*7 囚われの蝶と箱庭の景色

 サチナの自室はおそらく十畳にも満たないほどの広さであったかと記憶している。屋敷ではあるが古い土壁に黒瓦をいた、冬場は隙間風で凍えてしまいそうになるほどだ。

 だけど――さすがと言うべきか、ここは同じ屋敷という部類でも自分の家とは格が違うのかもしれない、と、サチナは白磁色の天井を見上げるたびに思うのだ。


「お嬢様、何かお召し上がりになりたい物や、お召しになりたい着物はございますか?」

「……ありません。それから、あたしはお嬢様ではないの。サチナという名前が――」

「申し訳ございません、旦那様からどうしてもお嬢様とお呼びするようにと命じられておりまして……」

「……あ、そう」


 こうしたやり取りを、もうあの日から何度繰り返したか。サチナは朱塗りの派手な卓に頬杖をついて溜め息をつく。

 記憶が正しければ、サチナがこの屋敷――ゴウホウの営む食品を卸売りしている商店の奥に構えられている、広大で派手で立派な造りの屋敷――に囚われてから三日目になろうかという頃だ。

 囚われているとは言うが、先ほどの中年のころ合いの侍女をはじめとしてニ~三人の従者を世話係につけられ、留め置かれている部屋はサチナの自室よりも立派な内装の一室なのだ。

 しかし、玻璃はりを嵌め込まれた窓はあって中庭の景色は見えるものの街の様子を窺うことはできず、もちろん屋敷の中を自由に歩き回ることは叶わない。常に侍女が部屋に駐在していて、部屋付きの箱庭のようなちいさな庭先に出るにもついてくる有様だ。


(あの方はあたしを奥方にとお考えのようだけれど、まさか、婚儀を済ませた後もこんな生活を送らないといけないの?)


 普段月桂油の材料である月桂樹の実をいっぱいに詰めた桶などを抱えたり、自分の身の丈ほどあるような搾油の器具を扱ったりしているのに、ここに来てからは食事時の匙や箸以上に重たいものを持たせてもらえなかった。

 着替えすら一人でさせてもらえず、眠る際も傍らに侍女の誰かが付き従っていて心が休まる気がしない。

 その上侍女らは揃いも揃ってサチナを「お嬢様」と呼び、決して「サチナ様」とは呼ばないことも、サチナの気を滅入らせている。

 呼ばれるたびに、こんなの自分がお嬢様という着物を着た人形でしかないと言われているみたい――と、彼女の中の矜持が、ゴウホウへの苛立ちと共にくすぶっていく。


「もう菓子はお召し上がりになりませんか?」

「ええ、いらない。あなた方で食べちゃって」


 朝食から数刻後に用意されたお茶とお菓子も、村では見たこともない砂糖をふんだんに使われたもので美味ではあったが、心から味わう気にはなれない。

 末妹のアズナが見たら喜んで頬張るだろうか……そんなことを思い浮かべてひっそりと苦笑したが、すぐに笑みには溜め息が混じる。

 もう三日、家に何の連絡もできていない。部屋に連れてこられてすぐに侍女の一人を捕まえて翼を村に飛ばしたいと言ったのだが、曖昧に言葉を濁されて叶っていないままだ。

 きっとグドをはじめとした家族は心配していることだろう。それでなくとも、今回取引に行くこと自体グド達は良い顔をしていなかったのに。


「……考えが甘かったんだわ」


 今更ながらに自分の危機感の薄さを悔やむも、事態は好転するような様子もない。

 部屋には広い壁一面にしつらえられた立派な本棚があり、そこにはサチナの屋敷の書庫にも劣らない蔵書が並んでいる。

 サチナが箱庭のような窮屈な幽閉生活で心が腐らずにいられるのは、この膨大な書物のおかげでもあった。ありとあらゆる部類の書物が揃っていて、もちろん月桂樹に関する本もある。

 ゴウホウは人としてはいささか妙な点が気になるが、商売人としてはかなり勉強家でありやり手でもあることが伺える。


(商売相手としては有能な方であることは違いないんでしょうけれど……伴侶にするのは少し考えものなのよね……)


 闊達な人柄がかすんでしまうほどにサチナにご執心でなければ、今回のような取引の解消は申出なかったのに、と、サチナは落胆したように息を吐いた。



 昼餉を終えて数刻した頃、サチナが古来の戦術を記した読み物を長椅子に腰かけて目を通していると、彼女にとって諸悪の根源とも言える人物が部屋を訪ねてきた。

 部屋に連れてこられてから、それまでよりも数段質のいい布の服を着せられているサチナを見るなり、ゴウホウは、「やはり俺が選んだ布は間違いなく貴女に合う。あんな粗末な袍や裙では貴女の美しさはくすんでしまう」と、上機嫌だ。

 「それはどうも」と、サチナは苦笑交じりに礼だけは述べる。大切にされているのはわかるが、いささか窮屈に思えるからだ。


「どう? 少しは考えが変わったりしたかな?」

「考え、と言いますと?」

「いやだなぁ、俺と夫婦になる話だよ。ここにいればこういうきれいな着物も着放題だし、美味いものも食べ放題だ」

「べつに、あたしはいつもの袍や裙で充分ですし、食事もそんなにぜいは好みません。いまの暮らしで充分です」


苦笑してやんわりゴウホウからの口説きを拒むサチナに、「頑なだなぁ」と、ゴウホウは大口を開けて愉快そうに笑うが、サチナには何も面白くない。「お誉めいただき光栄です」と返すに留めるしかない。

そしてまた手許の書物の図案に目を落とし、口をつぐんでいると、ゴウホウは黙ってサチナが座る長椅子の隣に腰をおろしてきた。

ちらりとサチナが横目で見ても、ゴウホウはただにこやかに彼女を見つめている。


「今日、西南の街で貴女の瞳のような色の蝶を見かけた。捕まえてこようと思ったが、逃げられてしまったよ」

「そうですか。でも、野生の蝶は自由に飛び回ってこそ美しいのかもしれませんね」

「そうかな? ここには南方の甘い蜜の花もたくさんある。ここに放せばここは楽園のようになるだろう」


 それを貴女に見せたい、などと言って微笑んでくるゴウホウの姿を、サチナは半ば呆れた想いを込めて一瞥いちべつする。しかし当の本人にはこたえていない。

 ゴウホウは今日西南の街で見聞きした光景や話を情感豊かに話してくれているが、どれもサチナの胸に大きくは響かなかった。

 贅を尽くした屋敷や部屋を与えられ、美しく着飾れる日々は、貧しい谷あいの村で埃や泥にまみれて畑仕事をするより格段に気楽なものかもしれない。

 サチナは日々の野良仕事や精油所の作業などで細かな傷だらけだったはずの手に目を向ける。いまその手は侍女らに薬湯で丁寧にもまれて爪は磨き上げられて光ってもいる。

 正直に言えば、ここでの暮らしは夢物語の中のようだとサチナは思う。綿入りの絹の布団に横たわり、美味しくて珍しいものが並ぶ食卓を毎日用意され、部屋の掃除すらしなくていいのだ。

 でも――ここには自分を慕う妹も、母親よりも口うるさい料理上手な乳母やも、父のように見守ってくれている兄とその伴侶もいない。誰一人として、彼女を「サチナ」と呼んで接してはくれない。

 あの紫の目の彼だって、自分をちゃんと名前で呼んでくれたのに。それを、サチナは指にはめた指輪を見るたびに思うのだ。

 この男にとって、妻をめとるということは蝶を捕らえるのと同じことなのかもしれない。そう、サチナは思い、心が陰るような思いがした。

 ぼんやりと聞き流していたゴウホウの言葉が途切れたのに気づき、サチナが顔をあげると、ゴウホウが変わりなく、しかし少し何か含みのあるような――いつもよりのように好意を前面に押し出したものとは違う――表情をして彼女を見つめている。


「ひとつ、良いことを教えてあげよう」

「良いこと?」


 問い返すサチナに、ゴウホウはゆったりとうなずき、そして彼女が小さな子どもであるかのようにゆっくりと一言ずつ置くようにそれを告げた。


「貴女の村から、明日、使いの者が来るそうだ」

「え、それって……」


 自分をここから解放するためには、取引を止めるか、自分を嫁として差し出すかのどちらかを選ばなくてはならないはずだ。

 その報せの翼は彼女が囚われてすぐに飛ばされたと侍女らに問い詰めて何とか聞き出したが、それからの仔細は不明だった。

 村から使いの者が来る。それは長であるグドではないだろうが、一族の内の誰かがここに向かっているのはたしかだ。

 グドらはサチナがゴウホウの好意に困惑し、それによる脅しにも近い不公正な取引に応じたくないと思っていることも知っている。

 それならば、きっと使いをよこした目的はただ一つしかないと思われる。サチナは、一縷の望みが光明のように射し込んできているような気がし、密やかに笑んだ。

 帰れるかもしれない……と、安堵できる望みが得られそうではあったが、ゴウホウはまだ何か言いたげだ。

 「……なにか?」と、軽くにらむように見返しても、やはりゴウホウは臆することはなく、「いや、ようやく貴女が笑ってくれたと思って。とても愛らしい」と、嬉しそうに笑うのだった。

 与えられるだけの好意に答えようとしない自分をただただ愛でているばかりなこの男に付き合わされるのもあと一日の辛抱だと思えば、何とかやり過ごせる気がして、サチナはゴウホウの言葉を黙殺する。

 サチナに無視される態度を取られたゴウホウは軽く肩をすくめて、「ではまた」と言って部屋を出て行った。

 控えていた従者を引き連れて部屋を出て行く大きな背中を、サチナは複雑な胸中で見送った。



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