第12話:彼と彼女の夜・前


『――災難だったな、一色いっしき


 夜。静岡県内のあるホテルのエントランス。かいは大野に携帯電話で報告を行っていた。


「真に災難なのは上代かみしろでしょう。前回に続いてこれですから」


『ただの不運と割り切ってもらうしかねえだろう』


 ……本当にそうだろうか、と戒は眉根を寄せる。


「大野課長。神産かみうみという言葉に聞き覚えは」


 本命は神産みだ、と。淡島新あわしまあらたと名乗ったあの男は、紫月しづきを見てそう言っていた。


『なんだ、伊邪那岐いざなぎ伊邪那美いざなみか?』


「……やはり、それしかありませんか」


 伊邪那岐と伊邪那美。多くの神々を生んだ、あらゆる者の祖といえる二柱の神だ。


「淡島新が、上代を指して神産みと」


『なんだ、そりゃ。何かを勘違いしたんじゃねえのか』


「それは無いかと。あの男は、紫月の契約相手が天之御影あめのみかげ様であることも知っていました」


『……とよ様に訊くしかねえだろうな。俺たちは昔からそうだ』


「もう一つ。国津神くにつかみに心当たりは。例えば、過去に争ったり、など」


『神々が相争うなんて重大事件に心当たりがあってたまるかよ。国譲くにゆずりだけで充分だぜ』


「ヤタガラスだった時も、ですか」


『……ああそうだよ。俺たちの相手は常にケガレビトだった』


 少しの間を置いて大野が答える。


『その名をあまり外で言うな。戻ってきたら、とよ様含めて会議だ。その時に聞いてやる』


「了解です」


『じゃあ、今日はもう休め。……と言いたいところだが、休まないよな、お前は』


「……ええ」


 戒は、まだ腰に差している二振りの刀を見下ろして呟く。


 加えて、彼の左腕には『近衛』と書かれた赤い腕章が着けられていた。祓以外で生箭日女いくさひめの警護につく護衛課職員が、帯刀を咎められないために着用するものだ。


 殺人犯に襲撃を受け、相手の足取りは不明なまま。護衛任務は継続中だ。


「専属護衛ですから」


 すると、電話の向こうで大野が笑った。


『板についてるじゃねえか。気に入ったか』


「……そうかもしれません」


 いつもの戒なら否定していただろう。好き嫌いという感情と、戒は久しく疎遠だった。


『ははは。そりゃ良いこった。お勤め頑張れよ』


 戒は携帯電話を懐に仕舞い、踵を返した。


 エントランスホールを抜けてエレベーターへと乗り込み、上階へ向かう。


 そのホテルは、静岡県警が紫月のために手配したものだった。


 紫月本人は怪我もなかったのだが、重度の緊張や恐怖で貧血じみた症状を起こしてしまっていた。そのため、夜間に東京まで移動するくらいならばここに泊まっていけと、県警がわざわざ手配をしてくれたのだ。


 だが恐らくは、面目を保ちたいだけだろう。連続殺人の容疑者が県内に入っていたことに気付かず、生箭日女が襲われてしまったことによって潰れた面目を、だ。


 事実、ホテルの外には私服警官が張っている他、紫月の部屋の階には警護員までいる。


 一晩しっかり護衛してやった、と。そのくらいの結果ですら欲しいようだった。


 エレベーターが止まり、ドアが開く。と、エレベーターホールに立つ警官と鉢合わせた。


「実動祭祀部、一色です」


 警官は帯刀している戒に一瞬驚くが、部署名を聞いて小さく安堵の息を吐いた。


「お祓い以外でも持っているんですね」


「……ええ」


 禍言祓まがごとばらえをお祓いと言われたことに微妙な認識の齟齬を感じつつ、戒は頷く。


「では、ご案内します」


「はい?」


 そして、眉根を寄せた。


「聞いていませんか?」


「何をでしょうか」


「上代紫月さんですが、現在女性の警護員が室内に付き添っています。ですが、どうやらあなたをご指名のようで」


 承諾も拒否もできず、戒は文字通りフリーズする。


 何を言っているんだ、とは紫月ではなく県警に対して感じたことである。未成年女子の寝室に男を通せなどという指示をした人間は頭のねじを締め直した方が良い。


 だがその大元が生箭日女の要求ともなると、考え方が変わってしまうのもまた一理ある。


 神様の力を借り、不可思議な力で穢れとやらを祓う――。一般人の理解からすれば、生箭日女とは雲上人のようなものだ。一部の生箭日女はタレント活動じみたことをしており、いわゆる芸能人であることも、そんな認識を補強してしまっている。


 だから、まだ未成年の少女が『専属護衛の男の人を自分の寝室に付き添いとして入れてくれ』などという要求をしたとしても、そういうものかと思考を止めてしまうのだろう。


「……分かりました」


 戒はため息交じりに了承する。ここで固まっていても仕方がない。諦めである。


 警官に連れられ、廊下の奥まで歩く。最奥の部屋のインターホンを警官が鳴らすと、中からスーツ姿の女性が出てきた。彼女が紫月に付き添っていた警護員だろう。


「ごめんなさい、私だとあまり力になれそうになかったものですから」


 彼女は、戒の顔を見るなりそう謝罪した。その一方で戒はというと、無表情のままだが面食らっていた。咎めるような顔でもされると思っていたのだ。


「何かあれば呼んでください。この階に待機していますから」


 そう言い残してその場を去る警護員の女性と警官を見送り、戒は部屋に入る。


「紫月?」


 灯りは既に落とされていて、間接照明の緩やかな光だけが室内を照らしている。


「……ごめんなさい。戒さん、疲れてますよね」


 紫月は、広いベッドの上でぽつんと身を起こしていた。誰かが買ってきたのかホテルのものなのか、無地のパジャマを着ている。


 ふにゃりとした笑みを浮かべるその目元は、薄暗い中でも分かるほどに赤くなっていた。


「悪い夢でも見たのか?」


 戒は剣帯から刀を外し、枕元のシングルソファに腰を降ろした。


「その……まだ、怖くて」


 紫月は俯きながら言う。


「すまない。君にばかり、怖い思いをさせる」


「そんなの、戒さんのせいじゃ……」


「いいや。俺たち大人のせいだ。こうして生箭日女に頼らなければいけないこと自体が」


 全て大人の責。紫月はまだ子供だ、気を病むことなどない。それが戒の考えだった。


「だから、こらえなくて良い。駄々だだねても良いんだ。あまり遠慮をするな」


 戒は、内心では泣いていた紫月に対し焦っていたのか、いつもより多弁気味だった。


 だが、なぜか紫月がむっとした顔をしていることに気付き、戒はらしくなく困惑する。


 何か気に障っただろうか、それともまだ背伸びをしたい年頃だったろうか。少なくとも戒自身が十四の頃はそうだったが、女性はもう少し精神が熟すのが早いはずだ。


「じゃあ……遠慮しません」


 紫月は何かを吹っ切るようにそう言い、もぞもぞと動いて戒の方へ身を寄せた。


「手、出してくれませんか?」


 訝しみつつ、戒は手を差し出す。すると紫月は彼の手、というか腕を抱きしめた。


「……紫月?」


 顔には出さず、戒は再び焦る。


 戒にもあてがわれていた別の階の部屋で、少し前にシャワーは浴びておいたため、臭ったりはしないはずだ。……恐らくは。


「あの……わたし、頑張れました、よね」


 それは、不安で不安で泣いてしまいそうな、そんな声だった。


「そうだな」


 柔らかな身体に抱きしめられている片腕のことはさておき、戒はゆっくりと言葉を紡ぐ。


「よく頑張ってくれた。見込んだ通りだ」


 すると紫月は再び笑顔を見せた。今日の祓の直後にも見せた、とびきり明るい笑顔だ。


「……それで、これは?」


 改めて戒が訊くと、紫月は戒の腕を更に強く抱きしめる。


 玩具を取り上げられそうになった幼子のようだった。


「これは、その……ご褒美です。……頑張ったので」


 紫月はまた笑顔を見せた。先ほどのものとは違う、無理をしているわけでもない、柔らかな笑顔だ。


「戒さん。また頑張れたら、褒めてくれませんか? 今日みたいに」


「……ああ。分かった」


 認められたかったのだ、と。やっと戒は理解した。


 彼女の家庭事情の詳細は戒には分からないが、母親を失ったことと、現在の里親とあまり親しくないということは察せられる。


 親からの愛情が欠如した結果、それを他へ求めるようになる。やりきれない話だ。


 と、その紫月の頭がかくんと傾いた。本人はそれに驚いて身を跳ねさせる。


「すいません……。何だか急に、眠たくて……」


 安心して、一気に眠気が来たようだった。


「……疲れているんだろう。横になるといい」


「でも……戒さんは」


「起きている。護衛の仕事だ」


「それは……。悪い……ですよ……」


 口ではそう言うも、紫月は舟を漕ぎ始め、いつしか完全に寝入ってしまった。戒の腕を抱きしめたまま。


 流石に同じ体勢を取り続けるのがきつくなってきた戒は、紫月の肩を叩いてみる。


 しかし反応は全くない。座ったままだというのに、深く眠っているようだ。


 仕方なく、戒はそっと彼女から自分の腕を引き?がす。


 紫月は、微かに声を漏らしたようだったが、やはり起きる様子はなかった。


 戒は驚くほどに軽い彼女の体を一度抱き上げて寝かせ、掛け布団を掛け直す。


 これでは執事だななどとと思いつつ、だが嫌な気もせず、彼は再びソファに腰かけた。


 刀は自らの肩に立てかけたまま、目を閉じ、しかし耳だけはそばだてたまま、彼は束の間の休息に入る。その様は、荒野を彷徨さまよう獣のようだった。


 眠れなくなってすぐの頃は頭痛などに悩まされたものだが、今ではもう慣れてしまった。


 目を閉じ、何も考えず、体を休めておくだけ。今の戒にできる、最大限の休息だった。


 夜は、少しずつ更けていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る