第2話:赤きケガレビト

 某日夕刻、北関東某所を走る車両内にて。


 後部座席のかいは、隣で身を硬くしている紫月しづきに目線を向けた。


 因みに、二人とも服装は初対面の時と同じだ。ただそれには何の意図もなく、戒は同デザインのスーツを複数着持って着まわしているだけで、紫月は学校帰りで通ってい中学校の制服というだけだ。


 と言っても多少の違いはあり、戒は黒いインカムを左耳に着け、同じく黒の革手袋をしている。一方で紫月は動きやすいようにと髪を纏めていた。


上代かみしろ、大丈夫か」


 戒は隣に声を掛けてみる。だが、返事はない。


「上代?」


「えっ、あ、はい! なんでしょうか」


「……大丈夫か。声も聞こえていないようだったが」


「あ……ごめんなさい」


「そんなに緊張しているのか?」


 訊ねると、紫月はばつが悪そうに目を逸らした。


「それもあるんですけど、何というか、苗字で呼ばれるのに慣れなくて」


「……そうか」


 人には触れられると厭な部分がある。それは戒でも同じだ。


「すでに聞いていると思うが、生箭日女いくさひめによる戦い――禍言祓まがごとばらえは一人でやるものじゃない。護衛課、祈祷課、陰陽課。全てが君を支える。それに、君は相方に身を任せておけば良い」


「は、はい」


「だから肩の力を抜くんだ。できることもできなくなる」


 日女ひめ神社で会ってからしばらく、紫月は基礎的な講習と訓練は受けている。だが、この短期間で自信を持てというのも難しい話だ。


 言うべきか迷って、戒はその言葉を口にする。


「……最悪、俺が何とかできる。だから気負う必要はない」


 戒は鉄面皮のまま、視線で自らが抱えている二振りの刀を示した。


「こんな長物ながものが二つもあるんだ、どうとでもなる」


 一つは、黒のさやに黄銅色のつばと赤黒のをした質実な印象の日本刀であり、もう一つは白の鞘で鍔はなく、柄も鞘同様の白木である繊細な印象の居合刀だった。


 ちなみにだが、紫月の方も、小刀を一振り握り締めていた。こちらは白の鞘に青銅色の鍔、白の柄だが、鞘のには小さな鈴が付けられており、刀としては豪奢な見た目である。


「え、でも」


 これから相対そうとしている『敵』は、生箭日女でなければ討てない。


 生箭日女という存在が公表されたこの日本で、それは一般常識のはずだった。


「……到着です。あまり時間がありませんので、お急ぎを」


 紫月の言葉を遮るようにして運転席の職員が言い、車が停車する。


 二人が下車すると、そこは何ということもない平凡な住宅地の一角だった。広大な関東平野の端、同じような家々がひたすらに並び、遠方には低い山影が夕陽に染まっている。


 だが家々の中に人の気配は全くない。避難指示が出ているためだ。


 人が残っているのは、二人が車を降りた目の前の、空き地のような公園の中だけだ。


一七二八ひとななにいはち、対象区域内の住民退避完了を確認、これより所轄署員の退避に入ります」


禍玉まがたま、許容率九三%。安定しています」


「祈祷課加茂かも班、区域外縁に配置完了しました」


 その公園内はというと、時代劇の中から抜け出してきたかのような狩衣かりぎぬ姿の実動祭祀部職員がせわしなく動き回っており、その光景は異様そのものだ。


 また、公園の中央には浅く穴が開いており、そこには翡翠ひすいの勾玉が置かれている。否、今しがた掘り返されたのだ。加えて、穴を囲うように等間隔に三つ、御札が置かれている。


「……重役出勤ね、一色いっしきクン」


 と、動き回る人波の中から、スーツ姿の人影が、のんびりと戒に歩み寄って来た。


「いらしているとは聞いていませんでした」


 黒のパンツスーツに身を包み、戒の持つ内の一振りと同じ黒鞘の刀を差した女性だ。目尻の皺が年齢を語っているようだがそれ以外は若々しく、歩き方にも力強さを感じる。


「そうね、わたしも来ないとなんて聞いていなかったわ」


 軽口を叩いて笑って見せるその顔の右眼は、武骨な眼帯で隠されている。


「新人ちゃんの方は初めましてね。護衛課の日比谷ひびやよ」


 日比谷雨御ひびやあまみ。護衛課副課長。戒から見ると、直属ではない上司ということになる。


「はいっ。生箭日女になった上代紫月かみしろしづきです。よろしくお願いします」


 ぺこりと紫月が頭を下げる。


「あらいい子。一色クン、間違っても手出さないでよ」


「まさか」


「まさかとは失礼ね」


 にやにやと愉しそうに日比谷は笑う。


「レディに年齢は関係ないわよ。ねえ?」


「え……えっと」


「そこはせめて『気を付けます』とか、言っとけばいいじゃないって思わない?」


 見るからに答えに窮する紫月。


「未成年にそういう絡み方は良くないかと」


「いやね。雑談よ雑談」


 日比谷はひらひらと手を振った。


「……まあ、私たち現場はこんな調子だから、気楽にいきなさい。新人ちゃん」


 戒は横目で紫月の様子を見てみる。心なしか、肩の力が抜けているようだった。


「だそうだが。心の準備はいいか?」


 戒が訊くと、紫月は力強く頷いた。


「……はい!」


「良い返事ね。始めるわよ」


 日比谷が、彼女自身も付けているインカムに指を当てる。


「加茂班、結界展開。五条ごじょう班は待機、以降は各自の判断に任せる。陰陽課は計測そのまま」


 日比谷の指示と同時、職員たちが素早く持ち場へと付き始める。


 白の狩衣を着ているのは祈祷課の職員だ。数は四人。それぞれが公園の四隅に立っている。ちなみに、ここにはいないが避難区域の四隅にもまた職員が配置されている。


 一方で黒の狩衣を着ているのは陰陽課。公園の隅で簡易的なラックを組み、大量の計器類を睨んでいる二人がそれだ。ああ見えて、公園中央の勾玉まがたまを監視している。


 そして、主役である生箭日女たる紫月の持ち場は、勾玉のすぐ手前だ。その護衛である戒と日比谷はそのすぐ後ろ、何かあれば一瞬で庇える距離に。


 戒は腰の剣帯に二振りの刀を留めつつ、勾玉へ歩み寄る紫月の背へ目を向ける。


 過度な緊張はほどけたとはいえ、その小さな背は、やはり頼りない。


「――修祓しゅうほつ開始」


 そんな戒の感情と関係なく、日比谷が号令をかけた。


ちぎりにりててんおわ御名みなばん。天之御影命あめのみかげのみこと


 紫月がごく短い祝詞のりとを唱え、小刀を抜く。


 途端、何者かが彼女の背後に現れる。それは霧のようにふわりと現れたわけでも、突然出現したわけでもなかった。瞬きの間か、それとも紫月から僅かに焦点を外した隙の、たったそれだけの間に、最初からそこに居たかのように自然に、しかしたった今、現れた。


 その姿は、紫月の後ろに立っている戒から見ても、なぜか判然としない。記憶できないのだ。しっかりと視界に収めているにも関わらず、見た情報は見端から失われていく。


 そして、それが現れた瞬間に、公園の空気はどこまでも清澄なものに変わっていた。それが、何者かも分からぬそれに、恐怖よりも畏敬を抱かせる。


「――合一ごういつ!」


 その澄み切った空気を少女の声が裂く。


 瞬間、少女の後ろに立っていた何者かは姿を消し、そこには、ドレスのような小袖こそでのような、不可思議な黒の装束に身を包んだ少女が立っていた。


 それこそが、神々と重なり合い現人神あらひとがみとなった者、生箭日女としての姿だった。


「いきます……!」


 生箭日女となった紫月は、掘り返された穴の中央へゆっくりと歩を進めると、置かれた勾玉に、手にした小刀を突き立てた。


 パキ、と音がして、翡翠が容易く砕ける。それと同時、澄み切っていた周囲の空気が、急速に湿度を増したかのように淀み、酷くいやな匂いが漂い始める。


 それを察知して、紫月が穴から飛び退き、小刀を構える。


 今砕いたものは禍玉という。見た目こそごく普通の勾玉そのものだが、その実態は、人々の暗く淀んだ心から生まれる『穢れ』を周囲一帯から集積し、封じているものだ。


封牢ふうろう結界の動作正常。幽質ゆうしつ臨界開始。ケガレビト、顕現します」


 陰陽課の職員がそうアナウンスした瞬間、砕かれた禍玉の直上、地面からおよそ一メートルの部分に、何かが現れた。何もないはずの宙に、赤黒い靄が湧き出、その中から更ににじみ出てくるようにして現実へと現れようとしている。


 それは腕だった。しかし肌色などはしておらず、黒の混じった禍々しい赤色をしていた。


 まず、右腕、続いて、右腕。そしてまた、右腕。


 右腕ばかりが無数に増殖し、歪につなぎ合わさったそれは、人のような形を成した。


 ケガレビト。


 禍玉に集約された穢れを実体化させた異形。人々の陰鬱な心の堆積物だ。


 人々から生まれた穢れを禍玉に集め、ケガレビトとし、これを討つことによって一挙に積もり積もった穢れを祓う。それが生箭日女の使命である『禍言祓』だ。


「……いやに赤が多いわね」


 日比谷がそう呟いた瞬間、陰陽課の計器の一つが耳障りな警報を鳴らした。


「赤穢れの比率が六〇%を超えています」


「見りゃ分かるわよ」


 赤いケガレビト。それは異常事態の証左であり、同時に危険信号だ。


「チッ……。とんだ厄日だわ。一色クン、前に。新人ちゃんは下がって、弓を出して」


 日比谷と戒が黒鞘の刀を抜く。名は零八ぜろはち式特務軍刀とは言うものの、要はただの刀だ。


「紫月、弓だ。習っただろう」


「……は、はい!」


 一声掛け、戒は紫月の前に出る。


 苗字で呼ばれ慣れていないと言っていたため咄嗟に名前を呼んだが、それで良かっただろうか、と戒は一瞬だけ考えた。


 一方で紫月は、小刀を左手で逆手に構える。すると小刀の両端から水晶のようなものが生じ、和弓の形を成した。


「結界の停止と同時に五条班は祈祷開始。各人が一番得意なヤツで良いわ。加茂班は外縁結界を維持しながらこっちまで来なさい。大至急よ」


 再び、今度は別の計器が警報を発する。


「顕現完了前に封牢が崩されます!」


 陰陽課職員の悲鳴じみた報告と同時、ケガレビトの周囲の空間が、硝子のようにひび割れたかのように見えた。瞬間、周りの臭気が一層酷くなる。


 どこまでも生臭く、鼻の奥を貫くようなそれに、戒は嫌な予感がした。


「あれに絶対に触れないように」


 言って振り返り、戒は目を見開く。


 後ろにいた紫月の首元には、いつの間にか血塗れに見える右腕が現れ、彼女の細い首を絞め上げていた。


「……っ!」


 戒は咄嗟に左手でその右腕の手首を掴み、握力のみで関節部分を締め上げる。ごり、と嫌な感触がすると同時に紫月の首を絞める力が緩んだ。戒はその瞬間に右腕を引き剥がして地面へ叩きつけ、刀を突き立てた。


「無事か」


 戒は膝を突くと、へたり込んで酷く咳き込んでいる紫月の顔を覗き込む。


「げほっ……。すいません、わたし」


「いや、いい」


 片手の手袋を外し、紫月の首元に触れる。突如現れた右腕が掴んでいたそこには、赤黒い泥のようなものが付着していた。


 それが指に触れると同時、戒の背筋に悪寒が走る。泥に触れた指先は染みのように赤黒さが移っており、染みはゆっくりと蝕むようにその面積を広げていた。


「すまない」


「うぇっ!?」


 戒は革手袋を着けなおし、紫月の顎を指先で持ち上げる。彼女の首筋には、戒の指先同様の染みがあり、しかし戒のものよりも大きく早く、彼女の首を蝕んでいた。


 この赤黒い泥は、禍玉に堆積したことにより実体化した穢れだ。また、泥に触れた身体の部分に染みが広がっているのは穢れの伝播でんぱで、触穢そくえという。一部の穢れには伝染性があり、触れた者を蝕み、さわるのだ。


 周囲に漂うきつい臭気は、恐らく死臭だろう。それに、あの腕は氷のように冷たかった。


「日比谷さん、死穢しえです」


 死穢。人の死により生じる穢れだ。最も強く、最も残留し、最も伝染する。


 そして本来、死穢といった人の肉体から生じる穢れを祓うことは、生箭日女の使命からは外れている。そして、身も蓋もないことを言えば、非常に相性が悪い。


「……最悪ね、全く」


 あの腕の塊は、禍玉のあった場所から動く気配を見せない。祈祷課の祈祷が効いているのだろう。だが、これ以上なくジリ貧だ。


「こうなりゃ博打だわ。新人ちゃん、御影様の権能は使える?」


「……五本まで、でしたら」


「上等」


 日比谷が不敵に笑い抜き、紫月の前に出る。


「わたしと彼が気を引くわ。その間に新人ちゃんは準備して。合図したらあのマドハンドを針山にしなさい」


「はい……!」


「で、ボーヤ。何秒持たせれば良い?」


 戒は紫月の顔を確認する。練習では一本当たり二秒一六が最速だったと聞いている。


「バッファを含めて、十五秒」


 言って、戒は日比谷の隣に並んだ。


「瞬きするとやられるわよ。周囲一帯の幽質濃度がとんでもないことになってる。どっからでもあの腕が実体化して飛んでくるわ」


「問題ないでしょう」


「言うようになったわね。――アタック!」


 日比谷が号令を発すると同時、二人は弾かれたようにケガレビトへ向かって駆け出す。


 その瞬間、正面、背後、地面、時には真上から、赤黒い腕が湧き出るように現れてはこちらへ迫る。しかし二人はそれを容易く切り伏せ、ケガレビトの本体へ肉薄する。そして、骸の寄せ集めである体を同時に斬りつけた。


 幾つもの肉と骨を断つおぞましい感触。人ならば致命傷だが、相手はケガレ「ビト」とは名前だけの異形だ。それにそもそも、ケガレビトは物理的な攻撃で討つのは不可能だ。生箭日女により振るわれる神気しんきを纏った力でなければいけない――とされている。


 戒と日比谷は一旦跳躍して離れ、再度腕の群れを切り払いつつ、左右に回り込む。


 一方、彼らの背後からは、鉄を打つ音が響いていた。紫月を生箭日女たらしめる天之御影命が持つ、鍛造たんぞうの権能だ。武神ともされる天之御影命だが、元来の神格は刀鍛冶なのだ。


 紫月の手は目の前の空中にかざされており、その先には赤橙の火のような揺らめく光があった。鉄を打つ音は、そこから響いている。


 そしてその光の中から、紫月の持つ和弓のものに似た、水晶のような刀身が姿を現した。


 刀ではない。打たれたばかりで刀身のみの、鍔も柄もない、ただの抜き身の刃だ。


「あと、一つ……」


 生み出された刀身はふわりと浮き、彼女の背後の空中に静止する。そこにはすでに三本の刀身が浮いていた。


「……流石にちょっとキツイわね!」


 舞うように刀を振るいつつ、日比谷が悪態をつく。だが、決着まではもう少しだった。


 日比谷が腕の群れの合間を縫って距離を詰め、ケガレビトの脚と思しき部分に軍刀を突き立てる。刀身は貫通して地面に突き刺さり、ケガレビトをその場へ縫い付けた。


「ほら次!」


 日比谷が軍刀を手放して飛び退くと同時、弾丸のような速さで戒が反対側から接近し、ケガレビトの頭部分を貫く。戒はそれを九〇度近く回し、強引に押し倒す。こちらも剣先が地面に突き立ち、腕の寄せ集めの骸は、いよいよ身動きを封じられた。


「紫月!」


「……はい!」


 飛び退きつつ、五本目の鍛造を終えた紫月へ合図する日比谷。


 紫月が、持っていた水晶の和弓を軽く振るう。すると、和弓は瞬く間に水晶の刀身を持つ打刀へと変わった。柄も刀身同様の水晶で延長されており、両手で握れるようになっている。彼女が刀を構えると、その背後の刀身たちもまた、ケガレビトへ剣先を向けた。


 紫月が地面を蹴る。同時に刀身たちは紫月よりも早く飛翔し、隊列をなしてケガレビトへ殺到、次々と体へと突き立った。そしてとどめと言わんばかりに、紫月自身が水晶の刀をケガレビトの胸へと突き立てる。


「……新人ちゃん、離れて!」


 しかし、決着とはならなかった。


 合計で八本もの刀を突き立てられたケガレビトから、血泉のように赤黒い霧が吹きあがる。まるで、禍玉を破壊した時と同じのように。


「え、うそ……」


 紫月があっけに取られた瞬間、やはり禍玉を破壊したとき同様、霧の中から幾つもの腕が生じ、間近にいた紫月に殺到する。


 紫月は、首を、腕を、脚を、無数の屍の手に掴まれ、白い肌を穢れが蝕んでいく。


 それは、ケガレビトの本能とでも言うべきものだった。正確には性質というべきか。穢れとは怨霊のようなものではなく、もっと無機質なものだ。人の営みにより生じ、時に残留し、触れた者に障る。それだけの『モノ』だ。


 エントロピーの増大と同じだろう。最も無垢で清い者から穢そうとしているに過ぎない。


 紫月の手から、刀が落ちる。その瞬間、紫月の服装が生箭日女の装束から、学校の制服へと戻り、ケガレビトに刺さっていた水晶の刀が消失する。


 穢れに蝕まれるのは人だけではない。神もそうだ。紫月の身を蝕む穢れに、天之御影命が耐えきれず、合一した状態を維持できなくなったのだ。


「たす、け……」


 言葉を発そうとした紫月だが、ケガレビトの指を口に入れられ、呻くことしかできなくなる。無数の腕は、彼女の服の下までも蝕もうとしていた。


 無垢なる場所が残っているならば穢す。それもケガレビトの性質故の行動というだけだ。


 戒は、そんな惨状を目の当たりにしているというのに、眉一つ動かすことはなかった。


 このケガレビトがここまで強力であることは予測していなかった。だが、そうでなくもいつかこうなることは予想していた。そうでなければ、彼が専任護衛である意味がない。


 もっとも、それが初陣であるとは誰も思うわけがなかったのだが。


「……ボーヤ、いける?」


「いつでも」


「よし……。五条班、内向きの結界を張りなさい。陰陽課は救護の準備。くれぐれもボーヤの邪魔するんじゃないわよ!」


 戒は剣帯から二本の鞘を外す。空となった軍刀の鞘は放り、さながら座頭市ざとういちのように、白木の居合刀のみを左手に持った。


 多くの手に絡めとられた紫月と目が合う。瞳に浮かんでいた涙は痛みか、恐怖か。残念ながら、彼女は今、戒に何も伝えることはできない。


「すぐに終わる。怖ければ目を閉じているんだ」


 それだけ告げておもむろに戒は地を蹴り、紫月へ向けて駆け出す。途中、戒がカチリと鯉口こいくちを切った。その瞬間、淀んでいたはずの周囲の空気が、再度澄んだものへ変わる。


 ――――。


 戒が刀を振るった。しかしそこに音はなく、日比谷含めて彼の剣閃を捉えた者はいなかった。彼が何度刀を振るったかすら分からぬほどの瞬撃。あったのは結果のみだ。


 飴細工のように容易く全て断ち切られて消えていく、紫月に群がっていたケガレビトの腕。それらから解放されて倒れ込む紫月。そしてそれを受け止める戒。それだけだった。


 戒は器用にも鞘を持ったままの左腕だけで、紫月を抱えて飛び退く。泥のような穢れにまみれた彼女は、消耗かショック故か、気を失ってしまっていた。


「頼みます」


 駆け寄ってきた陰陽課の人間に紫月の後を託すと、戒は刀の血を払い、鞘へと戻す。その刀身は、紫月が打ったものと同じく、水晶のような青みがかった透明ものだった。


 彼の視線の先には、再び立ち上がろうとしているケガレビトがいる。しかし、最初よりも一回り小さくなったようにも見える。


 あれだけの攻撃をしたのだ。もう後のない、出涸らしのようなものだと思いたいが――。


 戒はそう思考しつつ、白木の刀を腰だめに構える。


 ――そうでなくとも関係はない。消滅するまで斬るだけだ。


 戒が地を蹴った。そしてやはり、その剣閃を捉えたものは誰もいなかった。


 そこには、腕の全てを断ち切られ、消えていくケガレビトの残骸があるだけだった。


「……修祓終了」


 戒が呟き、刀身の血を払う。地面に付いた血の穢れも、すぐに消えていった。


 こうして、ある生箭日女の初陣は、対外的には勝利として、その内実としては悲惨な敗北として幕を閉じた。



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