*17 逃げ惑う彼女と、巡り会う彼

「逃げたぞ!! 追え!!」


 気が付けばサチナは樽から駆け上がって荷台から飛び降り、地を蹴って走っていた。

 頭に目深くかぶっていた布は走っていく内にぐずぐずとほどけ、やがて隠していた鮮やかな金髪が現れ始める。

 馬車が停められた場所はどうやら市場らしきところの入り口だったらしく、サチナは人混みに紛れるように突っ切って駆けて行く。

 流れに逆らうように駆けて行くサチナの姿に目を奪われて呆然とする人々の間を抜けて行くも、正確な出口もわからずにやみくもに駆けて行くだけなので、やがて市場の中で方角を見失っていた。

 どれだけどこを走ったかわからない。そもそも今いる場所がわからない。ただわかるのは人も物も多くて賑やかな場所――おそらく市場であろうことぐらいだ。

 やがてサチナはとある屋台の裏手の食材の入った籠が積まれた裏側に身をひそめた。

 隙間から辺りを覗うも、足音しか聞こえず、行き交うのが追手なのか誰なのか、姿を確かめることはできない。

 走りすぎたせいで息が苦しい。呼吸をどうにか整えようとするも、追われている恐怖で指先が震えてしまう。

 自然と指先は震えながら祈るように合わさって組まれ、サチナは無意識に祈っていた。


「――……ザング様……ザング様……お助けください……!」


 震える右手の指先で、祈りに応えるようにそれは光始めた。これまでのように淡くわずかな時間ではなく、頭上で煌めく太陽のような強烈な光を放っていた。

 光の強さにサチナが戸惑いを隠せずに狼狽えていると、「いたぞ!」という声が遠く聞こえ、サチナは弾かれたようにその場から駆け出す。

 身を護ってくれると聞いていたのに、それどころか居場所を示すようなことをするなんて……! サチナは聞いていた話とは違った効用を発揮した紫水晶の指輪を外そうと指先に手をかけた。

 その時、彼女の前に大きな人影が立ちはだかり、彼女を抱きとめるように受け止める。

 追手に捕まった……そう、血の気が引く思いで恐る恐るサチナが顔をあげると――


「――ああ、ようやく見つけましたよ、サチナ」


 大柄な痩身に長い紫紺の髪、そして、見上げた左目には紫水晶によく似た涼やかな瞳がサチナを見つめていた。

 ザング様――名前を口にしようにも、驚きのあまり声も出ない。毎晩のように名を唱えて焦がれていた相手が、夢幻よりもはっきりとした姿とぬくもりを持って自分を抱きとめているのだから。


「ザング、様……? どうしてここに……」

「あなたの兄上に頼まれて探しに参りました」

「あんちゃが……」

「フリトと手分けして術を使って捜していたのですが、随分手間取ってしまいました。遅くなってしまい、申し訳ない」


 グドに頼まれて馳せ参じたのだというザングは、逃げ回るうちに泥と埃にまみれてしまったサチナの頬と乱れた髪を撫でた。そのあたたかさが、サチナのこれまでの心細さや辛さを軽減していく。

 ようやく心から安心して身を任せられる者に巡り会えた安堵で脚の力が抜けてしまいそうになっていたサチナであったが、その背中に思いがけない人物の声が投げかけられる。


「おやおや、随分感動的な再会を果たせたようだねぇお嬢様」


 いつもと変わらない、にこやかな――しかしどことなくねっとりと絡みつくような不快感をにじませた声に、サチナは顔をこわばらせて振り返る。

 サチナの様子に、声をかけてきた人物が誰であるのかを察したのか、ザングが彼女を隠すように前に立ちはだかる。

 その流れを、その者――ゴウホウは鼻先で嗤って眺めていた。


「随分とお転婆だねぇ、お嬢様。ちょっとおイタが過ぎるんじゃないのかい?」

「……ゴウホウ様」

「さあ、屋敷へ帰ろう。そんな粗末な着物は貴女に似合わない」


 サチナの方に手を差し出しながら、一歩、また一歩とゴウホウは近づいてくる。迫ってくる彼の表情は柔和だが、その目は笑っていない。

 凍り付くような微笑で射貫くように見つめてくるゴウホウに、サチナはこれまでにない恐怖を感じてザングの背にしがみついていた。


「――お待ちなさい。彼女は私が迎えに来た方です」

「迎え? そんなものはとっくに断ったはずだけどな」

「グド――彼女の兄上によれば、先に約束を反故してきたのは貴方の方だと伺っていますが?」

「そうだったかな? まあ、なんだっていい。とにかくそのお嬢様を返してもらおうか。ウチのお客人でね」

「本人にも家族にも断りもなく勝手に留め置いておいて何が客です。貴方は人さらいだ」

「ほう……何がなんでも返す気はないんだな?」

「返すも何も、彼女は貴方のものではありません。お引き取りを」


 取り付く島なくきっぱりと言い切るザングの言葉に、柔和だったゴウホウの表情が瞬く間に硬化していく。いままで見せたことのない険しい表情に、サチナは事態が急激に緊迫していくのを感じた。

 対峙する二人の間に重たい沈黙が漂う。

 しばらくの沈黙ののちに先にそれを破ったのはゴウホウだった。険しかった表情を再び柔和に緩めるも、やはりその目は笑っていない。


「そうか、どうしても俺と帰る気はないんだね? ――だったら、力尽くで連れ帰るまでだ」


 ゆらりと偉丈夫なゴウホウの身体がわずかに傾いたその時、ザングは力いっぱいサチナを突き飛ばしてこう叫んだ。


「ここは私が食い止めます! あなたはこの壁沿いに行った先にある西の門の門番のところへお行きなさい!」

「ザング様!」

「早く!」


 ザングが追い立てるように叫ぶのと、その彼の頭上にゴウホウの腰に提げていたつるぎが抜かれて振り下ろされるのはほとんど同時だった。


「ザング様⁈」


 目の前で振り下ろされた剣の影にサチナが悲鳴上げながらその名を呼ぶと、呼ばれた彼もまた瞬時に取り出した短刀でそれを防いでいた。刀身と刀身がぶつかり合った音が一帯に響く。


「行け、サチナ!」


 いつにない強い口調で名を呼ばれて、呆然と立ち尽くしていたサチナは我に返って駆けだした。

 ぶつかり合った刀身をザングが押し返し、体勢を整え、二人の間合いができる。剣を構え直した二人は、互いをにらみ合ったままだ。


「ふん、あっさり斬られはしないんだな」

「一応の心得はありますのでね」


 片頬を上げて笑うゴウホウに、ザングはにらみつける目つきを緩めない。


「おもしろい。お前がどれだけ耐えうるか見てやろう」


 ゴウホウの剣術の腕前は乙巳で知らぬ者はいないと、侍女の誰かが言っていたのを、サチナは思い返していた。その上あの偉丈夫である。

 対するザングは痩身気味で、日頃は力仕事とは無縁と思われる役人に過ぎない。剣の心得はあるとはいうが、果たしてそれがどれほど相手に通じるのか、太刀打ちできるのか、未知数だ。


(――なんとか、お助けできないものかしら……)


 ザングに言われた通りひとまずの身の安全を確保するために、対峙する二人から距離を取りながら、サチナは考えを巡らせていた。

 二人から離れること三間(さんけん・約五メートル強)あまり、サチナは駆けていた足を止めて辺りを見渡す。

 辺りは屋台が立ち並ぶ通りの裏手で、物が多く、障害物になりそうなものが立ち並んでいる。

 なにかゴウホウの攻撃を阻めるようなものは……サチナは立ち尽くし、ザングの方を見やりながら考えを巡らせる。

 その間にもにらみ合いから二人は丁々発止の戦いを始め、激しい音が聞こえだした。

 剣術の心得があるというだけあって、ザングはそう易々と追い詰められている様子はないが、優勢とは言い難い。

 対するゴウホウは乙巳中に知られる腕前なこともあってか、ザングからの攻撃を受けつつも表情に余裕がある。時折、ザングを煽るような言葉を投げかけたりもするほどだ。

 もし、この争いにザングが負けてしまうようなことになってしまったら……サチナは、もう二度と村には帰れないだろうし、待ち受けている生活が平穏なものとは言い難いだろう。

 その負の連想を打ち消すようにサチナは頭を振り、より一層ザングを擁護するための手立てに考えを巡らせる。


(考えなさい……今度はあたしがあの方をお守りするために……)


 辺り一帯を見渡しながら、サチナはザングのためにできることを探っていた。



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