*5 箱入り娘に待ち受けていた箱庭
乙巳の街へは陽寿族の村から馬車で半日ほど行った、国の中心部を流れる
川を使っての交流が盛んで、西の都各地からの生産物が行き交う活気ある街でもある。
そのためあらゆる商品を扱って販路を作って成功をした商人が多く、豪商と呼ばれる羽振りの良い家もいくつもあるのだ。
ゴウホウの父・イーサンもその内の一人で、かつては小さな乾物の卸売りをしている商店だったのが、いまでは乙巳の中心部に大きな店を構え、西の都の各地に支店をいくつも持つほどだ。
「うん、今回の月桂油も素晴らしい。これならきっと半月もしない内に売り切れてしまうだろう」
「ありがとうございます」
晩春の汗ばむような陽射しの午後、サチナはゴウホウが経営を任されている店の応接間で月桂油の取引を行っていた。
晩秋から冬にかけて収穫して搾り取った新鮮な月桂油は乙巳の街の食堂や屋台などにも評判がいいとゴウホウは言い、今回もまたサチナが持ち込んだ分すべてを買い取りたいと言ってくれた。
村の月桂油は良質である自信はあるが、生産量が他の地域に比べてどうしても劣ってしまう点がある。質を売りにして高値で交渉したくもあるが、馴染みのない商人相手にそれはたやすくはない。
その点を考えると、ゴウホウが持ち込んだ分すべてを買い取ってくれるのはサチナにはありがたい話ではあった。
「こんなに良質なのだから、もっと卸値を上げればいいじゃないか」
「でも、ウチのようなちいさな生産地はそこまで強気に出られませんから……」
「そうかなぁ。俺なら倍の値段でも買うけれどな」
「それは、ゴウホウ様がウチの月桂油を御贔屓だからですよ」
「そりゃあ、貴女のような美しい方が苦心して作っているんだ、その価値は計り知れない」
「…………」
まただ、とサチナは内心溜め息をつく。ゴウホウは村の月桂油には価値があると言ってはくれるが、それはサチナの容貌の美しさによるものだと暗に言うのだ。
村の月桂油の得意先であり、取り扱いも良くしてくれるけれども、サチナはゴウホウの言動が好きではない。
ゴウホウの狙いは、村の良質な月桂油ではなく、それを扱い運んでくる彼女にある下心が透けて見えているからだ。
いまは店の者も出入りする場所だからか、ゴウホウは紳士的なふるまいをしているようだが、先日突如前触れなく村に現れたり暑苦しい翼をよこしたりしたように、彼はサチナに好意を寄せている。それも、かなり熱烈に一方的に。
こうして卓を挟んで、侍女が出してくれたお茶を飲み交わしながら商談を進めている間も、ゴウホウの視線はサチナにもの言いたげに投げかけられている。
「サチナ、今回の月桂油、先ほどの値より十倍で買い取りたいんだけれど、どうかな?」
「十倍?! よろしいんですか?」
「ああ。ここ最近の中でも最上の出来栄えだと思うからね。さっきも言ったとおり、今日持ってきてもらった分はすべて十倍の値で買い取りさせてもらいたいんだ」
思ってもいない申し出に、サチナは腰を浮かせそうになった。サチナもまた、今回の月桂油の出来は上々だと思っていたので、それを買い取り先から申し出てもらえるのは願ったり叶ったりだったからだ。
こちらが想定していた十倍の値で買い取ってもらえるなら、まだ整えられていない月桂樹畑の奥の水路を整備できるかもしれないし、手作業で行っている精油の工程での便利な道具を買い揃えられるかもしれない。捕らぬ狸の皮算用と知りつつも、サチナは広がるささやかな希望に笑みを浮かべる。
ぜひその方向で取引してもらいたいとサチナが口を開きかけた時、卓に頬杖をついてこちらを見つめているゴウホウがにこやかにこう言葉を続けた。
「その代わり、サチナが俺の嫁になってくれるなら、この先も村の月桂油は巷の倍以上の値で取引させてもらってもいい。今回は御祝儀に十倍でどうだろう?」
「嫁? 御祝儀? ……どういうことです?」
「どういうもなにも、言葉のままだよ。前から言っているように、俺は貴女が欲しいんだ。そのためなら、月桂油をいくらでも買い取ってあげるよ」
自分の言葉にサチナが怒りを通り越して呆然としているのを、ゴウホウは微塵も気付いていないのか、普段店にやってくる他の女性客たちに見せるような爽やかで曇りのない――自分の考えや言葉に相手にとっては悪意が出るなどと考えたこともない――笑顔を見せている。
しかもその手はちゃっかりと卓に置かれている右手に触れてくる。あの紫水晶の指輪を嵌めている手だ。
なんておめでたい頭をしている方なのだろう……世の中の流れや出来事は自分を中心にしていると疑っていない、幼子よりも
そして何より、こんな者にとってはサチナのような自ら背負うもののために日々努力を惜しまず粉骨砕身している人間の言葉は響かないのだ。
こちらが誠意持って応じていれば、その内に自分のことを対等な取引相手としてみてくれるだろうとサチナは考えていた。先日グドらには今回の取引を最後にするとは言っていたものの、ゴウホウの出方次第では取引を継続してもいいとさえ考えていたのだ。
何と言っても、彼の店との取引は大きな益を生んでいることに違いなく、それを自分の私情絡みで失ってしまうのはあまりに惜しいとも思っていたからだ。
しかし、それも無駄骨でしかないようだとサチナは痛感していた。
(――この方は、あたしを対等の取引相手に見る気なんてさらさらないんだわ。しかも、こことの取引がなくなったら村が困ることを知った上でこんなことを言ってくるし……)
溜め息すら出ない、こんなにも馬耳東風で、一見やさしそうに見えて無神経なゴウホウの振る舞いに、サチナはほとほと愛想が尽きていた。
しかしその分、後ろ髪を引かれることなく切り出すことができるだろう、とも思い、サチナは俯いていた顔を上げる。右手には、相変わらずゴウホウの指先が触れ、そしてちらりと紫のそれに目を向ける。
「――お断りいたします」
「……何故?」
「あたしは、月桂油の取引をしにゴウホウ様の許に来ているのであって、お嫁にして欲しいわけではありませんから」
「だから、その御祝儀に十倍の値でって言ってるじゃないか。ウチぐらいの値で買い取ってくれる店なんてそうそうないだろう?」
「…………」
「悪いことは言わないよ、俺と婚姻を結んで、村の月桂油を西の都中で売りさばこうじゃないか。それならサチナも文句ないだろう? その方が村のためになるんじゃないのかい?」
ゴウホウはじんわりとサチナの手の甲辺りまで指先を這わせながらそう言葉を並べ立ててくる。
小さな村の主幹産業は、ようやく軌道に乗り始めたばかりの月桂油だ。その大きな取引先であるゴウホウとの縁が切れてしまえば、新たな取引先を見つけ出すまで村の財政は困窮してしまうかもしれない。
新たな取引先を見つけ出せても、いまのような値で取引できるとは限らないという不安も残る。
そんなのっぴきならない村の事情とサチナの立場の足許を見て、ゴウホウは彼女に婚姻を迫っているのだ。
爽やかで人当たり良く、
しかし、当のゴウホウは全く意に返すことなく、そのにらみつけてくる視線さえ楽しんでいるようだ。
「……卑怯な」
「商売なんてね、どれだけ法に触れない程度に汚いことをするかということなんだよ、サチナ。卑怯だと思うのは、貴女がまだまだお嬢様感覚でいるに過ぎないからだね」
「…………ッ」
サチナの手を、ゴウホウが包み込むように握りしめながらそう囁き、ゆったりと笑いかけてくる。先程まで好青年のそれだと思っていたものは、薄汚い性根でサチナを商品のように値踏みしてくる悪徳の商人のものだ。
(……あの方なら、ザング様なら、こんなひどい言葉は言わないのに……)
先日のザングからの言葉も胸に、自分なりに信念も持ってこれまでも月桂油の取引を行ってきていたのだが、それを頭からお嬢様感覚だと嗤われて、サチナは腹わらが煮えくりかえる思いだった。
しかし、それに強く反論できるほどに自分はお嬢様感覚でこの場に立っていないと言い切れる確たるものがない気もして、サチナはただ唇を噛んで俯くしかない。
そんな彼女の胸中を見透かすように、ゴウホウは触れていた手先から手を離し、俯く頭に触れて撫でてきた。
それはさながら幼子にするような態度と同じで、サチナは屈辱感を覚えずにはいられない。
「どう? 俺の嫁になる気になった?」
「……誰が、お嫁になんて」
「頑固だねぇ。その頑なさ、嫌いではないけれどちょっとかわいげがないね」
「お誉めいただき光栄です」
「まあ、どうするのが一番自分のためになるかはもう少し考えた方がいいな。おーい」
ゴウホウが微笑みを一層深くしたと思うと、突然店の奥の方に声をかけた。
声のした方からは店に仕えていると思われる従者の男女が三人ずつ現れ、ずらりとサチナが座している周りを取り囲む。
何が起きようとしているのかサチナが把握しかねて囲む者たちの顔を覗っていると、ゴウホウはパン、と手を叩いてこう言い放った。
「お嬢様がしばらく自省のためにご滞在だそうだ。手厚くもてなしてやってくれ」
「え? 待ってください、なにを言って……」
「さ、お嬢様、参りましょう」
従者たちは決してサチナに乱暴に触れるような真似はしなかったが、有無を言わせない無言の気迫で彼女を促し、応接間から別室へと連行していく。
(そんな……あたし、帰れないの……?)
抗う機会も逸してしまったサチナは、促されるまま店の奥にあるゴウホウの屋敷の中へと消えていった。
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