第3話:嘘と子供と大人の責任
辛くもケガレビトを討ったとはいえ、
そして、日付も変わった夜半過ぎ。戒はタクシーを拾い、
戒は、夜の海風に髪を受けながら
戦闘で気を失った紫月が、ここへ運び込まれているのだ。普通は病院に運ぶだろうが、ケガレビトから物理的な傷はほとんど負わされていない。問題は、全身に浴びた穢れの方だ。餅は餅屋であるように、霊的な損傷には霊的な治癒というわけだ。
なお、本来は神社に穢れを持ち込むなどもってのほかだが、今回は特例である。
「護衛課の
ひとまず、端にある庶務課の部屋の前で、障子戸越しに声を掛けてみる。
すると戸が開き、中年の女性が顔を見せた。恐らく、今日の当直だろう。
「……あ、お見舞いですね。話は聞いています」
どうやら、もう報告が実動祭祀部内で回っているようだった。
「とよ様から、あなたが来たら通すようにと聞いております。最奥の部屋です」
「……痛み入ります」
礼を述べ、長い廊下を奥まで進む。僅かに光の漏れている障子戸があったので立ち止まると、それには、陰陽課のものと思しき札が貼ってあった。ここで間違いないだろう。
戒が戸を開けると、中の座敷には布団が敷かれており、そこに寝かされた紫月がごく小さな寝息を立てていた。加えて、部屋の四隅には盛り塩がなされている。
「……こんな時間に乙女の寝所に、声も掛けずに立ち入るとは」
そして紫月の枕元に、薄い桃色の着物を着た
ちなみに、彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべており、先の言葉は十中八九冗談である。
「もうお休みになっているものと思いまして」
「おや、子供扱いするつもりですか?」
紫月を挟んだとよの反対側に、戒は腰を落ろした。
「お身体は紛れもなく子供かと」
「……今日ばかりは仕方ありません。彼女を酷な場所へ行かせてしまった責任があります」
言って、とよは昏々と眠る紫月の顔を見つめる。
「何があったか聞かせていただけますか」
「禍玉に、多くの
古来より穢れを生む行為の多くは血が流れるものだ。
実動祭祀部ではそれを、
人の肉体、とりわけ血が流れることから生じるものを赤穢れ、流血の伴わぬ
この二つは性質が異なり、特に大きなそれは、伝染性だ。赤穢れは、広まる。先日の戦闘で、ケガレビトに触れられた紫月がそうだったように、
そしてそれは、神と
しかしそもそも、
赤穢れの相手は、言ってしまえばイレギュラーだ。
「あの量は、尋常の人の営みでは生まれないでしょう。恐らくこの先は警察の仕事かと」
「……そうですか」
当然ながら、こんな事態が起きないよう、
そして、あそこまで多くの赤穢れの元となるのは、惨たらしい人の死ぐらいなものだ。それは大抵、殺人だとか無理心中だとか自殺だとか、事件という形で記録される。
だが、今回の禍言祓の対象地区で、そんな記録はなかった。しかし、事実としてケガレビトは多くの赤穢れから成っていた。
それが意味するところは、神社という清浄である場所で話すべきものではない。
「彼女の親は見えられたのですか?」
今度は戒が尋ねると、とよは首を横に振った。
「里親という方に連絡はしたのですが、無事であることを入念に確認されたのみで」
そういえば、苗字が変わったと言っていた。円満な家庭ではないのだろう。
――割りを食う人間はいつも決まっていて、それは大方、もう割りを食っている人間だ。
「……そんなに紫月さんのことを想っているのですか?」
突然そう言われ、戒は疑問の意味でとよを見つめた。
「眉間に皺が寄っていましたよ」
「……まさか」
戒は、笑うことも目を細めることも、声色を変えることもしなかった。
「感情など、あの日からどこにやったか忘れました」
というか、表情筋が凍りついた戒より、自らの状態が顔に出ているのはとよの方だった。
「いい加減、お休みになられては」
「まあ、やはり私のことを子供と思っているのですね」
「事実です。その瞼、畳に落とされるつもりですか?」
「もう……」
頬を膨らます姿は紛れもなく子供である。
「貴方はどうするのですか?」
「私は起きていても平気です。そも、眠れませんから」
戒は部屋の四隅の盛り塩へ目を向ける。
「見張られていたのでしょう? 穢れが、悪いものを呼ばないか。……代わります」
「貴方も休むべきなのですが、言っても聞かないのでしょうね」
とよは溜め息混じりに行って、立ち上がった。
「では戒さん。よろしく頼みます。日の昇る頃にまた来ますから」
「承知しました」
――それから数時間後。障子戸越しに微かに朝陽を感じるようになったころ。
紫月が静かに目を覚ました。
「……気分はどうだ?」
戒が話しかけると、紫月はぼんやりした目線を泳がせる。
「おはようございます……」
寝ぼけまなこのまま、紫月はもぞもぞと身を起こす。彼女は白の小袖を着ていた。
時刻が朝だったためか、何か勘違いをしているらしい。
「あれっ……?」
紫月が眼を見開いて、隣の戒を見つめる。
「痛いところはないか? それか、
「わたし、は……」
突然、紫月はがばっと掛け布団を跳ね除けると、戒に抱き着いた。
柔らかな香りが舞い、歳に不相応だろう弾力が戒の身体に当たる。当然、彼はそれに対して何も反応は示さなかったが。
どうしたのかと訊こうとして、耳元で小さな嗚咽が聞こえ。戒は口を
それはそれとして、会って間もない男に抱き着くという行動に思うところがあるが、それだけ追い詰められてしまっているのだろう。
紫月はそのまましばらく泣いていた。
「ごめんなさい……。わたし、失敗して……」
「君のせいじゃない。予期できなかったこちらの落ち度だ」
「でも……もっと上手くできてたら……」
「初めての祓であそこまでできれば上出来だ」
紫月は泣き止んでも、少しの間戒にくっついたままだった。
「……すいませんでした。思い出したら、怖くて」
ようやく紫月が落ち着き、布団の上に座り直した後、戒が現在の状況を説明した。
ここが日女神社の社殿であること、父親には連絡済みであること、などなど。彼女の父親がここへ来ていないことには触れなかった。
すると、それとは関係のない話題で、ふと紫月が口を開いた。
「あの、戒さんの白い刀、あれって何なんでしょうか」
とよの呼び方が移ったのだろうか。などと思いつつ、戒は用意していた嘘を思い起こす。
言ってはならないのだ。あの刀については。
「お下がり、のようなものだ」
「生箭日女のですか?」
「ああ。
「もしかして天之御影様もできるんでしょうか」
「分からない。なにしろ、あの刀しか例がない」
天之御影は
何しろ、戒の言ったようなことを、経津主はしていないのだから。
「そうですか……」
残念そうに言う紫月に、戒は懸念を抱く。
「自分などではなく、他の人間が祓をやれたら、と考えていないか?」
「いえ、そんなことは」
紫月の顔はどう見ても、そう思っている、という表情だ。
「重ねて言うが、君はよくやった。あんな事態の中でも立ち向かった。自身を持っていい。これは気休めでも慰めでもなく、本当のことだ」
「はい……」
しかし、紫月はまだ自信のなさそうな表情だ。
いくら言葉で伝えたところで、負けたのは事実なのだから、仕方のないことだろう。
これ以上は言葉以外が必要だ。そしてそれは、恐らく戒ではいけないだろう。
「学校には連絡してある。今日はここで静養していてくれ」
言って、戒は立ち上がった。
「じきにとよ様が来る。何か入用のものがあれば頼んでみてくれ」
「帰るんですか?」
彼女の質問に、戒は無表情のまま返答する。
「いいや、仕事だ」
「でも、寝てないんじゃ」
「問題ない。眠れない質なんだ」
本来ならそういう問題ではないのだが、紫月はそれ以上言うことはしなかった。
「……あ、あの!」
だが、それとは別に、部屋を出ようとする戒の背中へ声を掛けた。
「わたし、頑張りますから!」
「ほどほどにな」
肯定とも否定とも取れるような言葉を残し、戒は障子戸を閉めた。
まずはとよに声を掛け、その後に一度家に戻って身支度を整え、霞が関まで戻らなくては。通勤ラッシュを加味すると、あまり時間はなさそうだ。
「あら、お帰りですか?」
と、そのとよが渡り廊下から歩いてくるのとばったり遭遇した。すでにいつもの紺色のワンピースに着替えている。だが、彼女もあまり眠っていないようだった。
「これから仕事です」
「実動祭祀部の皆さんは働き者すぎて、たまに不安になりますね」
いつもより肌にツヤのないとよが言えたことではないが。
「その言葉はお返ししますよ。……上代が目を覚ましました」
「まあ、良かった。様子はどうですか?」
「落ち着いています。ただ、当然ながらトラウマになっています」
「そうなるのは仕方ないでしょうね……。過度に自信を無くさないと良いのですが」
「……とよ様。少しお頼みしたいことが」
戒がとよにそのことを話すと、彼女は微笑んだ。
「そこまで気を回されるのは、護衛のお仕事の内ですか?」
「いいえ。そも、今ここにいることも業務外です。ただの老婆心ですよ」
「ふふ。随分、紫月さんを大切になさるのですね」
「いえ、そうは言えないでしょう。生箭日女が危険に晒されること自体、間違いなのです。危険を背負うのは実動祭祀部の仕事。私は、自分の失敗のツケを清算しているだけです」
戒は、眉一つ動かすことはなかったが、僅かに
「時間が押していまして。これで」
一礼して、戒は足早にその場を去る。その背を、とよが複雑そうな表情で見送っていることは、戒は振り返らずとも分かっていた。
朝焼けに包まれた境内を抜け、海風の吹き付ける道を駅へ向かう。
急く戒の頭の中は、苦い感情で満たされていた。誰とも言葉を交わさずにいると、余計な感情ばかりが頭の内から湧いてくる。紫月があんな目に遭ったのは、全面的に戒ら実動祭祀部の、大人達の落ち度だ。そうでなければいけない。
その考えを戒は頭の中で反芻する。
生箭日女は、そのほとんどがまだ子供と言ってよい年齢の者ばかりだ。そんな彼女たちが何かを背負うなど間違いだ。危険も責任も、彼女たちとは疎遠であるべきだ。
だからこそ、露払いを――汚れ仕事を引き受ける、戒のような存在がいるのだから。
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