*16 未明の別れとたどり着いた場所

 それから数日後の晩、湯あみの担当はユイハで、夕方屋敷内で仕事をしながら見てきたことをサチナに小声で完結に報告してくれた。

 空いた酒樽は以前の物も合わせて大小五つほどあり、その内二つはサチナが入れそうな大きさだという。

 ユイハが酒蔵の従者に聞いたところによると、明後日に乙巳の西の門の方にある市場へ大量に酒を卸に行くことが決まっているらしい。

 乙巳の西の門を抜け、幾つかの山と谷を越えて行くとサチナの村のある谷あいに辿り着くことができるため、この話は願ってもいない好機と言える。


「西の門までたどり着ければ、どうにかして翼を村に送って迎えに来てもらうか、馬車を乗り継いで帰れると思うわ」

「では、その市場に向かう馬車に乗り込めるようにいたしましょう。樽はあたしが今日中に用意しておきますね」

「ありがとう。何かあたしにできることはある?」

「そうですねぇ……お嬢様はできる限りいつもの通りお過ごしください。他の誰にも悟られないように。特に、ゴウホウ様には」


 そうね、とサチナはうなずき、ユイハが広げる新しい肌着に身を包む。丁寧に洗われた肌はやわらかな天瓜粉てんかふんの甘い香りが漂っていた。


(――決戦は、明日の晩……ということね)


 寝台に入り、横になって天蓋を見上げながらサチナは胸の中で呟く。

 ゴウホウの屋敷に幽閉されてそろそろ一月と少しが経とうとしている。時の流れは水あめのように伸び、永遠のようにさえ感じられた。それがいよいよ、終わりを迎えるのだ。

 ユイハが身を隠すための酒樽を用意してくれ、馬車に乗り込むまでも手を貸してくれるという。一介の侍女でありながらここまで自分を援護してくれる彼女の心意気の有難さに、サチナはそっと右手の指輪に触れる。


(――ザング様……どうか、ユイハの手助けが無駄にならぬようお守りください……)


 サチナが目を瞑って指先を汲んで祈っていると、ほのかに指輪の紫水晶が光った。まるでサチナの心の中の祈りに応えるように。

 わずかな光の気配に思わずサチナが目を開けたが、光はすぐに消えてしまった。

 ザングはあの時、まじないをかけたと言っていたが、それは何かサチナの身を守るうえで役立つものなのだろうか。

 単なる気休めではなかったのだろうか――そう、サチナは考えていたが、思いを巡らせるうちにやがてとろとろとした眠りにいざなわれていった。



 翌日の夜、サチナは見張りが外周を見回りに行った隙に部屋に入ってきたユイハから着替えを受け取った。それはユイハが身に着けているような粗末な素材の袍と裙だった。

 サチナがこの屋敷に連れてこられてからずっと絹の織物など上等な生地の着物ばかりを身につけさせられていたため変装のためにユイハが用意したのだ。

着替えと共にユイハが用意したのは頭に巻くための長い暗い色の布だった。サチナは特徴的な鮮やかな金髪と碧い眼をしているので、布を目深く巻き付け、隠そうというわけだ。

 日中これでもかと飾り立てられていた姿から想像もつかないほど質素な姿になったサチナであったが、こちらの方が彼女には馴染みがあり、なにより身軽だった。


「ああ、窮屈な帯がないっていいわね! これなら走ることもできるわ」

「さ、身軽になったところで急ぎましょう。もうあと少しで見張りが戻ってくる頃でしょうから」


 ユイハに促されて、サチナは音をたてないように俯きながら部屋の外へ出た。

 中庭には時折出ていたが、そうではない外の空気はやはり別格だ。サチナは一歩踏み出して息を大きく吸いこみ、そして先を歩くユイハに続いた。

 サチナが屋敷の中を歩いたのは連れて来られた日の一度きり、それも応接間から従者らに取り囲まれるようにして歩かされたので、いま初めて屋敷の中を歩いているようなものだった。

 屋敷の廊下はいくつもの部屋に通じて入り組んでいて迷宮の様だ。ユイハの案内なしではとても出入り口に辿り着くことなどできないだろう。

 ユイハはサチナが幽閉されていた部屋からの廊下を進み、店に続く通路を横切り、それを挟むように積まれている商品の山をすり抜けていく。

 くりやの中に忍び込み、その脇にある扉を開けると、大きな樽がいくつも並ぶ食品倉庫に辿り着いた。


「こちらです、お嬢様」


 そう、ユイハがサチナに手招きをした先にあったのは、一つの使い込まれた大きな樽だった。高さは三尺弱、幅も大体二尺強はありそうだ。中は空で、ほのかに酒の匂いがする。

 さあ、とユイハに促され、サチナは樽の壁面をよじ登る。さっそく座って膝を抱えると、どうにか身が隠せそうだった。

 サチナが身を屈めたのを確認すると、ユイハは手早く木蓋をかぶせてくる。


「西の門へは早朝に発つそうです。数刻の間窮屈ですが、ご辛抱されてくださいませ」

「ありがとう、ユイハ! 本当に、ありがとう!」

「サチナ様、どうかお元気で――」


 蓋の隙間から触れ合うように交わした指先の感触を味わう間もなく、樽の中は薄暗がりに包まれた。

 それからどれほどの間狭く暗い樽の中にうずくまっていただろうか。

 一向に動き出す気配がないので、待ちくたびれたサチナはうとうとと舟を漕ぎ始めていた。

 やがて遠く夜明けを告げる鶏の声が聞こえ、サチナは我に返る。と、その時、サチナが忍び込んでいる樽が大きく揺れた。


「おうい、これも頼むよ」

「おう、じゃあこっちに載せとくれ。今日はいくつだい?」


 樽の板越しに従者の男たちの声が響く。どうやら酒樽を運び出す準備が始まったようだ。

 サチナは口を手で覆って塞ぎ、呼吸音すら漏らすまいとじっと息を潜める。

 男たちはまさか抱えている樽に人が入っているなど思いもしないのだから、サチナが忍び込んでいる樽も特別丁寧に扱うことはなく、通常通り馬車の荷台に乗せていく。

 乱雑とも言える扱いにサチナは樽のあちこちに頭や体をぶつけていたが、必死にこらえていた。

 揺さぶられる衝撃が止んだと思って息をつこうとしたら、今度は横に縦に大きく揺れ始める。

 底の方から強く振動を感じるので、おそらく馬車が出立したのだろう。どうやらサチナはゴウホウの屋敷を脱することができたようだ。

 馬車に揺られ、時折角を曲がるのか身を大きく傾けることもありながら、サチナは馬車がどんどん屋敷から遠ざかって行くのを感じていた。


(――ああ、出られたんだ!!)


 喜びで叫び出したいのをこらえ、視界が滲むのをそのままにサチナは脱出できたことに安堵していた。

 このまま西の門の市場まで運んでもらい、頃合いを見計らって樽からも脱出しよう。そう、サチナは揺られながら算段を立てていた。

 市場に着いたら人ごみに紛れて乗り合いの馬車に忍び込み、より村に近い町まで向かおう。とにかく今はゴウホウの許からより遠くへ行かなくては。

 ある程度距離が保てたら翼を村に飛ばせるようにしたい。無事であることを家族に報せるために。

 そのためにはどうしたらよいだろうか――そう、サチナが考えていると、急に馬車が停まった。

 したたかに身体を樽に打ち付け、危うく悲鳴を上げそうになったが、これもなんとか堪えることができた。

 もう市場に着いたんだろうか? そう、サチナが樽板に耳をつけ外の気配を窺っていると、こんな話声が聞こえてきた。


「なんだいなんだい、お役人様。急に停めたりなんかして」

「あー、すまんがな、ちょっと馬車と荷を調べさせてくれないか」


 馬車を操っている従者とは違った、中年くらいの男の声が告げてきた言葉にサチナは血の気が引いた。

 どうやら男は街の警護の役人か何かのようで、馬の手綱を握っている従者に馬車を停めた理由を話し始めている。


「なんでもな、そこのお屋敷から人が逃げたんだそうだ。そいつを捜している」

「人が逃げたからってなんで俺らの荷台を見るって言うんだよ。街中を捜しゃいいだろうに」

「まあ、とにかく調べて見つけろってお触れだからな、文句言わないで見せてくれないか」


 従者と役人が軽く押し問答をしている間も、サチナは生きた心地がしなかった。

 役人は樽のひとつひとつを調べて回るつもりなのだろうか……もしそうなったら、ここがどこであろうと逃げ出さなくてはならない。そんなことを思い巡らせながらうずくまっていた。

 樽が一つ、また一つと蓋を開けられ改められていく最中、従者が役人に訊ねる。


「逃げ出したってどんな奴なんだい? 盗人とか?」

「んー……いや、そんな下卑たもんじゃなくてな、輝くような金の髪に紺碧の瞳の若い娘だとかって話だ」


 サチナは、手を組み、震え、祈りながらこの難事が去るのを待っていた。


(――ザング様……!)


 声にならない声でその名を呟いたその時、サチナの頭上から明るい朝日が降り注いできた。

 急激に明るく開けた視界に絶望的な想いで顔をあげると、驚きを隠せず口を大きく開けたままの男が二人、こちらを覗きこんでいた。



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