドラマか、アニメか、何かの登場人物だったらしい。小説や漫画ではないはずだ。紫月と母の住んでいた部屋に、本は一冊もなかった。
『紫月』という名は、その架空の人物から貰ったものだった。
格好良い人、媚びない人、自分で道を選べる人。母が語る『紫月』はそんな女性だった。だが、母はそんな人ではなかったし、紫月もそんな風に育てらなかった。
いや、そもそも紫月は、育児と呼べるものをされた記憶がない。紫月は、母にとって邪魔でしかなかった。
母は虫の居所が悪くなると紫月を罵り、ぶった。だがそれは、テレビで見るニュースで流れる虐待事件に比べれば、頻度も程度も低いものだった。そもそも、声を掛けられることすら稀だった。
だから紫月は、母は優しいのだと思っていた。
それは、紫月が数えるほどしかその部屋から出たことがなかったのもあっただろう。
食事が菓子パンばかりなのも、自分の服や靴がないのも、お湯の出ない風呂も、ランドセルがないのも、全く不思議ではなかった。
母は昼間は寝ていて、夕方に起き出して出かけていく。帰ってくるのは決まって朝で、何日も帰ってこないことも多かった。
紫月は、母の寝ている間、ごく小さな音量でテレビを見るか、『陽』と遊んでいた。
『陽』は、男の子で、いつの間にか紫月の傍にいた。元は馬のぬいぐるみだった。いつだったか、女の子なら良かったなと言うと、申し訳なさそうな顔をされたのを憶えている。
どのくらいの歳のことだっただろうか。真冬の夜だったことは確かだ。高熱を出して寝込み、母もいない部屋の中で、眠ることもできずに震えていた時のことだ。
突然声が聞こえて、毛羽立った毛布の中から周りを見渡すと、床の上に転がったそのぬいぐるみと目が合った。
喋っていたのはそれだった。
どんな言葉だったのかもう忘れてしまったが、励ましてくれていたことは分かった。
翌朝目を覚ますと、熱は引いていた。
夢だったのかと思って馬のぬいぐるみを探すと、昨晩と同じ場所にまだ転がっていて、そして再び話しかけて来た。
それ以降、紫月は母親の目を盗んで、そのぬいぐるみとお喋りをするようになった。
話すのは大体が他愛もなく、また今の紫月が思うには内容もないことばかりだった。それでも、ぬいぐるみは付き合ってくれた。
いつしか、紫月はぬいぐるみに名前を着けた。
彼自身が、名前を欲しがったのだ。そのぬいぐるみには背中に名前が書かれていたが、それはぬいぐるみそのものの名前ではなく、元になった馬の名前だったからだ。
紫月は丸一日考えて『ヨウ』と名付けた。その名前にした理由はもう忘れてしまった。
『陽』と字をあてたのは、もっと後――そのぬいぐるみが、汚くなったからと母に捨てられてしまってからだった。
ぬいぐるみが家から無くなってしまっても、陽はずっと紫月の傍にいた。
気付かない間にぬいぐるみを捨てられてしまい、紫月は陽が死んでしまったと思った。そうして泣き叫んで、母にぶたれて。そうしていると誰かが紫月の手を取ったのだ。
紫月と同じ歳頃の、白い肌の男の子だった。その子が陽だというのはすぐに分かった。
もう僕だけでも大丈夫みたいだ、と彼は言っていた。ぬいぐるみはあくまで入れ物なんだ、とも言っていたが、その時の紫月には意味が分からなかった。
ともかく、そうして紫月と陽は再び、母の目を盗んでお喋りをするようになった。
――その日が来たのは、それから間もない頃だった。
「……いけない」
突然、陽がそう言い出した。昼というには遅く、夕方というには早いほどの頃だった。
「陽ちゃん?」
紫月が訊くが、陽はそれには答えず、しばらくの間考え込むと、
「紫月。君は、お母さんのことが好きかい?」
突然の質問に、紫月はすぐに答えることができず、
好きだと言いたかった。しかし、本心はそうではなかったのだ。
「……うん、分かった」
陽は紫月の無言を返答して受け取り、独り頷く。紫月が大きくなるにつれ、陽はこうして紫月の答えが言わずとも分かるようになっていた。
「紫月、よく聞いて。僕がこれから良いと言うまで、一言も喋ってはいけない。絶対にだ」
突然の発言だったが、紫月は疑うこともせずに頷いた。
既に紫月は十になろうかという年頃だったが、唯一の友人である陽の言葉を疑ったり、理由を問うなどという選択肢は持っていなかった。
陽がすっと横を向く。その視線の先には、布団を敷いて母が寝ている和室があった。
突然、和室から流行りの軽やかなメロディが響く。それは、母の携帯電話の着信音だった。
しばらくして、眠っている母が身動ぎする音がした。
「はい……。ええー、今から?」
掠れた声で母が不平を言う。これまでも何度かあった、店からの急な呼び出しだ。
だがその時は、異様だった。
「…………、……。…………」
陽が何かを喋っている。いや、声は発しておらず、ただ口を動かしているだけだ。
しかしそれは、幼い紫月にでさえ、母と話しているようだと分かるものだった。
「仕方ないなー、貸し一つね。……すぐは無理。支度するから」
母は偉そうにそう言って、和室から出てきた。
「お母さんもう出かけるから。お金置いとくよ」
母は化粧品が山のように積まれたテーブルの隅に五百円玉を置き、紫月に見向きもせずにそう言うと、そさくさと身支度を始めた。
「紫月、あっちに」
陽に促され、紫月は一応その五百円玉を握り、和室へ移る。
母には陽の姿が見えず、声も聞こえないことは、ずっと前から知っていた。
十分か、二十分かした後、母は家を出て行った。
そしてすぐ、玄関のドアの向こうから悲鳴が聞こえた。
「おかあ……」
「だめ」
紫月はすぐにドアへ駆け寄ろうとしたが、すぐ陽に制止された。
陽は、和室からでも見える玄関ドアの、ノブの部分にある鍵のシリンダーをじっと見つめていた。
「な、なにこれ……! ちょ、来るなよ!」
母の声が聞こえ、ドアが揺れる。後退った母の背中が当たったようだった。
その瞬間、勝手にドアノブのシリンダーが回り、ガチャンという音と共に鍵がかかった。
「えっ鍵? 紫月! 何してんの、開けて!」
母は家の鍵を持っていなかった。随分前に失くして、鍵の交換代がかかるのを
「大丈夫。聞かなくて良い」
陽がそっと紫月の耳を両手で塞ぐ。すると不思議と、周りの音が全く聞こえなくなった。
「……陽ちゃん。なに、あれ」
後から思い返せば、目も瞑っておくべきだったかもしれない。
紫月と母の住んでいた一室は、廊下側にも窓のある古い造りをしていた。その窓の向こうに、真っ黒な、人の姿をして、けれど人ではない何者かがいたのだ。
ケガレビトだった。今の紫月なら、すぐにそう分かっただろう。
紫月の視線の先へ、陽が振り向く。それと同時、ケガレビトもまた、こちらを向いたように見えた。
「紫月、見るな」
しかし、手遅れだった。
ケガレビトは明らかに紫月を認識していた。そして部屋の中へ入ろうとして、窓に頭をぶつけた。まるで
しかし障害物があることは理解したのか、窓をドンドンと叩き始める。
「陽ちゃん、陽ちゃん……」
恐怖でどうすることもできず、紫月は唯一の友達に助けを求める。
すると、その陽が、ケガレビトと紫月の間に割って入るように動き、紫月を真っ直ぐに見つめた。
「やっぱり、そう上手くはいかないみたいだ」
彼は悲しげに微笑むと、力強く紫月の手を引き、部屋の奥へと移る。その間も、窓を叩く音はずっと聞こえていた。
そして陽は再度、紫月の顔を見つめる。
「……紫月。君が穏やかに生きることを願っているよ」
それが別れの挨拶なのだ、と紫月が気づいたときには遅かった。
陽が紫月の目に優しく手を
――そして目が覚めると、部屋の中は真っ暗になっていた。
外の灯りも全く見えない、完全な暗闇だ。
それが布団を頭から被っているせいだと気づき、紫月は布団の下から這い出る。
しかし部屋の中は相変わらず真っ暗で、いつもなら部屋の中を薄く照らしている外の灯りもほとんどなかった。
「……大丈夫?」
突然闇の中から声が聞こえて、紫月はびくりと肩を跳ねさせた。
その声は、女の人のもので、しかし母のものではなかった。
暗闇に目が慣れてくると、その人物の姿がうっすらと見えてきた。
長い髪を緩く結った女の人だ。大人でも少女でもないような、
――その時、その人物が、非対称だが均整の取れた美しい衣装に身を包んでいたことに、紫月は
「だれ……?」
紫月がそう訊くと、その人は悩むような素振りを見せ、こう答えた。
「夕、かな。夕暮れの、夕。それがわたしの名前」
それが、紫月と『夕』との出会いだった。
「……
その日が、そうだったのだ。母が死に、陽が消え、夕と出会った、その日が。
「ねえ、夕。本当に、何も知らない? 陽のことも」
膝に埋めていた顔を上げ、紫月が訊く。
ずっと前に、一度訊いてはいたのだ。
『わたしは紫月から生まれた。気づいた時には目の前で毛布を被ったあなたが眠っていた』
その時は、そう言われた。だから、陽のことも分からないのだと。
「言ったでしょ。わたしは紫月だけの友達。紫月が知らないことは、わたしも知らないの」
そう答える夕の右耳――結われた髪に隠れたそこに、青いピアスが下がっていることを、紫月は知らない。
「そっか……」
紫月は俯く。
ずっと、気にしていることがあった。
陽は、紫月が言葉にするまでもなく、いつも彼女の思いや願いを汲み取って喋っていた。それは彼も夕と同じく『紫月だけの友達』なのだから当然なのかもしれない。
しかしそうなると、あの日の陽の行動は、紫月が母の死を願った結果ということになる。
それは紫月にとって、酷く受け入れがたいものだった。
母が自分を疎んでいたのは分かっている。しかし、食事をくれたのも布団を用意してくれたのも母だったのだから。
「ねえ、紫月」
そんな彼女の後ろめたい考えを断ち切ろうとするように、夕が明るい声を出す。
「そのこと、あの人に話してみたら?」
夕の視線の先には、机の上に置かれた紺色のハンカチがあった。
初めて会った日に借りたまま、ずっと返しそびれていたのだ。
「どうして?」
「あの人も、吉原事変で大切な人を亡くしてるんでしょ? 紫月の気持ちを分かってくれるかもしれないし」
「それは……無理だよ」
紫月は力なく笑った。
「知られたくない? お母さんのこと」
「……うん」
紫月は再び写真を手に取ると、手を伸ばして学習机の引き出しの中へしまい込んだ。
ホテルに泊まった時は、戒に隠し事をしたくなくていつか話すと言ってしまったが、そのいつかなど紫月は迎えられそうになかった。
知られてはいけないに決まっている。特に戒には。
こんな汚れた生まれのことなど。
「――以上が、上代紫月さんの生い立ちです」
お台場、日女神社。本殿内。
警視庁捜査一課の福井警視はそう言って、持っていた資料を、上代紫月の専属護衛――
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