*15 密やかに練り上げる脱出の策

 翌朝、サチナは何事もなかったかのように目覚め寝台を出て、侍女たちの手伝いを借りて着替えを行う。

 季節は初夏に差し掛かり、着物は美しいの生地をふんだんに使ったあわせになっている。

 若干軽い着心地になったくんの色に合わせた髪飾りを着けてもらいながら、サチナは髪を飾り立てているユイハと密やかに言葉を交わす。


「水路以外に外に通じる道はあるの?」

「火除けの一環で隠し通路があるお屋敷もあると聞いたことがありますが……このお屋敷には井戸があちこちにあるので、それらしいものは……」

「そう……」


 サチナが小さく溜め息をつくと、ユイハは耳飾りをつけるふりをしてそっと囁いた。


「――でも、きっと出られる手段はあります。もうしばらくお待ちくださいね」


「ありがとう」と、サチナが微笑みながら言うと、彼女は見事に豊かな商家の娘の姿にしつらえられていた。



 それからサチナは、部屋を出られないために持て余すほどある時間を使って、引き続き部屋の本棚の書物を読み漁った。再びなにか脱出手段をひらめく手掛かりになるようなものがないか探すために。


「はーぁ……流石にお屋敷に関するものは置いてはいないようね」

「そうですねぇ、ゴウホウ様もお嬢様がご聡明であることはご存じでしょうからね。迂闊に外に出られるきっかけになりそうなものは置かないでしょうねぇ」


 部屋の掃除や食事の世話などの合間を盗み見て、ユイハもサチナと共に手掛かりになりそうな書物を捜してくれているが、一向に心に引っ掛かるようなものは見つからない。

 ユイハの言葉は誉め言葉になるのだろうが、今回の場合はあまり嬉しいとは思えそうにない。

 手当たり次第引っ張り出しては開いてみた書物が部屋の床に小さく点々と山になっている。二度三度と捲った書物も中にはあったが、さして成果はなかった。


「まーあ、お嬢様! こんなに出して何をされてるんです?」


 書物を探すのに夢中になっていたら、年配の侍女が部屋に入ってきたのも気づかなかったようだ。

 「ユイハまで一緒になって!」と、呆れられながら、二人は苦笑して書物の山の中から立ち上がる。

 侍女はユイハに書物を片付けるように言いつけ、サチナには午後のお茶を勧めて卓へ促す。

 卓の上には今日も珍しい果物が切り分けられて皿に盛られたものと、良い香りのするお茶が用意されていた。


「いつもながら珍しい果物ね」

「そちらは南方の森で獲れた太陽の卵と呼ばれる果物だそうですよ」

「ふぅん。じゃあ、南方からのお取引があったのかしらね」

「そうですねぇ。今日は店にそちらの果物と一緒に南方のお酒も届いてましたよ」


 ざっと見て合わせて一石(約百八十リットル)はあったのではないかと侍女は言い、酒は最近高値で売れるからまたゴウホウは大きな儲けを得るかもしれない、とも言う。

 サチナも月桂油の取引の後に食料品を購入して村へ帰ることがあるが、その際酒や醤油などの液体の調味料は大きなたるなどに詰めて購入していたのをふと思い出した。

 一石ほどもあったというのなら、きっと大量の樽が店に運び込まれており、そしてまた取引があって出て行くことが考えられる。


(――大きな樽が、出て行く……?)


 何かの兆しのようなものがサチナの頭の中に浮かびかけ、果物を食べる手が停まる。

 年配の侍女はサチナの様子に気づくことなく、お茶のお代わりを注いだり今宵の夕餉には南方から取り寄せられた食品が並ぶかもしれないなどと話したりしている。

 サチナはすぐに侍女の話に適度な相槌を打ちながら微笑んでいたが、視線は侍女の背後で書物の片づけをしているユイハに向けられていた。ユイハもサチナからの視線を察知し、小さくうなずく。

 そしてまた二人はそれぞれ平静を装って普段通りの態度を取り、再びこの部屋に二人きりになる機会をうかがうことにした。



 結局その日の間にサチナとユイハがサチナの部屋で二人きりになることはなかった。その晩の湯あみの介添えは別の侍女が担当し、ユイハは屋敷の他の場所での仕事を言いつけられていたからだ。

 寝台の布団の中に横たわりながら、サチナは昼間年配の侍女から聞いた話を反芻していた。

 合わせて一石ほどの酒を納めている樽はいくつほどあるのだろうか。

 酒は量り売りされるのか、樽単位で取引されるのか、その両方なのか。

 もし量り売りされるならいずれ空になるものが出てくるかもしれない。それはどこに行くのだろうか。

 翌日、サチナはユイハから詳しい話を聞くことにした。


「お酒は量り売りと、樽ごと売られる場合と二種類あります。量り売りはお家でお飲みになるお客様、樽ごとは飲み屋さんなどで出されるお客様が多いですね」

「じゃあ、樽で買われる場合は何か馬車などに載せて運ばれることがほとんどと考えられるわね」


 酒を大量に納められる樽は多少の差異はあれど、だいたい五~六斗(約九十~百八リットル)前後あり、その高さは大体三尺(約一メートル)ちょっとで、直径もだいたい同じくらいだ。

 小柄なサチナの身長がだいたい五尺強(約百五十センチ強)あるので、膝を抱え、背をできる限り丸めればなんとか中に入り込むことが可能と思われる。

 問題は、そう都合よく空の樽を手に入れられ、中に忍び込み、見つからずに運び出してもらえるかということだ。


「量り売りで空になった樽はどうなるの?」

「ほとんどはお屋敷の裏に置かれていて、香の物を作るのに使ったり、傷みがひどかったら割って薪にしたりしますね」

「香の物はユイハも手伝ったり作ったりする?」

「ええ、作り置きを取りに行って、お膳に出すこともありますよ。あと、薪割りも多少はします」

「そう……」


 サチナはユイハから従者たちがどのように不要になった樽を扱うかを聞き出し、そしてしばし考えこむ。

 今日は手許に刺繍道具を置き、刺繍をしているふりをして側仕えをしているユイハと小声で言葉を交わしながら策を練っているところだ。

 脱出する方法は大まかに定まってきた。あとは、どうやってそこに紛れ込むかだ。サチナもユイハも、それぞれに腕組みをして考え込んで思案している。

 香の物づくりは主に冬場に行われることが多く、いまは初夏であるため薪割りは暖を必要とする冬場ほど盛んにおこなわれない。

 とは言え、香の物の作る場合よりも、煮炊きに薪は必要なのでより空いた樽を利用する機会が多いのは薪割りのほうだろう。


「――ってことは、いまは薪割りのところに空いている樽がたくさんありそうね。そのうちの一つをどうにか拝借できないかしら」

「なるほど……それは良い案かもしれませんね」


 後でお屋敷の裏を見てまいりますね、とユイハは心得たように言い、それからは静かにサチナのそばに控えるように口をつぐんでいた。

 サチナもまたユイハの言葉に小さくうなずき、やりかけている刺繍に取り掛かり始める。その図案は燃える氷――氷と炎の精霊の血をひくあの男を象徴する図柄だ。

 図案の半分ほどを刺し終えたところで、部屋の入り口が騒がしくなる。

 サチナとユイハが顔をあげると、従者を引き連れたゴウホウの姿が見えた。


「やあ、ご機嫌はいかがだろうかお嬢様」

「悪くはありませんよ」


 サチナの隙のない笑みに、ゴウホウもまた微笑み、それは何より、とうなずく。

 ゴウホウはサチナが刺繍をしている長椅子の隣に腰をおろし、じっとその手許を眺める。視線は、途中まで刺繍をした乳白色の布に向けられている。


「これは……燃える氷、かな? 随分珍しい柄を選んだものだ」

「私の御守りなんです」

「ほう? それは貴女の心をも溶かすような熱いものなのかな?」

「ご想像にお任せしますわ」


 にこやかにゴウホウの詮索を交わすサチナの横顔を、ゴウホウは興味深げに笑みを浮かべて見つめているが、サチナは構わず刺繍する手を動かしていた。その指先には、紫の石が光っている。

 サチナとゴウホウの距離は一尺ほどの近いものがあったが、その狭間には決して越えられない見えない壁があるように思われた。それほどまでに、サチナはゴウホウから注がれる熱視線に心動かされることはなかった。

 しばらくゴウホウは刺繡をしているサチナを見つめていたが、密やかに片頬をあげて笑うと、やがて立ち上がった。


「では、これからまた商談があるので失礼するよ」


 サチナは去っていくゴウホウの背中をゆったりとした笑みで見送っていた。その内なる心にはもう二度と彼と逢瀬を重ねまいと決めていることを隠しながら。



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