*6 囚われの碧眼と揺れる兄の心

 通常の取引であれば、夜明け前に村を出て昼前後に乙巳の街に到着し、そのまま日中は商談となり、それから街の宿に一泊し、翌昼には村に帰りつく寸法だ。

 天候や商談の進み具合などによって街に泊まるのが二泊になることもなくはないが、それは年に一度あるかないかの稀な場合のみだ。


「――遅い」


 週に一~二度開かれる村の政が話し合われる寄合が終わって、祐筆役のフリトが記した議事録を見直しながら、グドが溜め息交じりに呟く。

 寄合の開かれた小屋の縁側でウーマの淹れてくれた茶を飲みながら議事録を読んでいたのだが、その前あたりからグドの表情は険しい。

 常日頃お人好しが服を着ていると言われるほど温厚でにこやかなグドであるのだが、ここ数日は傍から見てわかる程に苛立っている。

 珍しいこともあるものだと寄合に集う眉雪びせつ(議員のようなもの)達は密かに囁いているのだが、その真意を知るのは屋敷の者たちだけだ。


「惣領様、そんな怖い顔をされていたら村人たちが恐れて何も言えなくなります」

「……わかってるよ」


 フリトからのいつになく下手に出たものの言い方が癪に障り、グドは一層顔をしかめる。

 グドがこのところ不機嫌な理由、それは先程呟いた言葉に起因しているのだが、正直グド以外は大きく心を乱されている様子はない。


「わかっているなら、せめて眉間の皺をほぐしなよ。いつにないしかめ面してるから、眉雪の若手が臆して何も言えなかったじゃないか」

「……だって、もう二日だよ? いつもならとっくに戻ってきている頃だ」

「そうだけど……今回は難しい話になるかもしれないって最初からわかりきっていたじゃないか」

「こんなことなら無理強いしてでも付き添えばよかったな……」

「惣領様自ら出向くほどの話じゃない。こう言ったらあれだけど、たかだか月桂油の取引先を変更するぐらいだよ?」


 グドが苛立っている理由、それは月桂油を卸に行ったきり帰ってこないサチナの安否だった。

 通常ならそろそろ帰宅している頃合いなのに、翼ひとつよこさないまま二日が経過している。

 しかしフリトが言う通り、今回は少々難のある話――得意先であるゴウホウの店との取引を解消するための話をサチナひとりでしに行っているのだ。

 話がいつもより少しこじれているのかもしれないし、もしかしたらサチナはその足で新たな取引先を捜しまわっているのかもしれない。それでなくとも、馬車を使っての旅は正確な時間の予定が立て難いものである。

 数日程度の時間の差異は織り込み済みで待っていたらどうなんだ、とフリトがここ数日何度もグドに言って聞かせるのだが、グドの顔は晴れない。


「もうサチナだって十八だし、成人を迎えている。ちょっとぐらい旅の途中で寄り道して知見を広めたいと思うことだってあるんじゃない?」

「そうだったとしても、何の連絡もよこさないなんて……」


 やっぱり何かあったとしか思えない、といわんばかりに溜め息をついているグドを、フリトは呆れながら見つつぬるくなった茶を啜っていた。

 妹離れのできない困った兄貴だ……と言いたげな顔をしているフリトの冷たい視線にグドは伐が悪そうに俯いていると、どこからか羽ばたきの音が聞こえてくる。

 日頃見かけるちいさな鳥のたぐいにしては羽ばたきが強いと思いながらふたりが顔をあげると、見慣れた純白の鳩が一羽こちらに向かって舞い降りてきているところだった。

 白い鳩――グドは見覚えのある鳩の姿に妙な胸騒ぎを覚える。

 フリトが腕を差し出して鳩を招くように指先に停まらせ、そっと手慣れた様子で手早く足許の筒から手紙を取り出す。

 小さくたたまれた手紙を広げフリトがまず目を通したのだが、中身に目を走らせた瞬間、「え?」と、小さく声をあげた。

 グドがフリトの反応に首を傾げながら問うように目を向けると、手紙が差し出されてこう告げられた。


「――サチナが、あの商人の屋敷に捕まっている」

「なんだと?」


 フリトから手紙をひったくるように取り上げ、グドもそれに目を通す。そこには見慣れた達筆の文字で、『貴殿の妹君を預かった。解放して欲しくば条件を承諾せよ』という旨が書かれていた。

 表向きはサチナが屋敷に滞在して積もる話があるから逗留させているというように書かれていたが、それは体のいい幽閉であることは明らかだ。

 手紙にはさらにサチナの解放のための条件が綴られている。


「“一つ、取引を解消して彼女を解放する”か、“一つ、彼女と我と婚姻を結ばせて今以上の値で取引を続けていく”か……だって」


 フリトが手紙に綴られるゴウホウからの条件を読み上げると、グドは一も二もなく、「そんなの、サチナ解放を最優先に決まって――」と、口を開きかけたが、それをフリトが制する。


「待ちなよ、グド。ゴウホウの店はウチとの取引先で一番大きなところだ。そことの取引ができなくなってしまったら、乙巳での信用問題にも関わるんじゃない?」

「どういうこと?」

「ゴウホウの店が取引しているから、ウチみたいな小さな村の月桂油でも取引していいってところもあるんだよ、少なからず。だから、その信用の証しみたいな取引先との関りが切れちゃったら、乙巳で取引を続けていくのが難しくなるかもしれないじゃないか」


 たしかに、乙巳での取引はゴウホウの店での取引が軌道に乗り始めてから広まっていった印象がある。口伝てに月桂油の評判が広まるには、実際に買い取ってくれた店の後ろ盾も大きいのかもしれない。

 そうなると、そう言った後ろ盾とも言える取引先との関係の解消は、その分村の月桂油への信頼性も揺らぐことに繋がっていくことも考えられる。そう、フリトは危惧しているのだろう。


「向こうはサチナをほとんどさらってるようなもんなんだぞ?!」

「そうだけど、傍から見たら、サチナは自らゴウホウの許を訪れているし、元々向こうはサチナに好意的だ。求愛された挙句の逗留となっていたら、ただの婚前交流でしかないよ」

「待って、それってもうサチナがゴウホウの嫁になること前提ってこと?」


 サチナは以前からゴウホウの一方的な好意に困惑している節があったのを、グドも、きっとフリトも知っている。

 だから今回の取引を最後にするつもりでもあり、彼女は自ら出向いただけに過ぎないのだが、事情を知らない第三者から見れば、好意を寄せられている相手の許に自ら訪ねてしまうのはその好意に応えるようにも見えるのかもしれない。

 そんなつもりはないと主張しようとも、目に見える確証がないままでは、相手の領域に入ってしまっていては説得力に欠けてしまうとも言える。その点もフリトは危惧しているのだ。


「向こうは、こっちが財政の面で易々と取引を解消できない小さな村であることの足許を見ているんだと思う……だからこれは、ほとんどサチナを嫁に迎えることが前提なのかも」

「そんな……」


 グドは兄として妹の解放を最優先させたい思いが強かったが、それは村の懐事情に響きかねない事態もはらんでいる。

 政略的な事情で、身内を本人の意思に関係なく婚姻を結ばせることは珍しくない話だ。村の長であれば、村が豊かになることを最重要に考えていくのが責務とも言える。

 ずっと貧しかった村の財政が徐々に潤い始めている昨今に置いて、豪商の家との婚姻は村に良い福音をもたらす可能性も考えられる。その一つが、月桂油の取引の値を引き上げてくれるという条件だ。

 弱小とも言えるこの村にとって、数少ない産業がより発展していく好機がいまなのかもしれない。この先村が豊かになっていくために、サチナはこのままゴウホウの許に嫁がせるべきなのかもしれない。

 しかし――グドはそれが本当にサチナにとっての幸いに繋がるとは思えなかった。

 村の長としては落第点の感情で物事を捉えていると言われてしまうだろうし、冷静なもう一人の自分もグドに長としてあるべき姿を問うように見つめてくる。

 グドは、突如降って湧いた難事に大きなため息をついて頭を抱えていた。


「どうすればいいんだろう……村のみんなにとってはきっと、サチナが嫁入りする方がいいんだろうけれど……」


 苦々しい思いでグドは呟き、フリトから渡された手許の手紙を眺めつつ端を握りしめていく。

 こちらの足許を見るようなやり方で強引に、一方的に話を進めてくるゴウホウのやり方に、グドはどうしても納得がいっていなかった。

 こんな、半ばだますような形でサチナを捕らえ、そのまま本人の意思に関係なく婚姻関係を結んでしまうことが、果たして本当にサチナの将来を明るく照らすとは思えないからだ。

 俯いて考え込むグドの手に、フリトがそっと自分のものを重ねてくる。顔をあげると、フリトもまた険しい顔をしている。


「まだこのまま向こうに言われるまま条件を呑むことはないよ。まずは、解放してもらえるように話合いを持掛けよう。そして出来たら、条件を譲歩してもらおう」

「……そうだね」

「こんな一方的すぎる取引がまかり通ってはいけない。長として、それは毅然として立ち向かうべきだ」


 フリトの赤い眼が燃えるように輝いてグドを見つめ、彼のふさぎ込みそうだった心を溶かしていく。

 グドはそっとフリトの手を取ってうなずき、ゴウホウとの話し合いを持つべく準備に取り掛かることにした。



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