第18話:若紫

「いや一色いっしきさん。何、それ」


「パンと水ですが」


 百合阿ゆりあの収録に紫月しづきが同行した日の夜。


 都内某所のファミレスで、かいはボックス席の前に座るともえに、凄まじく怪訝な顔をされていた。


 彼の前には、フォカッチャと言うらしいパンが数切れとお冷だけが置かれている。


「い、いやいやいや。パンと水だけどさ。何なの、金欠?」


「お金なら余っています」


「はー、そんな台詞一回でいいから言ってみたいなあー! ……じゃなくてさ」


 巴は溜め息を吐いた。戒とは対照的に、彼女の前にはそのファミレスの定番メニューであるドリアとサラダが並んでいる。


「味分かんないのって、ほんとなの?」


「……ええ」


 戒は、ほとんど味を感じない。匂いもそうだ。だから紅茶の味など分かるわけもないし、食事もただの栄養補給に過ぎない。五年前からだ。


「ねえ一色さん。あたし以外、食事に誘っちゃだめだからね」


「……? 分かりました」


 巴の言ってくれている言葉の真意を全く理解せず、戒は頷く。


「で、紫月ちゃんの件で相談って?」


「大小と二つあるのですが、まず小さい方から」


 戒は、周囲を少し見渡してから、声を抑えて続けた。


「こんなところでする話でもないのですが、神産かみうみの件です」


「ああ、あれ? あたしも聞いてるけど」


「実のところ、信じられないのです。なまじ上代のそばにいただけに。とよ様の言うタルパなど、私は感じたことがない」


「うーん……」


 ドリアを口に運びつつ、巴は思案する。


「あたしもないかな。この二週間だけしか一緒にいないけど」


「そうですか」


「……訊いた割りにはあっさりしてるね」


来栖くるすさんが分からなければ、今悩んでもどうしようもありません。何せ私には手掛かりとなるような心当たりが全くない。ないから、とよ様の話も信じ難い」


 とは言いつつ、その口調に深刻さはない。とよの話が信じ難いのはそうだが、それと同時に、戒にも巴にもとよが嘘を言うことなどないという信頼があるからだ。


「差し迫った問題は、もう一つの方なのですが」


 戒は事務的に話題を切り替える。――そして、黙ってしまった。


「どうしたの?」


「いえ……。どういった言葉を使うべきかと。決して、自意識過剰ではないのですが……」


 すると、巴はにやっと笑って腕を組んだ。


「あ、分かったかも」


「流石に合点を打つのが早すぎるのでは」


「いやいや。その予防線の張り方では防衛箇所がばればれであろうというもの」


 ドヤ顔をする巴に心中でほんの僅かに苛立ちつつ、戒は続ける。


「……最近、上代かみしろとの距離がいやに近いのです。向こうが詰めてきているようなのですが」


「ふむふむ、それでどうなんだね?」


 何故かいやに楽しげな巴に溜め息を吐きつつ、戒はこう続けた。


「上代には、ネグレクトに起因するような精神性、特に成人の愛着障害の傾向があります」


「ネグ……。え?」


 巴が頓狂とんきょうな声を上げて体勢を崩した。


「なんで急にそんな話に」


「急ではないでしょう。上代はずっと、その兆候を見せていた」


 戒は、今まで彼自身が紫月に抱いてきたその疑念を列挙していった。


 同じ歳の子供と比べて小さく虚弱な身体、歳の離れた大人である自分との異常とも言える距離の近さ、そして淡島あわしま襲撃の日の夜に見せた夜驚症やきょうしょう、と。


「ていうか、一色さんがなんでそんなこと……って。そっか、元々大学がそういう学科だったんだっけ、朝那あさなさんも」


「ええ」


「紫月ちゃんて、今里親のとこで暮らしてるんだっけ」


「母親を亡くして、今の養父に拾われたと。実の父親のことは一度も口にしていません」


「見たこともないんだろうね。あたしと一緒だ」


 生箭日女いくさひめとなる少女はなぜか、そんな境遇の者ばかりだ。


「それで、私がどうするべきなのかというのが相談です。正直なところ、もう上代と適正な距離を保つ自信がないのです」


「そうだよね……。二十そこそこって、世間で言うほど大人じゃないもんね」


「何か誤解をされていると思うのですが。単に、私がそこまで踏み込むべきではないのでは、ということです」


「……続けて」


 何故か巴が呆れたような視線を向けてきたのだが、戒はひとまず言われた通りにする。


「最善なのは、上代に一度精神科か心療内科の受診をさせることです。次点で、養父との時間をより多く取ってもらう。現在の養父には少なくとも心を許しているようですので。ただ、生箭日女とはいえそこまでするのは、護衛課の分を越えている。かと言って彼女と距離を取るのは悪手でしょう」


「……ていうかさ。その適正な距離って、どのくらいなの?」


 唐突に訊かれ、戒は考え込む。


「良識と社会通念に従った距離……でしょうか。生箭日女と護衛との関係性は、あくまでも同僚のようなものです。その範囲を逸脱すべきではないかと」


「それだよそれ!」


 突然大声をあげて巴が身を乗り出した。


「来栖さん、外ですから」


「いや子供か!」


 言いつつ、巴は浮かせていた腰を再び据える。


「なんで逸脱しちゃ駄目なの? あたしはよく祈祷課の人と休みの日に遊び行ったりするし、中学の時の友達で、同僚とくっついた人なんていっぱいいるよ」


「それは大人と大人だからでしょう。双方に判断能力がある。だが上代は子供です」


「子供だっていうなら、大人が守らなきゃじゃん。そこまで気付いてるなら尚更」


「それを彼女の養父が良しとしなかったら?」


「そんなの……関係ないじゃん」


「ないわけがないでしょう。ましてや、異性同士なのです。要らぬ誤解を招く可能性も、それが実動祭祀部全体へ飛び火する可能性もある」


「はー……、わかったよ」


 巴は特大の溜め息を吐く。


「じゃあ、あたしの番」


 そして、戒にびしっと指を突き付けた。


「まず、紫月ちゃんはあなたのことが好きです」


 余りにも突然そんなことを言われた戒だが、眉一つ動かすことはなかった。


「こちらの関心を引こうとする行動がそう見えることはあるでしょう。他者の距離が極端に近い、或いは遠いのも、五歳までの愛着障害でみられる症状です。その傾向が今でも残っていたとしても不思議は……」」


「だからそうじゃなくって! いや、その愛着障害っていうのもあるかもしれないけど。でも絶対、それだけじゃないよ。見れば分かるもん」


「彼女とはまだ会って数ヶ月なのですが」


「関係ないよそんなの。あの年頃の女の子なんて、年上の男がかっこよくて仕方ないし」


「……それは夢を見ている、と言うことでしょう。彼女には申し訳ないですが、気の迷いのようなものです」


「それでも! 好きには違いないの。そこには誠実になって欲しい。それに、夢を見ているっていうなら、子供の夢を壊すのが大人?」


 そう言われて、戒はふと閃く。紫月が自分に夢を見ているというなら、夢を夢のままにしておくのが一番なのではないだろうか。


 愛着障害の件はまた大野なり日比谷なりに相談すれば良い。


 紫月との距離の取り方が判ったのなら、ひとまず御の字だ。


「そう……そうですね。方向性は掴めました。ありがとうございます」


「ホントに?」


 半眼で睨んでくる巴。実際、彼女の不安は当たっているのだろう。


 紫月の夢を夢のままにしておくことは、彼女に対して誠実とは言えない。だが同時に、組織に属する人間としてはそれが最善の手なのだ。


「……ていうかさ。前から言おうと思ってたんだけど」


 巴が再度そう切り出したのは、食事も粗方終わったところだった。


 戒のパンはなくなっているし、巴のドリアももう二、三口ほどしか残っていない。


「朝那さんのこと、さ。もう良くない?」


「…………。良い、とは?」


 辛うじて訊き返すと、巴は既に陽の落ちきった外を見つめていた。


「その、忘れようってわけじゃなくて。一色さん、ずっと縛られているみたいだから」


 ずっと外を眺め、戒とは視線を合わせないまま、巴は続ける。


「ちょっと前に日女ひめ神社に行ったとき、たまたまとよ様と会って、聞いたんだよね」


 いつものような明るさは見られない、訥々とつとつとした語り口だった。


「生箭日女が、あたしや紫月ちゃんみたいな人しかいない理由」


 いつしか、日比谷も言っていた。親がいない、或いは片親で不仲、酷ければ天涯孤独。生箭日女となる少女は、大抵がそんな境遇の者ばかりだ。


「とよ様も推測って言ってたんだけど、現世うつしよと関わりが多いほど、神様からすると合一がしづらいんだって。神様は、あっち側……常世とこよにいるから」


 現世と常世。または、此岸しがん彼岸ひがん


 常世とは神道において、神々と死者と、様々な魔の者が棲むとされる異界のことだ。


「それでね、一色さんも、似たような感じだって言ってたの。現世と関わりが薄いんじゃなく、自分から常世に、死んだ人に寄ろうとしているって」


「……そうかもしれませんね」


 頷く戒の左耳で、青いピアスが揺れた。


「生きてる人間が、死に寄ることは良くない。それは、誰だってそうでしょ」


「ええ」


「そう、だから。……これは戒さんだから言うんだけど。紫月ちゃん、いい子だと思うよ」


 巴が何を言わんとしているかようやく気付き、戒は内心で苦笑する。


「歳が離れすぎていますよ」


「待てばいいじゃん。ほら、源氏物語にさ、そんなのあったでしょ」


 冗談めかして巴が言う。だがその口調にいつもの切れはなかった。


「紫の上ですか。私は光源氏ではありませんし、それに」


 戒は視線を落とす。


 空になっていたコップに反射した顔は、土気色でぼやけていて、まるで亡霊だった。


「無理でしょう。今さら」

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