第14話:吉原事変

 ――それは、佐城朝那さじょうあさな生箭日女いくさひめを辞めることになる日の、一週間前ほどだった。


 辞めると決めたのは朝那自身だった。


 戒は後に知ったことだが、生箭日女となるのに必要な能力は二つある。一つは、神をその身に降ろす巫覡ふげきとしての才能。もう一つは、神を降ろした後に合一するための精神の柔軟性。巫覡としての才は天性かつ不変のものだが、精神に関しては、年齢を重ねて精神が熟するにつれ柔軟性を失っていく。


 長くて二十過ぎまで。それが生箭日女の期限だった。


「何か分からないんだけど、きついなって最近感じるんだよね」


 そう、朝那が言っていたのをかいは憶えている。


 夕暮れ時のことだった。二人は大学の構内で待ち合わせをして、一緒に帰っていた。


「……あ、やばいかも」


 突然、朝那が足を止めた。かと思うと、突然駆け出した。


「朝那?」


 咄嗟に戒もその後を追う。


「戒くんは帰って! 家から出ないでいて!」


 朝那にそう言われるも、戒はその後を追った。


「どうしたんだよ!」


 後から思い返せば、既に嫌な予感がしていたのかもしれない。


 朝那は最寄りの駅まで走り、電車に飛び乗る。戒もぎりぎりで同じ車両に飛び込んだ。


「帰ってって言ったじゃん」


「放っておけないだろ」


「放っておいて欲しいんじゃなくて、待ってて欲しいの」


「せめて事情を説明してくれ」


 はたから見たら痴話喧嘩な会話の中、朝那は少し逡巡する。


「実はよく分からないの。でも行かなきゃって気がする。経津主ふつぬし様がそう言ってるのかも」


「神様が?」


「うん。それで多分……すごく危ない。ぴりぴりしてる」


「そんなところに行くのか?」


 朝那は頷く。そして、周りに聞こえないほどの小声で言った。


「生箭日女だから」


 何度か電車を乗り換え、二人が改札を出た駅は、南千住だった。


 駅の南口から出ると、すでにどこか異様な雰囲気が漂っていた。


 街を歩く人は皆どこか浮足立っており、逃げるように走っている人もちらほらと見受けられる。走っている人は皆、雷門のある浅草方向から来ているようだった。


 そして、遠方からサイレンが聞こえている。警察のものも消防のものもだ。


 戒がその雰囲気に呆気に取られている間に、朝那は迷わずに駆け出した。戒自身も慌ててその後を追う。


 異変にはすぐに気づいた。かつては遊郭があり、今は風俗街となっている吉原へ続く通りが、警察によって封鎖されていた。


「佐城か!」


 二人が声のした方を向くと、裏通りからスーツ姿の男が走ってくるのが見えた。


 壮年を過ぎ、老人と言っても良いような年齢の男だ。しかし体躯はがっしりとしていて、衰えなど微塵も感じられない。当時の戒は知らないことだったが、後になって聞いたところによると、現実動祭祀部部長である大野の前任者だった。


 そして、彼は人目もはばからず、黒鞘の刀を差していた。


「そちらは……一色いっしきくんか」


 局長の男と戒は初対面のはずだったが、何故か知られていた。状況から判断したのか、身辺を調べられていたのか、それは既に分からないことだ。


「すまない。君はここで帰ってくれ。佐城は……戦えるか。悪いが説明する時間もない」


「はい」


 その言葉に、朝那は何の躊躇いもなく頷く。


「朝那」


 口を開きかけた戒を、彼女は留める。


「大丈夫だって。ご飯までには帰るから、ね」


 朝那はおどけて見せて、戒とお揃いの青いピアスを揺らして笑う。


「……分かった。多めに作っとくよ」


 朝那が頷いて、局長と共に裏通りの向こうへと駆けていく。


 それが、彼女の生きた姿を見た最後だった。


 翌朝、朝那は物言わぬ姿になって帰ってきた。生箭日女の姿のままで。


 彼女の亡骸の近くには、生箭日女の共通武装ともいえる水晶の打刀うちがたなが転がっていたという。


 戒の持つ白木の鞘の刀は、遺されたそれから刃のみを外し、再加工したものだ。


 その出自を大野や日比谷が考慮し、実動祭祀部内では戒以外がこの刀を振るうことは許されていない。


「――吉原事変よしはらじへん。知っている人間はそう呼んでいる。生箭日女一名、ヤタガラス……今の実動祭祀部で六名、一般人で十三名。それだけ死んだ。吉原事変そのものは隠蔽されたが、これを機に、生箭日女はその存在を公にすることになった。秘密裏に祓を続けるより、何もかも公にしてしまえばその方が動きやすく、生箭日女が危険な目に遭うことも減る」


 再び、戒と紫月しづきのいる真夜中のホテルの一室。


「吉原……」


 戒の話を聞き終えた紫月は、何か思案しているふうだった。


「一体、何があったんですか?」


「……幽霊は、信じるか?」


「えっ?」


 全くもって予想外の質問に、紫月は再び思案に入る。


「えっと……よく知らないですけど、ケガレビトみたいなものがありますし」


「そうだな。その認識で問題ない。……吉原というのは、江戸に幕府が開かれた頃に遊郭が建ち、それからずっと夜の街だった。しかも、当時の遊郭というのは劣悪な環境で、更に吉原は何度も大火に遭った。そこで命を落とした女の数は計り知れない。それこそ、心霊スポットなどという肩書で名を知られる程度には。吉原という土地には、死穢しえが――死そのものの残滓が染みついている。それはある意味、幽霊と言えるだろう」


 だが、死穢とは言うも、それは紫月が相対したケガレビトが宿していたような赤穢あかけがれとは性質が異なる。どちらかといえば黒穢くろけがれに近いかもしれない。だから生箭日女との相性が悪いわけではないのだが、問題はその量――蓄積されてきた時間だ。


 吉原遊郭が現在の場所になったのは一六五六年のことだ。


 穢れというのは、汚れが落ちるように時間と共に消えるものだ。だが、それを上回る速度で死穢が溜まり、吉原の土地に染み付いてきた。三百年以上も。


「それが、ケガレビトに……?」


「簡潔に言えば。吉原に設置されていた禍玉まがたまに、何らかの原因で土地の穢れが流れ込み、何の予兆もなく崩壊した。そして撒き散らされた幽質で、街にケガレビトがあふれた」


「その原因って、もしかして今日の」


「いや、それはないだろう」


 戒は紫月の言葉を遮る。


淡島あわしまという男は、やり方こそ過激だが、穢れを取り除こうとしているはずだ」


 だから恐らく、原因など存在しないのだ。


「偶発的なものだった……と思っている。事実、吉原は禍玉の許容限界が異常に早く来る地区だったと聞く。土地に残留した穢れはずっとそこにあったんだ。そして、そういった穢れというのは、不安定だ。誰かに認識されれば増大し、忘れられれば減衰する。幽霊というのも、そうらしい。だから、吉原事変のようなことが起きる可能性は、常にあった」


 誰かのせいだと考えるのは容易で、憎悪することも容易だ。しかしそれは無為なのだ。


 何者かが意図的に禍玉を決壊させたとして、そんな者がいなければ。或いは、あそこで当時の局長が朝那を連れて行かなければ。


 そんな考えにキリはなく、また憎悪は心を摩耗させるだけだ。


 禍玉の決壊はあくまでも事故なのだろうし、それに当時の局長もまたあの場で殉職したと聞いた。戒にとって吉原事変とは、それで終わった話なのだ。


 だからこそ、紫月にとっては問題である、と。戒はそう考えていた。


「生箭日女という仕事には、そういう危険が常につきまとう」


 少し、間を置く。


「怖ければ、辞めてもいい。誰も君を責めない。無理をする必要はない」


「……戒さんは」


 紫月のその声色に、戒は驚き、また慌てて、彼女を見る。その声は明らかに泣いていた。


「わたしが生箭日女を続けない方が良いって、そう思ってますか?」


 ここにいさせて、と。その泣き顔は、明らかにそう言っていた。


「……済まない。そういう意味はなかった」


 ひとまずそう言った後、戒は極めて慎重に言葉を選ぶべく、頭をフル回転させる。


 彼がここ数年で一番焦っていることは確実だろう。だからといって、それは常人と比べれば平静と変わりないだろうし、それは顔にも口調にも出ない。


「君が無理をしていると思っていた。最初の戦いも、荒牧あらまきと手合わせさせた時も、今日も」


「無理なんて、してないですよ。心配し過ぎです」


 涙の跡を頬につけたまま、紫月は力なく、苦笑じみて笑う。


「わたし、続けます。生箭日女」


 ――その表情こそ、無理をしている証拠なのだが。


「なら、良いんだ」


 しかし、内心とは裏腹に、戒はそう返した。泣かれてはもうどうしようもない。


「そういえば訊いていなかったが」


 とはいえ、このままでは以前の不調に戻ってしまうかもしれない。それを危惧した戒は、少し切り口を変えてみる。


「どうして、生箭日女になろうと思ったんだ?」


 戒自身が他人に全く興味がないというのもあり、ここまで祓を共にしてきて、今まで訊いたことがなかったのだ。


 生箭日女というのは、強制されてなるものではない。


 神の転生体であるとよ、或いは生箭日女と契約する神自身によって資質を持つ少女の存在が示され、実動祭祀部から接触はするものの、そこまでだ。後は当人に決めてもらう。生箭日女というものもれっきとした仕事の一つであるのだから当然だ。なるのも、辞めるのも、当人の意思次第である。余談だが、給料もそこそこ、いやかなり出る。


「恩返し、なんです。お義父さん……あ、鏑木かぶらぎさんのこと、聞いてますよね」


「名前は今聞いた。養父だ、とは」


「はい。わたし、前はお母さんと二人暮らしだったんです。でも、五年前に死んじゃって……。どうしようもなくなってたところを拾ってくれたのが、今のお義父さんなんです」


 親孝行だと言えばそれまでだが、孝行するのはもっと後でいいはずだ、とは流石に言わなかった。紫月のような少女がいなければ、生箭日女という存在自体が成り立たない。


「鏑木さんというのは、どんな人なんだ?」


 何となく気になって、戒は更に訊いてみる。


 脳裏をよぎったのは、紫月の初陣の夜のことだ。鏑木という言うらしい紫月の養父は、ついぞ日女ひめ神社に現れることがなかった。


「はい! 凄く良い人ですよ」


 紫月は途端笑顔になり、自慢げに言い切る。


 涙の跡の残る笑顔は、戒にはどこかいびつに見えた。もっとも、涙の原因は戒なのだが。


「忙しいみたいで、あんまり帰って来ないんですけど。とっても優しいんです」


 そう語る紫月はとても楽しそうで、戒は内心で胸をなでおろす。あの夜日女神社に来れなかったのは多忙が理由であり、それでも紫月の無事だけは確認したかったようだ。


 だが、新たに一つ気掛かりなことができた。五年前だ。


 朝那が死に、戒にとっても生箭日女という存在にとっても転機となった吉原事変。それが五年前。そして、紫月の母が死んだのも五年前。


 紫月という存在が現れてから、戒の周りも、生箭日女の周りも、変化してきている。


 戒は運命など信じていないが、えにしというものはあると思っていた。運命よりも緩やかで、しかしふとした瞬間に確かに存在を感じるような、人と人との無意識的な繋がり。それは、しかるべきとき、しかるべき者同士を、いつの間にか引き合わせる。


 ――実のところ戒は、生箭日女の専属護衛に就くのが女性であるという定石をひっくり返してまで、とよが紫月の専属護衛に自分を任じた理由は聞かされていなかった。


 だが確かなのは、戒と紫月の間には、何か縁が存在していて、それによってぽのずと引き合わされたということだ。


「嫌でなければ、だが」


 戒がゆっくりと問いかける。


「五年前に――」


 ――君の母に何があった?


 そう訊こうとして、戒は言葉を止めた。


 ホテルの窓から見える空が、にわかに白み始めていた。日の出はまだだろうが、それでも朝と言って差し支えないだろう。


 小首を傾げる紫月に、戒は首を横に振る。


「……いや。少し、話過ぎた」


 その時ではない、と何かに言われた気がしたのだ。縁などというものを考えていたせいで、その時の戒は繊細になっていたのかもしれない。


「朝が近い。遅いかもしれないが、少しでも眠っておいた方がいい」


「あ……ほんとだ。そうですね」


 紫月も窓を見ると、いそいそと掛け布団を被る。


「おやすみなさい、戒さん」


「ああ、おやすみ」




 奇しくも同時刻。東京、歌舞伎町。


 ベージュの背広に夜の匂いを纏った男は、路地裏で煙草をふかしていた。


 否、彼が手にしている煙草には、火は付いていない。ただふかしているような仕草をしているだけだ。それは、合図だった。


 男は目だけを動かして辺りを見渡す。まだ、それらしい人影は現れていない。


 それが判ると、今度はポケットからスマホを取り出し、チャットアプリを開く。


 ――――*****――――


苧環おだまき:少しいいか。近いうちに花を一つ足すかもしれない。


鬼灯ほおずき:構わない。また拾い物か?


苧環:いいや。弟切おとぎりの杞憂が杞憂で終わらなくなりそうでな。


弟切:でも今は今で稼げてるんでしょ? ほらあれ。アイドルみたいなやつ。


鬼灯:イクサヒメだ。


苧環:だからだ。外の世界と過度に関わられるのはまずい。


鬼灯:やめさせるのか?


苧環:必要があれば。だからこうして唾を付けている。


弟切:僕も構わないよ。水切りは?


苧環:かなり必要だろう。鬼灯、ラムネのストックはあるか?


鬼灯:余裕はある。問題ない。


苧環:済まないな。


弟切:水切りは僕がするんでいいよね。


苧環:考えている。


弟切:構わないだろ? 僕の仕事だ。


苧環:また連絡する。


 ――――*****――――


 丁度やり取りを切り上げると同時、自らに近づく気配を感じ、男は顔を上げた。


「……あ、あの」


 髪を鮮やかな色に染め、耳にいくつもピアスを付けた少年が、おどおどと男に声を掛ける。その手にはありふれた茶封筒が握られていた。


「ああ。苧環だ」


 その少年が何者で何を知りたいのか察し、男はそう答える。そして素早く辺りへ視線を配り、こちらを見ている人間がいないことを確認し、少年の茶封筒を取り上げる。


 苧環と名乗ったその男は、注視していなければ分からないほどに手早くその中身を改めると、中から一万円札を抜き出し、無造作に少年へ手渡した。


「お前、ここに向いていないな。ヘマをする前に帰ることだ」


 そしてそう言い残し、茶封筒を懐に仕舞って雑踏の中へと歩き出す。


 この街ではびくついている人間から食い物にされる。男の言うことは理にかなっていた。


「……尤も、帰る家があればだがな」


 男は煙草へ火を付ける。木を隠すなら森の中なのだ。何事も。

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