第13話:彼と彼女の夜・後


 ――かいが異変を感じたのは、紫月しづきが寝付いてから一時間も経たない頃だった。


 浅く、それでいて激しい呼吸の音がした。戒はすぐに目を開き、紫月の様子を確認する。


「紫月。どうした」


 彼女は横たわったまま目を覚ましていた。しかし、戒の呼びかけに答える様子はない。


「やだ……、やだ……。いい子にするから!」


 突然に紫月が叫ぶ。そのイントネーションは、幼い子供特有のそれに聞こえた。


「紫月?」


 訝しんだ戒は、ベッドの脇に膝を突き、紫月の肩を揺する。だが、起きる気配はない。そもそも、彼女の目は開いたままだ。


 その目に違和感を感じた戒は、じっと紫月の顔を覗き込む。


 日本人を基にしたアンティークドールがあったならばこうなるだろうとばかりの端正さと、それでいて可憐さのある顔立ち。だがその目は見開かれ、焦点は合っていない。


「泣かないから……。痛いの我慢できるから……。行かないでよ……」


「紫月! 紫月!」


 大声で呼びかけ、再度肩を揺する。だが、やはり紫月はそれに対して反応しない。


 戒は焦ることもなく、そんな彼女の様子を見て、僅かに目を細める。


 この症状は夜驚症やきょうしょうだろうか。睡眠時に叫び声をあげる、目を見開く、ベッドから逃げ出すといった行動をみせ、その間の記憶は本人にない。


 自らが眠れなくなったときにいろいろと調べ、その際に得ていた知識である。


「やだよ……、お母さんっ……!」


 紫月が掛け布団を跳ね除けた。そのままベッドから立ち上がり、駆け出そうとする。


 戒はそれを、跪いた体勢のまま抱き止めた。


 今は外に静岡県警の警官が警護に当たっている状況だ。もし廊下に飛び出して、赤の他人にそんな様を見られるのは、紫月のような年頃の少女にとって耐えられるものではないだろう。それに、そんなことになっては戒がどんな扱いを受けるか、戒自身にとっても想像したくないことである。


「お母さん……、わたし……、わ……た……」


 すとん、という擬音が付きそうなほどあっさりと紫月が再び眠りに落ちた。


 夜驚症の症状は、大抵が数分で収まるのだ。


「う……ん」


 戒の胸の中で、紫月が身じろぎする。どうやら、今回はきちんと目を覚ましたらしい。


「……ほひゅっ!?」


 と、戒がこれまで聞いたことのない奇声が紫月から出た。


「ああああああの……こ、これは」


「落ち着いてくれ」


 至って冷静なまま、戒は強張った紫月の体を離すと、ベッドに腰かけさせた。


「さっき突然起きて、部屋から飛び出そうとした。覚えているか」


「えっと……」


 真っ赤に頬を染めたまま、紫月は言い淀む。予想通りだが、憶えていないようだった。


「睡眠障害か何かで医者にかかったことは?」


 そう訊くと、紫月は気付いたようだった。


「もしかして、わたし、何か言っていました?」


「母親を呼んでいた」


「……わたし、まだ治ってなかったんですね」


 紫月は、戒から視線をらしつつうつむいた。


「よくあるのか?」


「少し前までは……。最近はあまりなかったんですけど」


「……俺で良ければ、話を聞く」


 夜驚症は、多くが強いストレスにより発症し、その患者は思春期までの子供が殆どだ。


 家庭環境が複雑であることは把握していたが、夜驚症ともなれば、複雑で片付けていいものではないかもしれない。彼女に何か、重大な負荷がかかることがあったはずだ。


「……ちょっと、今は」


 それを打ち明けて多少でも楽になるならば、と思ったのだが、紫月は言い淀む。


「いつか、話すのでっ」


「いや、無理に話さなくていい。そう他人に話すようなことでもないだろう」


 すると、紫月は今度は妙に寂しいような、どこかむくれたような表情になった。


 年頃の少女というのは、戒にとってはやはりどうにも難しい。


「……眠れそうか?」


「多分、ですけど」


 言って、紫月はもぞもぞと再びベッドに潜り込む。


「戒さん。もしまた……」


「大丈夫だ。見ている」


 紫月は、今度は嬉しそうに微笑んだ。


 ころころと変わる表情は、まるで、戒のとある記憶を呼び起こそうとするようだった。


 それから十分か二十分か。


 紫月が、もう何度目かになる寝返りを打つ。そして、その様を見ていた戒と目が合った。


「眠れないです……」


 夜驚症の症状とは関係なく、単純に目が冴えてしまったらしい。


「目を瞑っているだけでも、それなりに休める」


「そうですか……?」


 紫月はその後、やはり寝付けずにまた寝返りを繰り返したあと、おもむろに口を開いた。


「あの、戒さん。わたしのことを話さないでいて、あれですけど」


 ベッドの上に横たわったまま、紫月は戒の顔を見つめ、少しだけ言い淀んだ。


「……さじょうあさなさん、って誰なんですか?」


 戒は、紫月から目線を逸らす。


 どこかで訊かれるとは思っていた。心の準備もしていたはずだった。


「……あまり、楽しくない話だ。それでもいいか?」


 視界の端で紫月が頷いたのが見えた。


 戒は息を吐いて、心を決める。


 こうして誰かに聞かせるのは初めてだ。彼の周りには、事情を全く知らない人間か、全て知っている人間しかいなかった。


「最初に言っておくが、今から話す内容は、国の機密を含む。知らない生箭日女いくさひめもいる。だが、君は知っておいた方がいい」


 現時点で、それは戒の独断だった。だが、今からしようとしている話は、紫月が彼女自身のことを考える上で必要なことだと、戒は確信していた。


「俺は一つ嘘をついていた。この刀だ」


 戒は白木の刀を手に取った。


「これは経津主ふつぬし様が残したものじゃない。その生箭日女が死んだ際に残ったものだ」


「死……?」


 紫月が目を見開くが、戒は続ける。このことを話した以上、最後まで語るしかないのだ。


「ああ。それも、殉職だ。ケガレビトと闘って、死んだ」


 言葉一つを発する度、戒は何者かに心臓を掴まれているような感覚に陥る。


 しかし、その声色も表情も、やはりというべきか、変わることはなかった。


「その生箭日女が、佐城朝那さじょうあさな。俺の恋人だ」

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